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聖女に選ばれましたが相応しくないそうなので、帰って実家の畑を手伝います

作者: ぴょる
掲載日:2026/06/08

「なんと……聖女の証だ……!」


 村のはずれにある小さな聖堂にて。

 老神父は震える声でそう叫んだ。


 リタは自分の手と神石を交互に見た。

 金色に輝く神石。泥のついた自分の手。

 ふむ、どうやらこの石は、自分の魔力に反応して光っているらしい。


 この国には聖女という存在がいる。

 聖女が祈りを捧げることで、国は魔物から守られる。国境の結界は保たれ、傷ついた人々は癒やされ、騎士による魔物の討伐が進む。国にとって何ともありがたい存在だ。

 そして、成人した女性には魔力検査が義務付けられている。貴族も平民も関係なく、国民であれば必ず受けなければならない。


 ただし、聖女の適性を持つ者はごく稀だ。

 更に、平民から聖女が生まれるのはもっと稀。

 貴族は代々魔力の高い家系が多いため、聖女が生まれる確率も高い。一方、魔力が低い傾向がある平民から聖女が出ることは、相当珍しいのだ。


 だが、どうやらリタはそのとても珍しい一人に当たってしまったようだ。


「……あの、神父様。本当にオラが聖女ですか?」

「そうです! なんという光! こんな鮮やかな金は見たことがない!」


 神父が目を輝かせながら言う。

 周りの人たちもざわざわしている。

 リタは改めて自分の手を見た。農作業でしっかり日焼けした掌。肉刺だらけで硬くなっているし、爪の隙間には土が残っている。聖女様のイメージとは似ても似つかない手だった。


「オラ、ただの農家の娘なんですが」

「これは神の御意志です!」


 神父はきっぱりと言い切った。


---


 リタはのどかな辺境の農村で生まれた。

 実家は村の中ではごく普通の暮らしで、豊かではないが食うに困ることもない。

 一家全員が毎日よく働くからだ。


 もちろん、末っ子のリタもよく働いた。

 夜明け前に起きて鶏に餌をやり、朝食を終えたら兄たちと並んで自慢の鍬で畑を耕す。昼には豚の世話をして、夕方には収穫した野菜を背負って運び、日が落ちたら泥のように眠る。

 それがリタにとってごく当たり前の一日だった。

 まさに、健康と元気だけでできているような娘。


 そんなリタが、聖女になった。


---


 それからはあっという間だった。

 村中に知らせが広まるのに半日もかからなかった。


「リタが聖女になったって!」

「うちのリタが!?」

「ほんとか!?」

「いやでもあの神石が金色になったんだって」


 母親は嬉し泣きし、父親は豪快に笑った。兄たちは信じられないものを見る目でリタを見た。

 村長は両手でリタの手を包み、「村の誇りじゃ、よかったなぁ、よかったなぁ」と何度も拝むように言った。

 隣のおばさんはお祝いだと貴重な干し肉を抱えて走り込んできて、その隣のおばあさんは自慢の特大チーズを持ってきてくれた。

 夜には村の広場で急ごしらえの宴会が始まり、リタはよくわからないまま胴上げされた。


 村を出る前の夜、家の戸口の外に、愛用のパイプをくゆらせる爺様がぽつんと腰を下ろしていた。

 昔から寡黙で、だけど誰よりも優しくて、リタが世界で一番大好きな人だ。

 爺様は不器用にごわついた手でリタの頭をぽん、と叩いた。

「無理すんな」

「うん」

「飯はちゃんと食えよ」

 その言葉を聞いたリタは明るい笑顔で返した。

「おう!」


---


「これが王都かぁ……!」


 豪華な馬車が、完璧に舗装された道を進んでいく。

 辺境の村で農家の娘として生きてきたリタにとって、車窓から見える王都の景色は何もかもが新鮮だった。道は広いし建物はどれも大きい。人が溢れかえっている。馬車も忙しなく行き交っている。


