私がAI作家のAI小説を「書籍化なんぞ烏滸がましい」と思うわけ
またまたジャンル日間ランキング1位ありがとうございます⭐︎
そしてまたまた、ユーザー登録なしの通りすがりさんから香ばしいコメントをいただきました。ランキングに乗ると色々な方が来ますね(^^)
まず初めに断っておく。
これはあくまで私個人の、かなり偏った意見である。
世の中にはいろいろな考え方があるし、AIに対する距離感も人それぞれだ。便利な道具だと思う人もいれば、創作の敵だと思う人もいるだろう。私はそのどちらかに綺麗に分類される人間ではない。
ついでに言っておくと、この文章もプロットだけ私が書いて、本文の九割はAIを使っている。
なぜなら、こんなことを全部手書きで書いているほど暇ではないからである。
ここで「お前もAI使ってるじゃねえか」と思った人がいるなら、その通りである。だからこそ最初に言っておきたい。
私は、AIを使うこと自体を否定しているわけではない。
誤字脱字を見る。文章のたたき台を作る。アイデアを壁打ちする。設定を整理する。そういう使い方は別にいいと思っている。便利なものは便利だ。使えるものを使わないことが偉いとも思わない。
AIを使わなければ小説を書こうとも思わなかった人が、AIをきっかけに創作へ興味を持つ。それ自体は、むしろいいことだと思う。
小説を書く人間が増えるのは悪いことではない。入り口は何でもいい。最初はAIに頼りきりでも、そのうち自分で書きたいものが出てくるかもしれない。キャラクターに愛着が湧いて、展開に悩んで、もっと上手く書きたいと思うかもしれない。
そういう人までまとめて否定する気はない。
ただ、AIに丸投げした小説が面白いかと言われると、私は正直つまらないと思っている。
書いている側も本当に楽しいのか疑問だし、読んでいても、どうにも引っかかるものがない。整ってはいる。破綻は少ない。だが、それだけで終わっている文章を見ることがある。
もちろん、人間が書いた小説でもつまらないものは山ほどある。私の書いたものだって、誰かにとってはそうだろうし、自分の文章が他の人と比べて優れてるなんて思ったことはない。
それは分かっている。
それでも、AIで短時間に濫造されたものが新着欄に並んで、私が一生懸命書いた小説があっという間に流されていくのを見ると、腹は立つ。
これは綺麗事ではない。
創作者としての嫉妬もある。意地もある。悔しさもある。
何時間も悩んで、展開をこねくり回して、キャラクターの台詞ひとつに頭を抱えて、ようやく投稿したものが、数分で生成された文章の群れに押し流される。
それを見て「まあ、創作の多様性ですよね」と笑えるほど、私は人間ができていない。
だが、それでも趣味の範囲なら好きにすればいいと思う。
AIで小説を書く。投稿する。楽しむ。感想をもらう。仲間内で盛り上がる。そこまでは別にいい。
私が本気で「それは烏滸がましくないか」と思うのは、その先である。
AIでスピード仕上げした小説を、商業化しようとすることだ。
書籍化を目指すことだ。
作家として世に出ようとすることだ。
そこはさすがに違うだろう、と思う。
書籍化というのは、ただネットに文章を置くこととは違う。読者が金を払う。出版社が看板を貸す。編集者やイラストレーターや営業や書店が関わる。作者の名前が商品になる。
その場所に、AIでほとんど作ったものを持ち込んで「私の作品です」と言うのは、私はかなり抵抗がある。
なぜなら、それはもう道具の使用ではなく、勝負そのものを他人にやらせているように見えるからだ。
私は将棋が好きである。
藤井聡太先生の大ファンである。
その感覚で言うなら、AI小説をそのままプロの世界に持ち込むのは、奨励会や公式戦で水匠のような将棋AIを横に置いて指すようなものではないかと思っている。
許されるか、そんなもん。ざけんな。
命削って指してんだよ。
もちろん、プロ棋士も研究ではAIを使う。
AIで検討する。序盤を研究する。局面を評価する。それ自体は現代将棋の一部だろう。
だが、対局中にAIの最善手を見ながら指したら、それはもう将棋ではない。
少なくとも、人間同士の勝負ではない。
人が考え、人が間違え、人が苦しみ、人がそれでも一手を選ぶから、将棋は面白いのだと思う。
小説も同じだ。
人間が書くから偉い、とまでは言わない。
人間が書けば必ず尊い、などとも思わない。
だが、人間が悩んで書いたものには、その人間の癖が出る。弱さが出る。欲望が出る。見栄が出る。未熟さが出る。どうしようもない執着が出る。
そこが面白いのだ。
完璧な文章が読みたいだけなら、別に人間である必要はないのかもしれない。
だが私は、作者が何に怒っているのか、何に興奮しているのか、何を諦めきれないのか、そういうものがにじんでいる文章を読みたい。
そして、そういうものを書きたい。
だから、AIにほとんど書かせた小説で書籍化を目指す、という話を聞くと、どうしても思ってしまう。
それは烏滸がましくないか、と。
もちろん、AI小説を商業化したいなら、そういう枠を作ればいいと思う。
AI小説大賞でも、AI共作部門でも、AI生成作品レーベルでも何でもいい。
最初から「これはAIを使って作られた作品です」と看板を掲げて、その土俵で戦えばいい。
それなら何も文句はない。
AI小説にはAI小説の楽しみ方があるのかもしれない。人間の創作とは別の価値があるのかもしれない。そこを追求するなら、それはそれでひとつのジャンルだと思う。
ただ、人間が人間の手で書いた作品たちの中に、AIで生成したものをしれっと紛れ込ませて、同じ顔をして商業化を狙う。
それは違うだろうと思う。
少なくとも私は、そういうものを素直に応援する気にはなれない。
繰り返すが、AIを使うなと言っているわけではない。
AIをきっかけに創作を始めるなとも言っていない。
趣味なら好きにすればいい。
楽しければいい。
だが、書籍化は別だ。
商業は別だ。
読者から金を取る場所に立つなら、せめて自分の手で苦しんだものを持ってこいよ、と思う。
文章が上手いか下手かの話ではない。
才能があるかないかの話でもない。
自分で書いたと言えるだけの時間と責任を、ちゃんと引き受けているのかという話だ。
私だって立派な作家ではない。
まだまだ未熟だし、伸びない作品もあるし、何を書きたいのか分からなくなることもある。テンプレに寄せたくなるし、評価が欲しくて見苦しくなることもある。
それでも、自分で悩んでいる。
自分で選んでいる。
自分の欲望で書いている。
だからこそ、AIにほとんど任せたものを「私の小説です」と言われると、どうしても受け入れがたい。
これは正論ではないのかもしれない。
時代遅れの意地なのかもしれない。
十年後には笑われる考え方なのかもしれない。
それでも今の私は、こう思っている。
AIを使って遊ぶのは好きにすればいい。
AIを使って小説を書くのも好きにすればいい。
だが、AIで楽をして作ったものを、人間の作家が泥をかぶって戦っている場所へ持ち込んで、同じように書籍化を狙うのは、やっぱり烏滸がましい。
少なくとも私は、そう思う。
あー、やっぱりつまらないな。
ここまでこのつまらない文章を読んでいただいてありがとうございました。
こんなエッセイよりも私の小説を読みましょう。面白いから。




