「ままもう パパとママにいわれなくても しっかりと じぶんからきょうよりかもっともっとあしたはできるようにするから もうおねがい ゆるして ゆるしてください おねがいします もうおなじことはしません ゆるして」
2018年3月、東京都目黒区で、船戸結愛ちゃん(当時5歳)の虐待死事件が起きた。
親が毎日午前4時に起こして勉強を強いたり、感情にまかせて顔面を殴ったり、冷水を浴びせかけたりするといった凄惨な虐待の末に、栄養失調がもとで敗血症を起こすなどして死亡したのである。そんな結愛ちゃんが残したのが冒頭のメモだった。
2019年9月から10月にかけて行われた公判では、父親の雄大が、妻の優里にDVを行って精神的に支配し、実子が生まれた後に妻の連れ子だった結愛ちゃんを虐待したとされた。
だが、これはあくまで公判において示された図式であり、実際に一家の傍にいた友人ら関係者によれば、実像は大きく異なるという。本連載では、3回にわたって報道や裁判では明らかにされてこなかった真相をつたえたい。
雄大が受けた壮絶な虐待
船戸雄大は、1985年2月に岡山県で長男として生まれた。妹とは8歳離れていたこともあって、一人っ子のように育てられた。
小学2年の夏、父親の仕事で一家は千葉県へ引っ越し、小学5年の夏には北海道へ移り住んだ。この体験によって雄大は人にどう見られているかを気にする性格になったと言われているが、裁判で触れられなかった重要な事実がある。この時期、父親から激しい暴力を受けていたのである。
大学時代の友人は語る。
「雄大は父親から無茶苦茶な暴力を受けていたって言ってました。何かで一緒に風呂に入っていた時だったと思うんだけど、雄大が自分の頭を指さして『俺は頭蓋骨が変形するくらい親父に殴られて育ったんだ』って明かしたんです。虐待というより、しつけとして暴力をふるわれていたっていう感じでしたね」
これが事実であれば、雄大は親から壮絶な虐待を受けて育ったことになる。
思春期になってからはバスケットボールに熱を上げ、高校は北海道札幌白石高等学校へ進学した。バスケ部が有名で、新入部員だけで30名もいたという。
このバスケ部時代の友人によれば、雄大は非常にプライドが高く、自分を良く見せようとするタイプだったそうだ。自分より上だと思った相手にはヘコヘコするが、下だと思ったら横柄になり、必要以上に自分を良く見せようとしたりする。
同級生たちはそんな雄大を陰で笑い、「しゃみ将軍」とあだ名をつけた。北海道の言葉で「しゃみ=しょぼい」を意味していて、自尊心が高いくせに実態が伴っていないところからつけられたという。
雄大がバスケ部を辞めたのは、高校2年の時だった。見下していた同級生にレギュラー争いで負けたことがきっかけで、友人数名とともに去ったのだ。プライドの高い彼にとってレギュラーになれなかったことは屈辱だったのだろう。バスケを失った彼は、他校の不良たちと付き合うようになる。
自尊心の高さ
帝京大学経済学部に進学後、雄大は再びバスケサークルに入り、バスケットボールをはじめる。
サークル内では群を抜いてうまく、周りからは一目置かれていたそうだ。それが楽しかったのだろう、彼は大学を卒業して就職してからもサークルのメンバーに高校のバスケ部の仲間を加えて、社会人バスケサークルを結成した。
メンバーの一人は語る。
「他県のチームと闘うようなちゃんとしたサークルで、雄大はキャンプテンをしていました。あいつ、プライドは高いけど、そのぶんリーダー的な要素はあって、練習場とか飲み会の会場とか、全部自分で調べていましたね。付き合いもすごく良かったし、酒が飲めないのに合コンにも必ず来た。メンバーにとっては『いい奴』っていう印象だったと思います」
後の事件で、雄大は優里と結愛ちゃんに「ダイエット」という名の異常な減量を強いたが、この頃からモデルのような細身の女性が好きだったという。彼が大学時代に3年間付き合っていた女性は優里にそっくりだったらしい。雄大の好みは「細くて、気が弱く、意見を言わないタイプ」だったようだ。
友人の言葉である。
「雄大は自分より弱い子を守ってあげたいみたいなヤツなんです。だからメンヘラみたいな弱い子が好きだった。北海道に帰った後のことですが、ある女性が小樽で自殺しようとしたんです。雄大はそれを聞きつけて札幌から車を飛ばして助けに行っていました。依存されるのも好きだったんだと思います」
雄大の自尊心の高さは、港区のレインボーブリッジやお台場の花火が見える高級マンションの10階に住んでいたことからもうかがえる。このマンションが自慢だったらしく、よく友人を呼んでは「今度は車を買うつもりだ」などと言っていたそうだ。
大麻や危険ドラッグの使用