 へばりつくように外を眺めながら、リタの胸は期待でいっぱいだった。

 聖女というのは国で一番大切にされる存在だと聞いた。村の人たちからも「豪華な暮らしができるぞ」「美味いもん食えるぞ」と言われた。


 温かい部屋。

 柔らかな寝台。

 やわらかくふんわりとした白いパン……


「うおーー、けっぱるぞ!!」


 リタは馬車の中でひとり力強く気合いを入れた。


---


 やがて馬車は広大な王宮の敷地へ入り、聖女たちが暮らすという専用の屋敷へと案内された。

 実家がすっぽり入るくらいの玄関を通り抜けると、更に広い部屋が現れた。


 そのソファには二名の女性……聖女が座っていた。

 思ったより少ない、とリタは感じた。

 聖女が何人いるかは聞いていなかったが、もっといるものだと思っていた。


 二人とも貴族令嬢だとわかる佇まいをしていた。白い聖女服を纏っていて、背筋は美しくしっかり伸びている。

 リタが入ってくると、二人はすっと立ち上がった。

「こんにちは、リタ様ですね」

 先に声をかけてきたのはすらりと背の高い女性だった。公爵令嬢だそうだ。彼女は上品に、にこやかに微笑んでいた。

「わたくしはクロエ。こちらはマリアですわ」

「マリアです。よろしくお願いします」

 もう一人が静かに頭を下げた。彼女は伯爵家の生まれとのこと。どこか儚げで、物静かな人だなというのが第一印象だった。


「オラ……わ、私、リタっていいます。よろしくおねがいします!」

「ふふ、元気がいいのね。さあ、まず屋敷を案内しますわ。わからないことがあればわたくしに何でも聞いてね」

 なんていい人たちなんだ、とリタは安心した。お貴族様だからとツンツンしている様子は微塵もない。


 ただ。

 二人とも、お世辞にも健康的とは言えなかった。

 綺麗に化粧をして、美しく微笑んではいるけれど……

 なんとなく、酷く疲れているように見えた。


---


 翌朝から聖女としての生活が始まった。

 まず教えられたのは祈りの作法だ。早朝、クロエが祭壇の前に立ち、丁寧に手本を示してくれた。

「このように膝を折り、手を重ねて。そう。そして目を閉じ、心を静めて祈ります」

「ほほー」

「これを毎朝、日が昇る前に」

「なるほど」

 リタは朝が得意だ。

 夜明け前から起きて、鶏の世話をし、畑に出るのはいつものことだったから。

 だが、次の言葉にはリタも耳を疑った。

「……それと、深夜にも」

「し、深夜?」

「はい。夜半を過ぎた頃にも、同じように二時間ほど……」

「……朝と深夜両方やるのか?」

「ええ」

「なんで?」

「聖女たるもの、惰眠を貪るより祈りを優先すべき。それが、王宮と聖堂の教えですわ」

「夜中も眠りを削って祈る聖女こそ、真に民を想う存在、ということです」

「…………」

 あまりにも当然のように狂ったスケジュールを口にする二人に、リタは背筋が寒くなった。

(……よく眠らねえと、朝まともに動けねえべや)


---


 その日の昼。

 食卓に並べられた食事は、絶望的なほどに寒々しいものだった。


 大理石のテーブルの上に運ばれてきたのは、石のように固いパンとスープだけ。

 スープには具など一切浮いておらず、ただの塩味のお湯に等しかった。


 リタはスープを一口飲んで、信じられないという思いでじっとカップを見つめた。


 実家は決して裕福ではない。だが食事だけは満足のいくものだった。

 収穫した野菜をふんだんに使ったスープに、爺様が川でとってきた魚料理、たまに干し肉やチーズ。

 家族そろって毎日温かいご飯を食べていた。


 今、目の前にあるのはそれ以下だ。


 固いパンをかじる。

 実家のパンですらもう少し嚙み切りやすいし味もする。

 リタはパンを薄い具なしスープで流し込みながら、傍らで控えている侍女に言った。


「お貴族さまはこんな貧相なもん食ってんのか? オラの家の飯の方がずっとうめえぞ?」

「聖女様。聖女とは清貧であるべき存在。これは王宮から定められた食事でございます」

「……侍女さんは今朝何食った?」

「私どもは聖女ではございませんので」


 なるほど、どうもこの食事は聖女だけらしい。


---


 夜。


 深夜の祈りを終えて戻ってきたリタは、リビングのソファに崩れ落ちた。

 眠い。腹が減った。全身が鉛のように重い。

 だが、あと数時間もしないうちに、今度は早朝の祈りがある。


「……クロエ様。聖女って今何人いるんだ? オラ入れて三人か?」

「そうですわね」

「少なくねえですか。いつもこんな人数なのか?」


 クロエはわずかに間を置いた。


「……以前は、もう少しおりましたが」

「その人たちはどうした?  実家に帰ったのか?」

「……ええ、まあ、いろいろあって」


 クロエはそれ以上何も言わなかった。マリアは真っ暗な窓の外を見たまま、置物のように黙っていた。

 リタは二人の横顔を交互に見た。

(いろいろ、ってなんだ?)


 少し間があってから、リタはもう一つの疑問をぶつけた。

「……これ、どれくらいの期間やるんだ?」

「神が許すまで、でしょうか」

「つまり?」

「ずっと、ということになりますわね」

「……これ、全部王宮が決めてんのか? 食事の量も、祈りの時間も」

「ええ。聖女の務めは、王宮と聖堂が定める神聖なる義務ですから」

「おかしくねえか? 飯も足りねえし、眠れねえし、いつ終わるかもわからねえって……」


 クロエは酷く儚い微笑みを浮かべて言った。

「聖女の力を持って生まれたということは、それだけ神に愛され、恵まれたということですわ。恵まれた者にはそれに見合うだけの、命を賭した責務がある」

 マリアもまた、消え入りそうな声で呟いた。

「先輩の聖女様方も、皆そうされて立派に祈っていました。だから我々も……」


 リタには納得がいかなかった。

 ここは、何かが決定的に狂っている。


---


 聖女は激務だった。

 ろくに眠れないまま早朝の祈りを終えると、今度は治癒の仕事が待っている。王都の診療所に赴いて怪我人や病人に祈りを捧げる。また、騎士団の討伐に付き添うこともある。戦場では祈りで騎士を強化し、傷ついた者を癒す。

 それらを終え、屋敷に戻れば深夜の祈りまで書類仕事。

 その合間にあの貧相なスープと固いパンをかき込んで、少し眠ったらまた祈る。


 いくら体力のあるリタでも、一週間もしないうちに音を上げそうになった。


「もう少し飯を増やしてもらえねえか。動きっぱなしで腹が減って仕方ねえ」

 そう訴えたリタに、聖女の管理担当である高位の神官は、ひどく不快そうに眉をひそめた。

「聖女様。聖女とは俗世の欲から解き放たれた清廉な存在です。食への執着をあらわにするのは品位に欠けます」

「品位より腹が大事だべ」

「そのようなことをおっしゃるものではありません」

「じゃあ休みは? せめて一日くらい……」

「いいですか」

 神官は穏やかに、しかし諭すように言った。

「聖女とは尊い存在です。民の苦しみを一身に受け、ひたすら祈り、癒す。それが聖女です」

「……」

「腹が減った、眠い、などと口にすることは聖女の品格を損ないます」

 それを聞いてリタは言い返した。

「聖女だって人間だ。腹は減るし眠くもなる。こんなの続けてたらすぐ死んじまう」

「ええ、歴代の聖女は皆様、立派に役目を全うされました。汚れなき御身のまま、神のもとへお戻りになったのです。これ以上ない清らかな最期ではありませんか」


 その瞬間、リタの脳裏に少し前のクロエの言葉が蘇った。

『以前は、もう少しおりましたが……、ええ、まあ、いろいろあって』


(……ああ。いろいろって、そういうことか)


