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「フランス18世紀の啓蒙の時代を代表する哲学者」ディドロの「最晩年の傑作」小説。「この地上でわれわれに起こることは善いことも悪いこともすべて、天上にそう書かれている」という「運命論」を語る「従者」のジャックとその主人(貴族)の旅の顛末は……というストーリー。旅は主人の「用件」を果たすため、らしいのだが、それがどのようなものであるかは小説では語られない。この小説のテーマは、“「出会い(巡り合わせ)」の綾”である。旅の道中で、主人はジャックに「(ジャック自身の)恋の話」をさせるのだが、旅の最中に遭遇する出来事や出会う人々が語る「長話」や「主人の場違いな質問」などで毎度のように「恋の話」は中断される。予測不能な「運命」さながら、「飛躍と逸脱の連続からなる」物語構成となっている。
この小説は、「十八世紀ヨーロッパの王侯貴族を中心に回覧された雑誌『文芸通信』において、一七七八年十一月から一七八〇年六月にかけて連載された作品」に、「ディドロが後年書き足した」ものである。18世紀の読者たちは、ジャックとその主人の旅の物語という枠組み(知恵の働く「従者」と少し頼りない「主人(貴族)」というキャラクターの組み合わせは、当時の人々にとっては恋愛劇などでお馴染みのパターンだった)の中に盛り込まれた各エピソードを、当時よく読まれたり鑑賞されたりしていたピカレスク(悪漢)小説・人情喜劇(登場人物のほとんどが庶民階級で、世情・人情を題材とした喜劇)・コント(小話=教訓・哲学・風刺・恋愛などテーマは様々)・ポルトレ(肖像=ある人物の特徴的な性格や、“守銭奴”などの典型的な性格を描き出す。生き生きとした人間観察が魅力)・心理小説(特に、恋愛心理の微妙さを分析的に描いた小説)などのパロディとして楽しんだだろう。
このような、小説中に盛りこまれた数多くのエピソードは、「「出会い」というこの小説の主題」と関連している。とはいえ、庶民階級に関するエピソードでは、ドタバタ喜劇的なもので、面白くてもあまり深みは持たされていない。もう一方の貴族階級とその周縁(「従者」や「使用人」や「聖職者」や宿の「おかみ」など。庶民階級のコミュニティと貴族階級のコミュニティを行き来したり、結び合わせたりする。貴族を狙う「詐欺師」であるド・サントゥアン騎士は、犯罪者仲間の(いかがわしい)コミュニケーション網とも深く関わる)の人びとに関するエピソードでは、「出会いのテーマ」が「運命」と深く関わっているのである。
この小説では、「運命」が「出会い」をもたらし、「出会い」は「情念」を生みだすのである。(あくまでも「出会いのテーマ」は小説の物語構成上のものである。本作においてディドロは「運命」全般についての見解を示しているわけではない。とはいえ、大概の人々が“自然の法則は、神の善性による摂理(=人間に対する好意や警告)が現されたものなのだ”と考えていた18世紀にあって、ディドロは“自然の法則による原因と結果の連鎖が、必ずしも人間にとって有用なものとは限らない(自然の法則自体は、神の摂理などとは、それほど関係がない)”と考えていた――ということから広げて考えれば、ディドロの「運命」全般に対する見解は宗教色の薄いものであったろう、と思われる)
淑徳の誉れが高いド・ラ・ポムレー夫人は、(地位や金銭などに対する)欲得度外視の恋愛気質の持ち主であると同時に飽きっぽい性格でもあるデ・ザルシ侯爵と出会い、復讐心を燃え上がらせる。軍人である隊長は、無二の親友(隊長と同等の力量とよく似た気質の持ち主)と出会い、深い「友情」の念と同時に相手の力量に対する「嫉妬」心を強烈に抱く。ユドソン神父は、「高潔な聖職者と並外れた好色漢を同時に体現する謀略家」であり、真面目な修道士志望のリシャールは、神父と出会うことで厄介な立場に立たされる。気分屋ではあるが気の良い(ジャックの)主人が出会ったド・サントゥアン騎士は、「詐欺師」として美人局を仕向けて金銭をせしめるのと同時に、主人を愚弄することに奇妙なほどの情熱を傾けているのである。
「曖昧に宙づりにされるジャックの恋の物語を除けば、この小説のなかで描かれる出会いは決して幸福な結末に至ることなく、むしろ異様で、残酷で、それゆえにいっそう痛切でもあるような裏切りや陰謀に行きついてしまう。そこで問題になっているのは、ひととひととの出会い以上に、ひととひととのすれちがいなのだ」と、本書で解説がなされているが、この「すれちがい」は“「情念」が望ましくないあり方で発動してしまう「出会い(巡り合わせ)」”なのである。
このような悲しかったり不当であったりする出来事の話を聞くたびに、「運命論者ジャック」は悲憤慷慨する。「あなた(読者)や私(この小説の語り手)と同じく、ジャックもまたしばしば首尾一貫せず、自分自身の原則をけろりと忘れがちだったので、むしろ自分の哲学に明確に従うのは例外的な状況においてだけでした。そしてそんなときに、これはこうなるべくしてなったのだ、そう天上に書かれていたのだから、などと彼は口にしてみせるわけです。彼は災難を前もって防ぐことにやっきになり、慎慮などというものをまったく馬鹿にしきっているにもかかわらず、あくまでも慎重にふるまいました。そして何か事件が起こると、例の決め台詞に立ち帰っては自分を慰めるのでした。ともかく、この男は善良で、素直で、誠実で、勇敢で、献身的で、忠実で、とても強情で、そしてそれ以上におしゃべりでしたが、あなたや私と同じように、自分の恋の話を始めてみたもののそれを語り終えるあてもないので、頭を痛めていたのです」。
そんなジャックが「自分の恋の話」を最後までできるのか、そして主人との旅の顛末は……については、ぜひ本書を読んで確かめてほしい。ところどころにディドロらしい哲学的な考察が挟まれていたり深刻な様相を呈するエピソードがあるのだが、全編にユーモアが漂っているせいか、飄々とした味わいのある小説になっている。
筆者が全て把握していて、淡々と物語を進めて行くという多くの現代小説の型式に慣れていると、この本は滅茶苦茶である。筆者が登場するし、聞き手(読み手)の苦言まで述べられる。本筋はどこにあるのか。ジャックの恋の経緯ではなかったのか。宿屋のかみさんが語りだしたり、隊長がどうしたこうしたとか、逸脱が凄まじく、そこら辺を面白がらなければいけないのだろう。
登場人物が語っている話がじゃまされたりして横道にそれながら進行していくかたちのお話。
その手法は当時は珍しかったのでしょうが、今はそうでもなく、4コマ仕立てのエッセイ漫画などでなじみ深いものです。
文章はとても読みやすく、最初は「手法(書き方」)しか見えないのでさらさら読んでいけるけどこれ長くないもう終わりでいいよと思いもしましたが、途中からお話がおもしろくなってきます。(宿屋のおかみさんが話しはじめるあたりでしょうか)。苦痛と退屈のかたまりである前衛的、実験的書物のなかでは圧倒的におもしろいです。
エッセイ漫画がそうであるように、世の中って小さなエピソードがたくさんあって、それを体験する人がひとつにつなげて意味を考えだすんですよね。他人にとってはこじつけに見えても、本人にはリアルなのです。良くも悪くも運命だったのです。