恵徴
恵徴(けいちょう、嘉慶10年(1805年) - 咸豊3年6月3日(1853年7月8日))は清朝の官僚・外戚。西太后の父であり、同治帝・光緒帝・隆裕太后の祖父である。三等承恩公の爵位を追封された。氏族は葉赫那拉氏で、満洲鑲藍旗所属。
生涯
[編集]中国第一歴史档案館所蔵の内閣黄冊によれば、恵徴は道光11年(1831年)に筆帖式(無品級の書記官)に任ぜられ、道光14年(1834年)の京察では吏部二等と評価された。道光19年(1839年)には八品筆帖式となり、道光23年(1843年)の京察では吏部一等とされた。 道光26年(1846年)、恵徴は吏部文選司主事に任ぜられ、道光28年(1848年)には吏部験封司員外郎へ昇進した。さらに道光29年2月(1849年)、道光帝により京察一等と定められ、軍機処に記名されて、道員(道台)として任用する候補者とされた。道光29年閏4月初には吏部験封司郎中へ昇進した[1]。
道光29年閏4月17日(1849年6月7日)、内閣の上諭により、恵徴は山西帰綏道の道員に任命された。帰綏道の駐地は帰化城(現在の内モンゴル自治区フフホト市)であった。赴任後、恵徴は積極的に財政整理を行い、山西巡撫の龔裕はこれを高く評価した。道光29年末の帰化城税務報告では、恵徴について「わずか数か月ながら、誠実に職務を処理している」と記され、さらに「専任で責任を負わせるべきである」と提案された。これに対し道光帝は「戸部に知らせよ」と批示した[1]。
咸豊2年2月6日(1852年3月26日)、恵徴は安徽寧池太広道(咸豊5年に徽寧池太広道と改称)道員へ転任し、蕪湖に駐在した。 その直後の咸豊2年2月8日(1852年3月28日)、娘が秀女に選ばれた。さらに咸豊2年2月11日(1852年3月31日)、敬事房の宦官が口諭を伝え、恵徴の娘は蘭貴人に封ぜられ、同年5月9日に入宮するよう命じられた。恵徴はこの件で多忙となり、娘を宮中へ送り出した後、ようやく咸豊2年7月に蕪湖へ赴任した[1]。
蕪湖に到着してから半年も経たないうちに、恵徴は4千〜5千両の銀を徴収した。彼が赴任して間もなく、太平天国軍が長沙を攻撃したが攻略できず、湖北へ転進したため、周辺地域では清朝に対する民衆反乱が増加した。恵徴は命を受け、地方水師の巡船を自ら督率して反乱鎮圧に当たった。安徽巡撫の蒋文慶は年末の評価で、恵徴について次のように記している。
「見識は明晰で、事務処理は周到である。近ごろ巡船を督率して土匪を捕らえ、力を尽くしている。[1]」
咸豊2年12月、太平天国軍は湖北の武漢三鎮を攻略し、その後長江を下って江西九江および安徽にも危機が及んだ。清朝は両江総督の陸建瀛を欽差大臣に任命し、兵三千を率いて江西・安徽の防衛を強化させた。しかし湖北の武穴・老鼠峡で太平天国軍に敗れ、陸建瀛は二隻の船と17人だけを率いて南京へ逃れた[1]。
途中蕪湖を通過した際、陸建瀛は福山鎮総兵の陳勝元と安徽寧池太広道の恵徴を呼び寄せて協議し、恵徴に梁山の糧台を担当させることを決定した。恵徴は家族を寧国府涇県へ送った後、自らは官印と軍資金を携えて陳勝元とともに東梁山へ赴いた[1]。
咸豊3年1月17日(1853年2月24日)、太平天国軍は安慶を占領し、安徽巡撫の蒋文慶が殺害され、多くの清朝官員が死傷した。洪秀全は藩庫銀30万両、漕米40万石以上を獲得すると、さらに東進して蕪湖で清軍を破り、東梁山・西梁山を包囲した。 恵徴は1万両の銀を携え、「軍資金を護送する」と称して南京へ逃れたが、南京の城門が開かなかったため、鎮江へ向かった。そこで江蘇巡撫の楊文定に保護され、財政管理を担当することとなった。太平天国軍が南京を占領すると、楊文定は恵徴を丹徒鎮の糧台へ派遣した[1]。
一方、咸豊帝は地方官が戦場で逃亡し領土を失ったことに激怒し、新任の安徽巡撫李嘉端に厳重な調査を命じた。結果として多くの官員が処罰された。 恵徴については当時安徽省内にいなかったため、李嘉端は状況を把握できず、「地方事務を放置し、連絡を怠り、他境へ逃亡した疑いがある」として道員職の解任を求めた。咸豊帝はこれを受け、恵徴を罷免し調査待ちとし、「逃亡が事実かどうかを明らかにせよ」と命じ、齢椿を後任の道員に任命した[1]。
恵徴は新任の両江総督楊文定から罷免を知らされると非常に恐れ、病に倒れた。 咸豊3年4月20日、咸豊帝は上諭の中で「逃亡」には触れず、「糧台の担当や銀の護送が事実かどうかを確認せよ」と命じ、恵徴を擁護する意図を示した。 しかし咸豊3年6月3日(1853年7月8日)、恵徴は鎮江府で病死した[1]。
その後、咸豊3年8月9日、李嘉端は上諭に対する報告で「当該道員はすでに病死したため、これ以上調査できない」と述べた。咸豊帝は「了解した」とだけ批示した[1]。
同治元年(1862年)8月、恵徴は三等承恩公を追贈され、端恪の諡号を賜った。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 『清史稿』
- 『玉牒』
- 『那根正先世考查』