 リタは神官の顔をまじまじと見つめた。


 神官の瞳は輝いていた。

 この人には悪意がない。聖女を苦しめたいわけでも、痛めつけたいわけでもない。

 ただ本気で、聖女はこうあるべきだ、と信じている。


 聖女は清らかで、慎ましく、眠らずとも祈れる神聖な存在だ。

 腹も減らず、疲れも知らず、ただ民のために在り続ける存在。

 我々人間とは違う、神に選ばれた尊い何かだ、と。

 だから過去に、過労と栄養失調で若くして死んでいった聖女たちのことも、役目を終えて神のもとへ戻ったと本気で素晴らしいことのように讃えられる。


 聖女が苦しんだとは全く思っていない。

 そしてその思想を持っているのはこの神官だけじゃない。王宮にいる人間も、聖堂の人間も、侍女さえも、皆そう思ってる。

 

 リタはぞっとした。


 悪意があった方がずっとずっとよかった。

 憎くて苦しめているなら、怒りを燃やして戦いようがある。


 でもこの人たちは違う。

 純粋すぎるくらい善意なのだ。

 そして聖女が「おかしい」と訴えれば、「聖女がそのようなことを」と悲しそうな顔をする。


 自分たちは聖女を大切にしていると本気で思っている。

 だがその「大切に」の中には食事も睡眠も尊厳も含まれていない。


 だから始末に負えない。あまりにも救いがなさすぎる。


 リタは自分の手を見た。

 聖女になってから掌は驚くほど肉が落ち、白く細くなってしまっていた。

 でも、農作業でできた傷や豆はまだ僅かに残っている。


 ……自分は農家の娘だ。

 自分は普通の人間だ。


 ここに居たら、間違いなく潰されて呆気なく死ぬ。

 リタは、その残酷な真実をはっきりと悟った。


---


「こんなのおかしい。こんなに祈ってんのに。飯もろくなもんじゃねえし、眠らせてももらえねえ」


 王宮に来て数ヶ月が経った、ある朝のことだった。

 リタは真顔でそう言いながら荷物をまとめ始めた。


「り……リタ様、どちらへ……?」

 マリアが焦って声をかけた。


「村に帰る」

「はっ……!?」

「仕事がきついのは仕方ねえ。誰かのために祈ることは頑張れる。んでも、飯が不味くて足りねえのは我慢ならん。眠れんのも我慢ならん」


 クロエが思わず椅子から立ち上がった。

「り、リタ様……聖女に選ばれた方が、そのようなことを……」

「じゃあオラは聖女に向いてねえ。飯が少ねえと体がもたねえし、夜中に起こされると頭が働かねえ。いつ終わるかもわからんものに全力は出せねえ」


 リタは荷物を肩に担いだ。


「オラみたいなのより、もっとお上品で立派な、飯も睡眠もいらない聖女様がどっかにいるべ。そっちに頼んでくれ。オラには無理だ」


 迷いなく部屋を出ようとしたとき、後ろから小さな声がした。


「わ、私も……私も連れて行って」


 振り向くと、そこにはマリアが立っていた。

 その顔は少し青白かったが、目だけはまっすぐリタを見ていた。


 リタは歩みを止め、マリアを見つめた。


「……家畜の世話、やったことあるか?」


「ないです。でもやります! やらせてください!」

 

 深々と頭を下げたマリアを見て、リタは頷いた。

「んだ、人手はいくらでもあっていい」


 一方クロエはただ一人、椅子の背もたれをそっと掴んでいた。その指先は白く強張っていた。

「わ、わたくしは……わたくしは、歴史ある公爵家の人間で……」

 それは、自分自身を縛り付ける呪いのような、絞り出す声だった。

「家も、父も、わたくしが聖女であることをこの上ない誇りにしていて……国を支える気高き貴族として、こんな……っ」

 だが、言葉がそこでぷつりと途切れた。


 しばらくの沈黙の後、クロエはゆっくりと目を閉じた。

 それから静かに口を開いた。


「わたくしも、連れて行って、いただけますか……?」


 リタは少し驚いた。

 クロエはずっと「聖女とはそういうものだ」「恵まれた者には責務がある」と言い続けていた人だ。

 公爵令嬢として、家名を背負って、プライドを持って貴族としての責務を全うしようとして。

 ……それでも、肉体と心の悲鳴には逆らえなかったのだ。

 彼女もまた、ただの生きた人間だった。


「……三人で帰るべ」


 その日のうちに、三人は置き手紙を残して屋敷を抜け出した。

 クロエが書いた文面は、リタには難しすぎて半分も読めなかったが、要約するとこういう意味らしい。


『わたくしどもは、聖女としての大任に耐え得る器ではございませんでした。これ以上聖女の名を汚すことはできません。どうかより相応しい御方をお探しください。』


---


 王都から村まで、馬車を必死に乗り継いで五日かかった。

 クロエが非常用に持っていた金で最初の二日は宿をとれた。三日目からは金が心もとなくなって、道中の村々へ立ち寄っては、怪我人を癒やし、祈りを捧げ、その対価として寝床とパンを分けてもらった。


