稲目の正体 11 豊彦王は実在したか

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承前

 推理「小説」の世界に於いて「犯人探し」をする場合、その出来事・事件の結果「誰が最も利益を受けるか」を目安にするそうなのですが、一族のホープ(厩戸皇子)の子孫全て、そして一族の大王(崇峻天皇)を排除する行為が「蘇我氏」に一体どのような「利益」を齎すものだったのでしょう?

 一旦は孝徳に大王の位を譲った皇極帝が重祚して斉明となった初めの年夏五月、

  空中(おおぞら)にして龍に乗れる者あり。貌、唐人に似たり。
  青き油の笠を着て、葛城嶺より、馳せて生駒山に隠れぬ。

 変事があったと日本書紀が記していますが『扶桑略記』は、この本文を引用した後に『時の人言う、蘇我豊浦大臣の霊なり』と書き加え、また『帝王編年記』は更に『人が多く亡くなり、此れも霊の仕業だ』と言明しています。蘇我「入鹿」の最期に立ち会った皇極・斉明帝は七年七月に朝倉宮で亡くなりますが、その直後「皇太子」(中大兄皇子)が喪に奉従したあと岩瀬宮に至った其の夕方、

  朝倉山の上に、有りて、大笠を着て、喪の儀を臨み見

葬儀に参列した『衆(ひとびと)』皆が不審に思ったとも記録されています。大悪人であったはずの「蝦夷・入鹿」親子が、自分たちを亡き者にした人々の前に姿を見せたのは、どのような理由があったのでしょう?

 京都、昔風に言うと山城国葛野郡に大酒神社が鎮座しています。社のお名前は元々「大辟(おおさけ)神社」であったそうなのですが、ここの主祭神は「秦始皇帝」「弓月王」と「秦酒公」の三柱。弥勒菩薩像で余りにも有名な広隆寺の創設者であり、先に、上で見た「常世の神」を懲らしめた秦河勝は酒公の六代目に当たります。つまり「大酒」神社は松尾、伏見稲荷の両社と並んで秦一族の祖神だと考えられているのですが、江戸末期の国学者・鈴鹿連胤(姓は中臣、1795~1870)が著した『神社覈録』(全75巻)によると、別な祭神の名前が浮上します。それが、

  安閑天皇の御子・豊彦王と弓削物部守屋大連

の二人なのです。更に大辟神社そのものが、元々は東方1kmにある木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)の分社だとする言い伝えも残されているようです。蘇我「稲目」の娘であった堅塩姫が産んだとされる二人の大王は、それぞれ、

  用明天皇=橘日天皇  推古天皇=御食炊屋姫天皇

そして「蘇我氏」一族の中で最も「国民」全てに慕われたとされる「聖徳」太子、厩戸皇子の名前は、

  上宮聡耳皇子

でした。皆さんは、これらの人物に共通する「」の一字を単なる偶然だと思われますか?それとも、何かを私達に伝えようとする古代人からの暗号なのでしょうか!壬申の乱(672)から二十年目に当たる持統五年八月、朝廷は有力十八氏族の長に対して『その祖等の墓記を上進』するよう命じました。日本書紀の編纂に取り掛かるための布石でした。では、中臣連胤の著書の画像を紹介して、とんでも物語を終えることにいたします。
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(おしまい)







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