2014年5月、30歳になった雄大は東京を離れ、両親の暮らしている札幌にもどることになる。公判では、会社の仕事に疲れてうつ気味になり、脱毛も激しくなって辞職したと語られていた。
だが、友人たちは真っ向から否定する。薄毛は大学時代からであり、毎月バスケの練習や試合には参加し、合コンにも来ていて、うつ病なんて一言も聞いたことがないそうだ。その代り、友人らが指摘するのは大麻や危険ドラッグの使用だ。
「雄大は大学2年の時に海外旅行で大麻を覚えて、ちょくちょくやってました。頻繁に見かけるようになったのは、社会人になったからですかね。家で大麻を大切そうに持ってましたし、脱法ハーブ(現・危険ドラッグ)はしょっちゅうやっていました。俺たちが家に行っても普通にやっている感じです。何が入ってるかわからないから止めろよ、と言ってもやりつづけていた。東京にいる最後の頃はちょっと変な感じになっていて、友人の結婚式をすっぽかすとかもありました」
さらに、東京から札幌へ帰った理由も公判の話とは大きく異なる。
友人らによれば、当時は、父親が北海道で別の仕事に手を出して母親と妹が大変な状況になっていた。雄大はそこから母親と妹を苦境から救うために、転勤願いを出して札幌の支部に異動させてもらったというのだ。つまり、自分を虐待した父親から、母親や妹を守るために北海道に帰ったというのである。
北海道にもどった後、雄大は家庭の問題を解決してから会社を辞め、札幌の歓楽街「すすきの」のキャバクラで黒服として働く。高校時代に付き合っていた不良たちがすすきのに出入りしていたことから、夜の世界に憧れを抱いたのだろうと友人らは推測している。
すすきので数ヵ月間働いた後、雄大は香川県へ移る。これは、ある女性の誘いがきっかけだった。東京にいた頃、大学時代の友人が香川県高松市のキャバクラでホステスをしていた女性を雄大に紹介したことがあった。ホステスは東京へ遊びに行く度に、雄大の港区のマンションに泊まらせてもらっていた。雄大は北海道に帰った後、そのホステスから、高松市内のあるキャバクラ店が人材不足で困っているという相談を受ける。それで雄大は店を助けるために香川県へ引っ越したのだ。
高松市にあるこのキャバクラ店で、雄大は黒服として働きはじめる。同じ店でホステスをしていたのが、後に妻となる優里だった。
母親に結婚を猛反対された
優里は香川県善通寺市で生まれ育った。4人きょうだいの末っ子だった。父親は自衛隊で働いていたが、近隣住民の話では親族が大麻で逮捕されていたり、交通刑務所に入っていたりするなど、決していい家庭環境ではなかったようだ。
高校卒業後、優里は19歳で結婚して結愛ちゃんを生んだ。だが、同い年の夫からのDVがあったことなどから22歳で離婚。シングルマザーとして結愛ちゃんを育てるため、キャバクラで働きはじめる。地方の小さな町には、高卒のシングルマザーに十分な収入を保障してくれるところはほとんどなかったのだ。彼女は23、4歳にして将来の見通しが立たない、暗い生活に迷い込んでいたと言えるだろう。
同僚の話では、優里は店に入ってから、何人かの黒服と関係を持ったという。寂しさや、異性にすがりつきたい気持ちもあったのかもしれない。そんな中で出会ったのが、8歳年上の雄大だった。
雄大は東京の大学を卒業し、全国的にも名の知れた企業に勤めていたことを自慢げに語っていた。実際に仕事もできて店長からの信頼も厚かった。折に触れて、海外旅行の話など知らないことを話してくれる。優里は雄大に対して「年上で幅広い知識を持っていていろいろと教えてもらいたい」と思うようになっていった。
二人を良く知る友人の言葉である。
「優里は雄大にベタぼれで、『ドストライク』だって言ってました。彼女から猛アタックして付き合いがはじまったんです。雄大の方は、どちらかといえば年の離れた彼女の面倒をみてやっているみたいな感じでした」
雄大にとって、年下の優里は自尊心を高めてくれる相手だったにちがいない。雄大は結愛ちゃんのこともかわいがり、週末には公園やテーマパークへつれて行って肩車をするなどスキンシップをしてかわいがった。結愛ちゃんも雄大のことを「お兄ちゃん」と呼んで懐いていたという。
そんな中、優里が雄大の子を妊娠した。雄大は迷うことなく「責任」を取って結婚することを決める。この時、雄大は出産が終わって落ち着いたら、東京へ引っ越そうと話していたようだ。優里にしてみれば、大好きな相手と家庭を持てる上、地方の不安定な生活から抜け出せるという期待を抱いていただろう。
雄大は地元の食品会社へ転職して生活環境を整える。ところが、雄大にとって大きな誤算が起る。これは法廷でもメディアでも一切語られてこなかった事実だが、雄大は母親に結婚を猛反対されたのである。実家とも付き合いのある友人の話である。