 安宿のベッドは藁が背中に刺さったが、深夜に起こされることはなかった。

 飢えと疲労に満ちていたあの屋敷での生活に比べれば、ずっとましだった。

 最後の一日は、近道ではあるが馬車すら通れない起伏の激しい山道を、三人でただひたすらに歩いた。

 クロエもマリアも、王都を出てからただの一言も弱音を吐かなかった。


 村についたのは夕方だった。

 村の入り口まで来たとき、畑仕事帰りの村人と鉢合わせた。

「あんれ、リタじゃねえか!」

「おかえり! 聖女はどうした!?」

「いやあ、ちょっと色々あって……」


 騒ぎを聞きつけてリタの母親が飛び出してきた。

「あらぁ、リタ! おかえり!」

 それからリタの後ろに立つ二人を見て目を丸くした。

 ボロボロの服を着ていても隠しきれない、息を呑むほど上品な立ち振る舞い。

「……このべっぴんさんたちは?」

「オラと同じ聖女様だ。オラに色々教えてくれた。とても優しいんだ」


 母親はクロエとマリアを交互に見て、それからにっこりと笑った。

「まあまあ、遠いところからよく来てくれたねえ。さ、入って入って」


 クロエとマリアは顔を見合わせてから、深く頭を下げた。

「お、お邪魔いたします」

「よろしくお願いします」

 二人は緊張していた。

 だが母親はそんなことを気にする様子もなく、二人の背中を押して家の中へ迎え入れた。


 夕食の支度ができると、家族揃ってテーブルを囲んだ。

 その日の食卓には、採れたての新鮮な野菜をたっぷり煮込んだスープと、卵を使った炒め物、近所の人からもらったパンが並んだ。脂の乗った塩漬け肉も少し出た。

「さ、食べて食べて。遠慮しなくていいよ」

 母親が促した。


 クロエが震える手でスプーンを取り、ゆっくりとスープを一口飲んだ。

「……っ」

 小さな声が漏れた。

 クロエの目から、大粒の涙がぽろりと落ちた。

 それからまたぽろり、ぽろりと。

 ぽろぽろと流れ出した涙は止まらなかった。


 マリアも、パンを手に持ったまま泣いていた。声も出さず、ただ静かに涙を流して、パンを何度も口へと運んでいた。


 食卓が静かになった。

 父親も、爺様も、兄たちも、何があったのかは聞かなかった。


 ただ、爺様はスープの入った鍋を二人の前に寄せて、パンをもう一つ置いた。

「たくさん食え」

 と、だけ言った。


 リタは自分のスープを見つめた。

 湯気がたちのぼる、具だくさんで、温かくて、世界で一番美味しいスープ。

 自分もなんだか、目の奥が熱かった。


---


 翌日から、クロエとマリアは家の作業を手伝い始めた。

 最初に任されたのは鶏の世話だった。

 リタが「これなら初めてでもできるべ」と言ったからだ。

 リタの家では十数羽の鶏を飼っている。卵を産ませるためと、たまに肉にするためだ。


「まず餌をやる。穀物のくずと残飯を混ぜたやつだ。こうやって、地面に広く撒く」

 リタが桶から一掴み取って地面に投げると、鶏たちが一斉にダッシュで駆け寄ってきた。

 クロエが思わず一歩後ずさった。

「お、思ったより速いですわね……」

「慣れたら可愛いぞ。ほら、やってみ」

 クロエは恐る恐る桶に手を突っ込み、餌を掴んで、そっと撒いた。

 鶏が足元に群がってきた。

「ひっ……!?」

 もう一歩後ずさって腰が引けた。

 だが、鶏たちはただ必死に生きるために食事をしているだけなのだ。

 クロエは深呼吸を一つすると、今度はしっかりと目を開け、再び餌を撒いた。

 徐々に徐々に、クロエは慣れてきた。

「……段々、可愛く思えてきました」

「だろ」



「次は卵を集める。巣箱に手を入れて取り出すだけだ」

「巣箱、というのは」

「あの木の箱。鶏が卵産む場所だ」

 マリアが恐る恐る巣箱の中を覗いた。

「中に……、に、鶏がいますが」

「お、産んでる最中だな。その子はそっとしておいて、隣の巣箱から取れ」

「わ、わかりました」

 マリアは隣の巣箱に手を入れた。卵に触れた瞬間、少し目を丸くした。

「……温かい」

「そりゃそうだ。さっきまで親鳥のお腹の中にいたんだ」


 それからしばらく、二人は黙って作業を続けた。

 小屋独特の臭いには最後まで慣れなかったようだが、その口から不満や弱音の類は、ただの一言も漏れることはなかった。


 作業を終えると、昼の食事の時間だった。

 居間のテーブルには野菜をたっぷり入れたスープと黒パンが並んだ。

 クロエとマリアは、毎食きれいに平らげた。


 夜が来れば眠ることができた。

 二人に用意された寝床は、藁を詰めた袋の上に使い古されたリネンのシーツをかけただけの簡素なものだ。毛織の掛け布団は少し重くて、背中には藁が当たる感触がする。

 到底貴族が使うようなものではない。

 だが、二人は朝まで目覚めることなく深く眠り続けた。


---


 二人はすっかり村に馴染んでいた。


 クロエとマリアは、流石貴族令嬢というべきか、飲み込みがとても早かった。

 鶏の世話を完璧に覚えたと思ったら、次の週には母親と一緒に保存食づくりに加わっていた。キャベツを塩漬けにする作業で、特にクロエは一度やり方を見ただけで手順を覚えた。隣のおばさんが「筋がいいねえ」と言って、翌日から干し肉の作り方も教え始めた。


 物静かなマリアは、村の子供たちに懐かれた。

 おっとりとした丁寧な話し方や、おとぎ話のお姫様のような美しい佇まいが珍しかったのか、子供たちがひよこのようによくまとわりついた。最初は戸惑っていたが、何日かするとすっかり慣れたようで、畑仕事の合間には、子供たちに花飾りの編み方を教えて笑い合うようになっていた。


