日本における養蚕の起源 魏志倭人伝からⅢ | カイコ・蚕・蠶・回顧

日本における養蚕の起源 魏志倭人伝からⅢ

 読んでいただいた方には申し訳ないのですが、いつもだらだらと書いているようで・・・。今日もまた魏志倭人伝からです。参考図書で書き忘れているのがありましたので追記しておきます。岩波文庫以外に、1.魏志倭人伝では佐伯有清著「魏志倭人伝を読む 上・下」(2000年)吉川弘文館 及び2.佐原 真著 歴博ブックレット「魏志倭人伝の考古学」(1997年)財団法人 歴史民俗博物館振興会を参考にしています。 謎は4年後と前回に書きました。

 さて、お話は239年から243年に飛びます。「その四年(正始四年)、倭王、また使大夫伊声耆(イ・サン・ガあるいはイ・セイ・キ)、掖邪狗(イ・サ・カあるいはエキ・ヤ・ク(下線は佐伯有清著「魏志倭人伝を読む 上・下」によっているが辞書そのままの読み方)等八人を遣わし、生口、倭錦(倭で織られた錦あるいは中国で織られる錦とは模様が異なる雑多な錦:といっても錦ということは色々な色の糸を使って織っている絹織物を指します。)、絳青縑(縦糸と横糸が異なる糸を用いた織物。玉虫織ともいわれ、見る方向やウェーブのかかり方で色が変化する織物。この場合は赤糸と青糸を使っています。)、緜衣(真綿の入ったとっても暖かい着物と考えられます。)、帛布(碧玉のように美しい白絹)・・・を上献す。・・・。」書かれているのです。伊声耆、掖邪狗の読みや誰を指すのかも問題ですが、わずか4年前には班布しか貢物として持って行かなかった倭の国が、4年後には倭錦、絳青縑、緜衣、帛布といったかなり進んだ織物を貢物として持参しているのです。4年で習得できるような技術的問題ではないのです。何故なんでしょうか?大いに疑問です。私はこれは卑弥呼の外交戦略だと考えています。そのように書いてある本は無いので、新説ということになるのでしょうか。今の外交交渉でもよくありますが、まず最初はえらく下手(したて)に出たのではないでしょうか。実力はそこそこあるにも拘らず、敢えて劣等国として下手に出る。そして4年後、今度は魏の国の御蔭で倭国はこれほどまでの産物を提供することができるようになりました。これも偏に魏の御蔭です。これからも倭の国を宜しくお願いいたします。と・・・。なぜなら、さらに4年後、正始8年の記録として、倭国の卑弥呼と狗奴国の男王の卑弥弓呼(ヒ・ミ・キュウ・コあるいは卑弓弥呼ヒ・コ・ミ・コの誤り説)が不和状態で、魏からの応援あるいは調停を求めていることが書かれているのです。卑弥呼の外交戦力というか駆け引きは魏のそれよりも勝っていたのかもしれません。そんなことを考えると歴史がとっても面白く見えてきます。

 さてさて、魏志倭人伝はこの後卑弥呼の死を迎え、終局に向かいます。如何でしたか魏志倭人伝は? 邪馬台国論争や卑弥呼にかかわるというだけでも結構面白い本です。もし読もうという気になられたら、現代語約や解説の書かれている本をお勧めします。

 次回は布目先生独壇場の遺跡から出た遺物についてお話を進めます。