「雄大が北海道の母親に結婚することを話したら、猛反対されたそうです。年の離れたバツイチのホステスで、さらに連れ子までいるわけじゃないですか。そんな女との結婚は認めないみたいな感じになり、勘当寸前だったんです。それでも雄大は優里と結愛ちゃんとの結婚をした。そういう責任感はあるヤツでした」
2016年4月、雄大は反対を押し切って結婚をし、結愛ちゃんを養子として迎え入れる。
この時の彼には、「明るい理想的な家庭」をつくりたいという意気込みがあった。結婚に反対した母親を見返したいという気持ちもあったはずだ。逆に言えば、そうすることが母親との和解の道だった。
しかし、新婚生活は雄大の理想とはかけ離れたものだった。優里は若くして母親になったことも影響していたのか、日常生活から人付き合いにいたるまで様々なことに常識を欠いているように感じるところが多々あった。2歳の結愛ちゃんに好き放題甘いものを食べさせたり、ママ友と上手に付き合えないといったことだ。
友人は、一例として雄大一家とバーベキューをした時のことを語る。
「優里の周りにいたのは変な女たちばかりでした。バーベキューに来たのは、みんなシングルマザーのキャバ嬢で酒飲んでべろべろに酔って、自分の子供に『うるせえんだよ、死ね』とか『黙れよ!』とか怒鳴るような感じ。優里自身はそこまでひどくなかったけど、雄大からすれば、そういう友達との付き合いや言動に不安を覚えたのは当然だったと思います」
雄大の理想と現実に大きな溝があったのである。
さらにこの頃、彼が気にしていたのは「養父」という自分の立場だ。結愛ちゃんを養子にする手続きをした際、書類に自分が「養父」と記されているのを見てショックを受けたのがきっかけだった。理想の家庭を目指していたからこそ、「養父の家庭」というふうに見られるのだけは耐えられなかった。
今の状況を改善したい。雄大のそういう考えが、「しつけ」という名の虐待のはじまりだった。
「理想的な家族」をつくりたかった
入籍して間もなく、雄大はだんだんと優里に対して厳しくあたるようになる。仕事が終わってから毎日1時間、日によっては深夜まで、優里の日常の些細な言動や、結愛ちゃんに対する育児、それに性格のことまで執拗に注意するようになる。理詰めで追い込み、優里が言い訳をすると、こう言った。
「育児もできないくせに、口出ししてくるな!」
優里はもともと寡黙で、友人の家に遊びに行ってもまったくしゃべらないことさえあった。言葉のDVによる精神支配ということも加わって、雄大に反論するより、自分のために叱ってくれていると受け取り、説教の後は毎回LINEで「貴重な時間をつかって怒ってくれてありがとうございました」と送っていた。
時を同じくして、雄大は結愛ちゃんへのしつけも厳しくするようになった。生活の細かなことだけでなく、読み書きなどを教え込み、やる気がないと見れば声を荒げ、殴る蹴るの暴行を加えたり、家の外へ出したりすることもあった。さらに、優里にも「子ども扱いするな」と言って結愛ちゃんを甘やかしたり、抱きしめたりすることを禁じた。
9月、二人の間に長男が誕生するが、その後も雄大の妻子に対する厳しい態度はつづいた。これまでメディアの中には、雄大が実の子を授かったことで、連れ子である結愛ちゃんへの愛情を失って虐待をはじめたという論調で報じたところもあった。
だが、前後のことを踏まえれば、雄大は息子の誕生とは別に、雄大は結婚に反対した母親を見返すために「理想的な家族」をつくりたいという気持ちから、優里の生活習慣を注意したり、結愛ちゃんに勉強を強いたりしたと考えるのが自然だろう。
実際、友人たちによれば、この時期雄大は口癖のように「(家族の中で)まともなのは俺しかおらん」とか「優里がちゃんとしないから俺がやらなきゃダメだ」と語っていたという。自分の行為がDVや虐待であると認識しておらず、自分が家族を立て直さなければならないという思いを膨らましていたのだろう。
同情の余地はないが、雄大が自分のしていることをあくまでも「しつけ」だと思いつづけていた背景には、彼自身が父親から「頭蓋骨が変形するほどの暴力」を受けていたが影響していたと推測される。知らず知らずのうちに、父親同様に暴力で妻子を抑え込んでしまっていたのだろう。
こうした日々を送る一方で、雄大は度々岡山にある祖父母の家に家族をつれて遊びに行った。そして、結愛ちゃんがどれだけ勉強をできるか、礼儀正しく振舞えるかを自慢げに見せて、褒められると心から喜んでいた。北海道の母親の代わりに、祖父母に「理想的な家庭」を誇示していたのだろう。それが彼の身勝手な自尊心を満たす方法だったのではないか。
だが、雄大の行為はまぎれもない虐待であり、やがて児童相談所がそれを発見することになる。それについては次回詳しく述べたい。