 数週間が経つ頃には、かつての死人のような青白さは微塵もなかった。

 日の光を浴びて、頬は健康的な桜色に染まり、よく笑い、よく食べ、よく眠る、生命力に満ち溢れた「ただの人間」がそこにいた。


---


 一方、王都では、未曾有の混乱に直面していた。

「大変です! 結界が揺らいでおります! 北の境界では魔物の侵入が!」

 玉座の間に悲痛な伝令の声が響いた。

 居並ぶ大臣たちの間に動揺とざわめきが広がった。


 聖女たちが居なくなってから、国や王都に張っていた結界は揺らいでいた。


「聖女たちの行方はどうした!  まだ連れ戻せぬのか!」

「は、はっ……!  いまだ足取りは掴めず、手紙から推測される辺境の農村へ、急ぎ使者を向かわせておりますが……!」

「聖女ともあろう方々がなぜ……!」

「聖女様が自ら去るなどあり得ない」

「そうだ、きっと何者かに攫われたのだ。置き手紙もきっと偽装だ! 聖女は祈りたいはずだ。あの方々が自分の意志で祈りを捨てるなど考えられん」

「聖女様は民のためならすべてを捧げられる方々。不満など持つはずがない」


 大臣や国王が思い思いの言葉を吐き散らした。

 その場にいる誰もが微塵も疑っていなかったのだ。

 聖女が不満を持つはずがない、と。

 聖女は祈ることが喜びのはず、と。

 王宮が与えていた「清貧」という名の地獄のような生活を、これ以上ない高遇であると、彼らは本気で信じ込んでいた。


 だって聖女なのだから。

 神に選ばれた聖女は神聖で欲を持たない。空腹などない。祈ることだけが彼女の生きがいだから。


「必ずや聖女様方を連れ戻して参ります」

「うむ。聖女様方もきっと心細い思いをされているだろう。早く王都へお連れせねば」


 国家の崩壊が足元まで迫っているというのに。

 誰一人として、なぜ彼女たちが去ったのかを、その胸にどれほどの絶望を抱えていたのかを、少しも、ただの一秒すら考えようとしなかった。


---


 それから数日後。

 王宮の紋章が入った馬車がリタの家の畑付近に停まった。

 中から出てきた使者は、畑で作業中の三人の姿を見つけるなり駆け寄ってきた。

「おお……よかった、ご無事でしたか! 聖女様方、今すぐ王都へお戻りください! 皆が貴方達の祈りを待っております! 結界が揺らいでおり、魔物の被害が甚大で……」


 必死の形相で叫ぶ使者を前に、クロエとマリアは顔を見合わせた。

 それから、二人そろって深く頭を下げた。

「申し訳ございません」

 クロエが静かに言った。

「わたくしどもには、無理でございました」

「い、いえ、そのようなことは!」

 マリアもクロエに続いた。

「朝晩の祈りに耐えられず、清らかな食事では空腹になってしまい、眠ることを求めてしまう。そのような者は聖女ではございません。力及ばず、申し訳ございません」

「そ、そんなことは構いません! 今となっては些細なことです!」

 クロエが穏やかに首を振った。

「でも、それではわたくしどもは聖女に相応しくないのでしょう? かつて神官様もそう仰いましたわ」

「……っ!」

「わたくしたちが戻ったところで、またお腹が減ってしまいます。眠くなってしまいます。皆様が求める、欲も疲れも知らぬ完璧な聖女様にはどうしてもなれないのです。戻ってもきっと、皆様を失望させ、ご迷惑をおかけするだけですわ」

 マリアが続けた。

「どうか、私たちのような不甲斐ない偽者ではなく、王宮が求めるに相応しい、気高き本物の聖女様が一日も早く見つかりますよう、ここからお祈りしておりますね」

 二人はもう一度、深々と頭を下げた。

 その様子は驚くほど謙虚で、あまりにも申し訳なさそうだった。

 あくまで非は全て自分たちの力不足によるものであり、王宮のやり方に文句があるわけでは決してないのだという態度。


 使者は口を開いたままだった。

 横からひょこっとリタが顔を出した。

「んだ。そういうわけだから他の聖女様を探してくれ。オラたちじゃ無理だ」

「し、しかし……そんなことを言っている場合では……!」

「あ、二人の事は心配無用だ。ここで作業手伝って暮らしてくって」

「はい。聖女としての素質がなかったわたくしたちが、再び王都の土を踏むなど言語道断ですわ。家にも顔向けできません」

「私たちはここで慎ましく生きようと思います。今までありがとうございました」


 使者は凍りついたようにその場に立ち尽くしていた。やがて、何も言い返せないまま、失意のなかで馬車へと引き返していった。


---


 王都の酒場で噂が広まり始めたのはそれから間もなくのことだった。


「聖女様が逃げたって話、本当か?」

「本当らしいぞ。自分たちには無理だって、置き手紙を残して辺境の村へ行ったとか……」

「なんで? 聖女様ったら、王宮で国一番の上等な生活してるんじゃないのか?」

「それがよ……」

 話した者が声をひそめた。

「どうも飯は固いパンと薄いスープだけ。夜中も起こされて、休みも給金もなく、死ぬまで祈り続けないといけないらしいぞ」

「……嘘だろ」

「俺たちより待遇悪いじゃねえか」


 噂は酒場から酒場へ、市場へと広がった。

 やがて、誰が作ったかも分からぬビラが出回り始めた。

 手書きのそれには、聖女の生活が事細かに書かれていた。

 食事の内容、睡眠時間、給金が無い事、などなど……。

 そして最後に一行。


『数年前に亡くなった聖女様は、眠れず食えず祈り続けた末に、体が尽きた』


 ビラは王都中の至る所に貼られた。

 やがて街頭にひとりの男が現れ、大声で叫んだ。

「聖女様はひどい扱いを受けていたんだ! 飯も満足に食えず、眠れず、死ぬまで祈らされた! 魔物が増えたのは聖女のせいじゃない、王宮のせいだ!」


 男の周りには地を埋め尽くすほどの人だかりができ、民衆の目は怒りに染まっていった。


---


 同じ頃、騎士団長が王宮に報告に来た。

「陛下。兵の士気が著しく低下しております。聖女様方の祈りと笑顔があるから戦える、という者が多く……このままでは討伐に支障が出ます」

「な、なんとかならんのか」

 騎士団長は真っ直ぐ国王を見据えた。

「その前に、一つ確認させてください。……巷に出回っている噂は本当ですか」

 玉座の間がにわかに色めき立った。

「聖女様方の食事が固いパンと薄いスープだけというのは本当ですか。夜中も起こされ、休みも給金もなく、任期も定められていないというのは本当ですか。数年前に亡くなった聖女様は、眠れず食えず祈り続けた末に……というのは」

