アンヘドニア
アンヘドニア(英: anhedonia、アネドニアとも)は、通常であれば喜びや快楽をもたらすはずの活動や刺激から、楽しさや興味、満足感などのポジティブな感情をほとんど、あるいはまったく感じられなくなる状態を指す[1]。日本語では快楽喪失、失快楽症などとも訳される[1]。大うつ病性障害における中核症状の一つとされるほか、統合失調症をはじめとするさまざまな精神疾患・神経疾患に共通してみられる非特異的な症候としても知られる[1][2]。
語源
[編集]「アンヘドニア」の語は、古代ギリシア語で否定を表す接頭辞「an-」(〜がない)と、「hēdonē」(快楽)に由来し、「快楽の欠如」を意味する[3]。1896年、フランスの心理学者テオデュール・リボーが、無痛覚(analgesia)に対応する概念として、著書『感情の心理学』のなかで用いたのが最初とされる[4][3]。
定義と理論的整理
[編集]リボーによる当初の定義は「快楽を感じる能力の低下」であったが、近年の研究では、アンヘドニアは報酬処理の複数の側面にまたがる障害を含む概念として用いられている[2]。具体的には、報酬に向かおうとする動機づけや予期的快感(anticipatory pleasure、「wanting」)、実際に報酬を得たときの快楽体験(consummatory pleasure、「liking」)、および報酬学習(reward learning)といった側面に分けて議論される[2][5]。
多くのうつ病患者が「何かを楽しみに待つことはできないが、いざその場面になればそれなりに楽しめる」、またはその逆を報告することから、予期的快感(wanting)と消費的快感(liking)は部分的に独立したプロセスと考えられている[2]。報酬学習をアンヘドニアの独立した一側面とする見方も提案されているが、「wanting」や「liking」と完全に独立した因子として成立するかについては議論が続いている[2]。
診断における位置づけ
[編集]アンヘドニアは独立した診断名ではなく、既存の精神疾患・神経疾患の症状として評価される[1]。
DSM-5では「アンヘドニア」という用語自体は見出し語として用いられていないが、大うつ病性障害の診断基準において、抑うつ気分と並んで「興味または喜びの著しい減退」が必須症状の一つとされており、これがアンヘドニアに相当する[6]。具体的には、診断に必要な症状のうち少なくとも一つは「抑うつ気分」または「興味または喜びの喪失」でなければならないと定められている[6]。
ICD-10では「アンヘドニア」という語自体は明示されないが、抑うつ症状の一つとして「興味や喜びの喪失」が記載されており、DSM-5におけるアンヘドニアに相当する症状とみなされる[2]。
関連疾患
[編集]アンヘドニアは非特異的な症候であり、複数の疾患でみられる[1]。
- 大うつ病性障害
- 大うつ病性障害では、アンヘドニアは抑うつ気分と並ぶ中核症状とされる[6]。日本の精神病理学では、笠原嘉による内因性うつ病の回復過程に関する階段状シェーマにおいて、諸症状が「イライラ」「不安」「ゆううつ」「手がつかない」「根気がない」「興味がない」「喜びがない」「生きがいがない」の順で回復するとされ、アンヘドニアは「喜びがない」あたりに相当する比較的回復に時間がかかる症状と位置づけられている[1]。
- 統合失調症
- 統合失調症では、アンヘドニアは陰性症状の一部として位置づけられる[2]。報酬を実際に消費する場面での快楽(liking)は比較的保たれている一方で、報酬を予期する側面(予期的快感)に障害がみられるとする見方が、レビューや複数の実証研究で示されている[7][8][9]。
- その他
- 双極性障害の抑うつ期、心的外傷後ストレス障害(PTSD)、物質関連障害、パーキンソン病などの神経変性疾患、ADHD、摂食障害など、さまざまな状態でアンヘドニアが高頻度に報告されている[2]。
下位分類
[編集]アンヘドニアの評価尺度では、身体的・感覚的な快楽の低下を扱う身体的アンヘドニア(physical anhedonia)と、対人関係における快楽の低下を扱う社会的アンヘドニア(social anhedonia)が区別されることがある[10]。
関連項目
[編集]脚注
[編集]- 1 2 3 4 5 6 “アンヘドニア”. 精神科用語シソーラス. 日本精神病理学会. 2026年6月20日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 Rizvi, Sakina J.; Pizzagalli, Diego A.; Sproule, Beth A.; Kennedy, Sidney H. (2016). “Assessing anhedonia in depression: Potentials and pitfalls”. Neuroscience & Biobehavioral Reviews 65: 21-35. doi:10.1016/j.neubiorev.2016.03.004. PMID 26959336.
- 1 2 “Etymology of anhedonia”. Online Etymology Dictionary. 2026年6月20日閲覧。
- ↑ Ribot, Théodule (1896) (フランス語). La Psychologie des sentiments. Paris: Félix Alcan
- ↑ Wu, Congchong; Mu, Qingli; Gao, Weijia; Lu, Shaojia (2025). “The characteristics of anhedonia in depression: a review from a clinically oriented perspective”. Translational Psychiatry 15 (1): 90. doi:10.1038/s41398-025-03310-w. PMID 40118858.
- 1 2 3 American Psychiatric Association 高橋三郎、大野裕訳 (2014). DSM-5 精神疾患の分類と診断の手引. 医学書院. pp. 90-91. ISBN 978-4-260-01908-8
- ↑ Frost, Katherine H.; Strauss, Gregory P. (2016). “A Review of Anticipatory Pleasure in Schizophrenia”. Current Behavioral Neuroscience Reports 3 (3): 232-247. doi:10.1007/s40473-016-0082-5. PMID 27980891.
- ↑ Gard, David E.; Kring, Ann M.; Gard, Marja Germans; Horan, William P.; Green, Michael F. (2007). “Anhedonia in schizophrenia: distinctions between anticipatory and consummatory pleasure”. Schizophrenia Research 93 (1-3): 253-260. doi:10.1016/j.schres.2007.03.008. PMID 17490858.
- ↑ Yan, Chao; Lui, Simon S. Y.; Zou, Lai-Quan; Wang, Chao-Yi; Zhou, Fu-Chun; Cheung, Eric F. C.; Shum, David H. K.; Chan, Raymond C. K. (2019). “Anticipatory pleasure for future rewards is attenuated in patients with schizophrenia but not in individuals with schizotypal traits”. Schizophrenia Research 206: 118-126. doi:10.1016/j.schres.2018.12.003. PMID 30545761.
- ↑ Chapman, Loren J.; Chapman, Jean P.; Raulin, Michael L. (1976). “Scales for physical and social anhedonia”. Journal of Abnormal Psychology 85 (4): 374-382. doi:10.1037/0021-843X.85.4.374. PMID 956504.