 大臣の一人が引きつった声を上げた。

「せ、聖女は清貧を尊ばれる存在。それが聖女の在り方で……」

 団長の目が見開かれた。

「清貧、ですか」

 一歩、凄まじい威圧感で前に出た。

「つまり、噂は本当だと」

「騎士団長、落ち着……」

「ふざけるなっ!!」

 怒号が太い柱に反響した。

「俺たちは戦場で何度もあの方々に命を救われた!  瘴気で倒れた騎士が、彼女の祈り一つで立ち上がれた!  魔物に踏まれて動けなかった仲間が、翌朝には剣を握れた!」

「……っ」

「あの方々は碌な飯も食えずにそれをやっていたというのか!  夜中も起こされて、眠れないまま戦場に来て、それでも俺たちの前で健気に笑っていたというのか!」

 息を荒くする騎士団長は、逃げるように視線を彷徨わせる国王を鋭く睨みつけた。

「王家の仕事は何だ。聖女を守ることではないのか!?  国のために命を張る者を守ること、それが王家の仕事ではないのか!!」


 静寂。


 誰一人言葉を返せなかった。

「……あんな扱いをしておいて、何が王家だ」

 吐き捨てられた言葉が、冷え切った空間に重く残った。

 騎士団長は踵を返し、二度と王命に従わぬ決意を胸に、広間を去った。


---


 そして、国境からもたらされたのは最悪の知らせだった。

「隣国の軍が国境付近に集結しております! 政治的不安定を察知し、侵攻の準備を進めている可能性が……!」

 使者の顔は青ざめ、玉座の間は恐慌に陥った。

「ま、まずいぞ……内では民が暴動寸前、騎士団はボイコット、外からは隣国だ」

「聖女を取り戻さなければ」

「しかしどうやって! そもそもなぜこうなった、聖女の管理が甘かったのではないか!」

「そうだ、監視の一人でも置いておけば……」


 互いに責任をなすりつけ合う醜い声が響く中、喧騒を切り裂くように


 バンッ!


 割れんばかりの音を立てて、分厚い扉が開け放たれた。

 激しい衝撃に、誰もがビクリと肩を跳ね上げて入り口を振り返った。


 現れたのは二人の男。クロエの父、そしてマリアの父だった。


「公爵、伯爵!?  許可もなく突然どういうつもりだ……!」

 遮る大臣たちを視線だけで黙らせ、公爵は王の前へと歩を進めた。

 極めて滑らかに、完璧な角度で頭を下げた。

「王宮に伺う前に、いくつか話を仕入れてまいりましてな。まずは騎士団長から」

 国王の肩がびくりと跳ねた。

「あの方が涙を流して懇願してきたのです。公爵家から王宮に話をしてほしい、と。自分たちがどれほど聖女に救われ、彼女たちがどれほど不当に搾取されていたか。自分が怒鳴り込んでも王宮は揉み消すだろうから、頼む、と」


 クロエの父、公爵はゆっくりと顔を上げた。

「そして、故人となられた聖女のご遺族にも会いました。ある父親は、娘は聖女として名誉の中に死んだと、ずっと自分に言い聞かせてきたそうです」

 静かな声だった。

「それが、中身を開ければどうだ。固いパンと薄いスープ。眠れず終わりのない強制労働。『もし娘が人並みに食事をとり、眠れて、大切にされていたなら、まだ生きていたのではないか』そう血を吐くように悔やんでおられましたよ」

 隣ではマリアの父である伯爵が、拳を血がにじむほど握りしめていた。

「これは名誉の死などではない。ただの使い潰しだ。その無念を遺族はどこへぶつければいい……?」


 公爵がわずかに顎を引くと、背後に影のように控えていた従者が恭しく一歩前へ出た。その手には、丁寧に製本された分厚い書類が捧げられている。

 公爵はそれを受け取ると、玉座の段上へと容赦なく叩きつけた。


 乾いた音が、王宮の終わりを告げるように響く。


「民衆の支持は失墜。騎士団の士気も消滅。外には隣国の軍。……おわかりですね?  今の王宮に、この国を立て直す力など残されていません」

「こ、公爵! これは重大な越権行為で」

 口を挟もうとした大臣を、公爵は鋭い眼光で一瞥した。

「何か言いましたか」

 その勢いに大臣は言葉を失って、その場にへたり込んだ。


 公爵は、哀れむような目で国王を見下ろした。

「今、あなたにできることは一つだけです」

 書類が王の目の前へと押し出された。

「……これにサインをすれば、この国は我が公爵家が守って差し上げます」


 震える手で筆をとった国王が、掠れた文字で署名を刻む。

 公爵はそれを静かに回収して従者へと戻し、これ以上ないほど完璧な一礼をした。

「ありがとうございます、陛下」

 その丁寧な言葉遣いとは裏腹に、この国の実権が完全に移り変わったことを、その場にいる全員が理解していた。


---


 ある日の午後、リタは畑で根菜を掘っていた。

 クロエは鶏に餌をやっていて、マリアは雑草をむしっていた。


 いつも通りののどかな午後だった。


 村の入り口に馬車が止まったのは、そんな時だった。

 紋章が入った大きな馬車が村に入ってきた。


 馬車の音を聞いたクロエが思わず振り向いた。

 そして、馬車の紋章を見た瞬間、顔色が変わった。 

「……お、お父様……」


 馬車の扉が開いた。

 最初に降りてきたのは背の高い男だった。クロエの父だ。

 次に、マリアの父。

 そして最後に……


 鍬を片手に駆け寄ってきたリタは目を丸くした。

「……すんげ」

 思わず声が出た。

 なぜなら馬車から出てきたのは、国王だったから。


 クロエとマリアは青ざめていた。

 聖女として活躍できなかった。家に泥を塗った。王家への義理を果たせなかった。

 その処分が通達されるのでは、と。


 三人の前で、国王が止まったと思うと、その瞬間深く頭を下げた。

「此度のこと、誠に申し訳なかった!」

 あまりの光景に、クロエとマリアは言葉を失って硬直した。

 隣でリタも完全にフリーズしている。

 国で一番偉いはずの国王が、自分たちに向かって頭を下げているのだ。


 三人が困惑している間に、クロエの父が前に出た。

「説明する」

 低く落ち着いた声で、父は聖女たちが逃亡した後に王都で起きたことを淡々と語り始めた。

 聖女の扱いについて噂が広まったこと。

 その噂で、民衆の怒りが王家へ向いたこと。

 騎士団が討伐を拒否したこと。

 さらには、その隙を突いて隣国が国境に兵を集め始めたこと。

 そして、実質的な政権がクロエの家へ移ったこと。などなど。

 クロエもマリアも息を呑んで黙って聞き入っていた。

 リタは途中から頭の上にはてなが並び始めた。

(せ、政権……?)

(全権委任ってなんだべ)

(ええと、つまり……どういうことだ?)

 よくわからなかったが、何やらすごそうなことが起きたのは理解できた。


「今後、聖女については我が公爵家が責任を持って管理、保護する」

 クロエの父が言った。

「まずは、聖女保護法を定めた」

 懐から書状を取り出し、クロエに渡した。

 クロエはそれを受け取ると、開いて読み始めた。

 マリアが隣から食い入るように覗き込んだ。

 二人の目がゆっくりと文字を追っていった。

 リタも覗き込んでみたが、難解な法律用語の羅列に3秒で目が回ったため、そっと読むのを諦めた。


 書かれていたのはこんな内容だった。

 聖女となった者には給金が支払われる。

 衣食住は王族と同等のものを提供する。

 休暇は必要に応じて取得できる。

 帰省を認める。

 任期は五年を上限とする。ただし本人が望む場合は延長も可。

 深夜の祈りは廃止する。研究者の見解によれば、深夜の祈りによる効果は限定的であり、聖女が健康であることの方が結界の質が上がるとのこと。

 聖女辞退の権利を保障する。


 呆然とする娘たちの姿に、マリアの父が頼もしく微笑みかけた。

「他にも必要なものがあれば、随時書き足していく。二度と、お前たちに理不尽な我慢はさせない」


 国王が一歩前に出た。

「……王宮は、聖女に対して幻想を持っていた」

 静かな声で話し始めた。

「聖女が祈る姿を見て感動し、神秘的な現象を目にして畏敬を覚えた。そうして、ありもしない偶像を作り上げた。清らかで慎ましく、欲を持たず、眠らずとも祈り続けられる、人を超えた存在だと」

 国王は目を伏せた。

「そのせいで、取り返しのつかないことをしてしまった」

 誰もその言葉を否定しなかった。

 しばらくしてマリアの父が静かに言った。

「確かに取り返しはつかない。でも」

 書類を指で示した。

「これがあれば、これからの聖女は生きることができる。貴方たちの後に続く人たちが、同じ思いをしなくて済む」

「……今まで気づけなくて、無理をさせて、本当に済まなかった」

 クロエの父は悔しそうに言った。


 国王はゆっくりと顔を上げ、クロエ、マリア、そしてリタを真っ直ぐに見つめた。

「どうか、戻ってきてほしい」

 それから、もう一度頭を下げた。

 クロエの父も。マリアの父も。

 三人の男が、畑の前で頭を下げていた。


 クロエとマリアは顔を見合わせた。

 そして二人は、静かに頷いた。

「……わかりました」

 クロエが言った。

「これからの聖女様のために、戻ります」

 マリアも頷いた。

「私も」

 二人は決して許したわけでも、懇願に絆されたわけでもない。

 貴族令嬢として、自分たちに続くであろうまだ見ぬ聖女たちの未来を見据えた上での決断だった。


 リタは迷っていた。

 確かにこれなら戻ってもいい。飯も出るしちゃんと眠れる。望めば帰省もできる。

 でも……

(……オラはどうしたらいいんだ)

 クロエやマリアのような立派な理由は自分の中にはない。


「リタ」

 振り向くとそこには爺様、そしてリタの父親が立っていた。

 爺様が、不器用にごわついた手でリタの頭を撫でた。

「行ってこい」

 父親が続けた。

「あのお嬢さんたちの力になってこい。でも、少しでも辛くなったり、約束が破られるようなことがあれば、いつでも戻ってきていいからな」

「……っ」

 リタは、爺様と父親の顔を交互に見つめた。

 それから、自分が一生懸命耕した畑を見回した。


 ここにはいつでも帰ってこれる。


 お貴族様たちのように国の未来なんて大層なものは背負えない。

 けれど、未来のためにと傷つきながらも立ち上がった仲間を支えるためなら、自分は祈れる。


 リタは小さく息を吸い込むと、持っていた鍬を父に渡した。

「預かっといてくれ」

 父親は黙ってそれを受け取った。

 爺様が口を開いた。

「飯はちゃんと食えよ」

 その言葉でリタの目が見開かれる。そして、明るい笑顔で返した。

「おう!」


---


 三人が王都に戻った翌朝、すぐ結界に祈りが捧げられた。

 祈りの光は、以前よりもずっと強く輝いていた。

 騎士団長が空を見上げた。

「……これは」

 思わず息を呑んだ。

 結界が見る見るうちに厚みを増していく。

 傍らの騎士が歓喜に震えた。

「聖女様が戻ってきてくださった!」

 騎士団はすぐさま討伐に動いた。

 国にのさばっていた魔物たちは着実に、そして迅速に駆逐されていった。


 隣国の情報が入ったのは、それから数日後のことだった。

「国境付近に集結していた隣国の軍が、撤退を始めております」

 伝令が報告した。

「どうやら、政治体制が安定したと判断したようで……」

 クロエの父は報告を聞きながら、静かに頷いた。


 王宮は変わった。

 国王はその名と血統こそ保ったものの、実権を完全に失った。象徴として玉座に座り続けてはいるが、政を動かすのは公爵家を中心とした新たな政権だ。

 聖女に清貧を押しつけてきた大臣たちも、聖女を神聖視し続けた神官たちも、一人残らず入れ替わった。


 そして、聖女の屋敷もまた、生まれ変わった。

 朝の食卓には温かいスープと柔らかいパンが出るようになった。

 昼には焼いた鶏肉とチーズ、季節の野菜が並んだ。

 夜には香辛料で味付けされた鹿肉のローストや魚料理、更には果物まで出た。

 以前の固いパンと薄いスープが嘘のような食卓だった。

 リタは最初の夕食で、鹿肉を一口食べて固まった。

「……うんめえ……!」


 理不尽に深夜に起こされることもなくなった。

 もちろん、聖女としての仕事が甘いわけではない。戦場へ赴けばどれだけ祈っても血は流れ、間に合わない命もある。それは目を背けられない過酷な現実だ。


 けれど。どれほど傷つき、心が折れそうになっても、屋敷に戻れば温かい食事と、ふかふかのベッドが待っている。

「ただいま」と「おかえりなさい」を互いに言い合える仲間がいる。


 クロエもマリアも、柔らかな笑顔を取り戻していった。

 リタは相変わらずよく食い、よく祈り、泥のように深く眠った。

 結界は建国以来最も強固な輝きを放ち続けていた。

 理由はあまりにも単純明快。聖女たちが健康で幸せだから。


---


 時が経つにつれ、聖女は少しずつ増えていった。

 魔力検査は相変わらず義務だ。そのため一定の周期でその素質を持つ者が現れた。


 新しい聖女が屋敷に来るたびに、クロエとマリア、そしてリタの三人が温かく迎えた。

 緊張する聖女たちに、まずは贅沢なほど温かなスープと食事を出し、お腹が満たされたところで、丁寧に制度を説明した。

 任期は五年。

 休暇は自由に取れる。

 故郷に帰省していい。

 一人の労働者として莫大な給金が保障されていること。


 そして最後に三人は必ず言った。

「不満があればすぐに言いなさい」

「我慢しなくていい。おかしいと思ったら口に出していい。それがここの決まりです。すぐに改善案が出されます」

 新しい聖女たちは、最初きょとんとした顔をした。

 聖女がそんなことを言っていいのか、と。

 リタが横から言った。

「神様だって、干からびて祈られるより、笑って祈ってくれた方が絶対に嬉しいに決まってる」

 その言葉に、新米聖女たちは張り詰めていた肩の力を抜いていった。


 やがて、任期を終えた聖女たちは、それぞれの道を歩んだ。

 実家に戻り、畑を耕し続けた者。

 元聖女として治癒院で働き、傷ついた人々を優しく救うことを選んだ者。

 素敵な相手を見つけて家庭を持ち、教会や騎士団、聖女の屋敷へ長年莫大な寄付を続けた者。


 かつてのように、王宮の奥底で使い潰され、骨も残さず消えていく聖女はもうどこにもいない。

 国を救うために振るわれた聖女の力は、役割を終えた後もなお、この国に別の形で生き、巡り続けていった。


---


 後世、この出来事はこんな風に伝えられている。


 昔々、酷い扱いに耐えかねた聖女たちが全員逃げたことがある。

 聖女を失った国では結界が揺らぎ、魔物の侵入が相次いだ。騎士団は討伐を拒否し、民衆の怒りは王家へ向いた。隣国は政治的混乱を察知し、国境へ兵を集め始めた。

 国は崩壊寸前までいった。

 そして、同じことが二度と起こらぬよう、聖女を大切にする「聖女保護法」ができた。



 それからずっとずっと後の時代、とある聖女がその記録を読んで呟いた。

「……こんな歴史があったのか」

 今の聖女の暮らしは、何不自由のない快適なものだ。

 朝昼晩、温かくて美味しい食事が用意され、夜になればふかふかのベッドでしっかり眠ることができる。

 任期を終えれば家族のもとへ帰れるし、十分な給金も、休暇も、すべて当たり前に保障されている。

 だが、最初からこうだったわけではない。

 これを当たり前にしてくれた、偉大な先輩たちがいたのだ。


 聖女は記録書をぱたんと閉じ、窓の外に目を向けた。

 窓の外では今日も、聖女たちが祈り続け受け継いでいった結界が、国を静かに守っていた。


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そんな研究結果出てるのに効果低い結界張らせつづけて殺してるのエグすぎる……
今の待遇を当たり前にしてくれた偉大な先輩の話がちゃんと伝わってるのが良かった。 何でも当たり前じゃないよねって分かってくれれば祈りも変わるかな。
いやいやいやいや、過労死だか餓死だかしてるのになんも見直さないの頭悪すぎる。国の守護に必須のユニットなんでしょうが。 そもそも最初は待遇違ったのなら待遇変わった時に時の聖女は何も言わなかったの?
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