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続きそうな短編集

おかげ犬

作者: 曽我部穂岐
掲載日:2026/06/08

 甘い団子の匂いと、煮えた茶を吐く小屋の軒先で、すでに二つ目の握り飯に歯を立てていると、菅笠をかぶった旅装束の男が近づいてきた。


 おれは、口の中の飯を飲み込まずに、短く鼻を鳴らした。


 それで済むと思ったのだが、男は構わず声をかけてきた。


「おかげ犬じゃないか」


 おれはシロである。


 名は「おかげ犬」ではない。


 だが、悪くない。少なくとも損はしない名だ。


 その名で呼ばれると、握り飯やら冷えた芋やらが出る。水も出る。ときには、焼いた魚の端まで出る。


「伊勢までまだ遠いが、しっかり行けよ」


 男はそう言って、懐から銭を出した。


 嫌な予感がした。


 案の定、それはおれの首の袋にねじ込まれた。


 おれは、噛みかけていた握り飯を少し強く噛んだ。


 問題は首である。


 袋には、銭と紙が入っているらしい。重い。たいへん重い。何人もの手がそれを持ち上げ、覗き込み、ありがたがる。


 おれはそのたびに耳を伏せる。


 正直、迷惑だ。


 だが、縄は噛み切らない。切れない理由がある。


 袋を結んだ結び目に、まだ、あの匂いが残っているからだ。


 薬草。汗。薄い粥。弱った主人の、少し冷えた手。


 いつもなら、首の後ろを二度ほど撫でて終わる手が、その朝はいつまでも離れなかった。


 結び目を確かめる指が、何度もためらうように止まった。力が足りず、息が浅く、掌だけが湿っていた。


 おれはそれを覚えている。


「伊勢まで、頼むぞ」


 そう言ったような気もする。


 意味までは分からない。


 ただ、あの手が、いつもと違ったことだけは分かった。


 だから結び目は噛み切らない。


 首が重くても、我慢する。




 町の外れから、道は人で埋まっていた。


 田の畦も、畑の端も、皆が同じ方へ歩いていく。足の速い者も、遅い者も、子を背負う者も、杖をつく者も、流れの向きだけは変わらない。


 草鞋の擦れる音。竹杖の先が土を突く音。子どもの泣き声。笑い声。


 匂いも多い。


 汗、藁、干した米、味噌、安い油、雨の名残の土。


「講中の分まで、しっかり歩かにゃ」

「今年は当たりだ。ようござんしたな」

「おれは抜けてきただけよ。戻れば叱られる」


 言葉はばらばらだが、足だけは同じ方角へ流れる。


 そういう大きな群れの中を、おれも歩いた。


 誰かが水をくれる。


 誰かが飯を置く。


 誰かが勝手に頭を下げる。


「おかげをもらっとけ」

「触れば徳になる」


 触るな。


 徳とやらが何かは知らぬが、知らぬ手で頭を撫で回されるくらいなら、徳など要らない。


 おれは身を引く。


 すると、それすら意味があることになるらしい。


「簡単に触らせぬ。威厳がある」


 違う。


 馴れ馴れしいのが嫌いなだけだ。




 山道に入り、一日進むと、人の流れは細くなった。


 空気が湿る。

 道の脇に残った茶所の炉の匂いも、平地の温い匂いとは違って、どこか煙たく冷たい。


 荷を背負った人間どもの息が荒くなる。軽口は減り、足音だけが増えた。


「また、峠か……」

「この峠を越えれば、伊勢は近いぞ」

「近いが、楽とは言ってねえ」


 誰かが笑ったが、長くは続かなかった。山は、軽く笑える場所ではない。


 右手の斜面に、地蔵が立っていた。首のあたりが欠け、雨だれで黒ずんでいる。


 人間どもは立ち止まり、手を合わせた。おれは見ない。石は石だ。


 ただ、風が変わったところで足が止まった。


 別の匂いがある。


 列の匂いではない。


 止まっている匂い。


 息を潜めている匂い。


 湿った木綿。古い縄。刃物に触れた手の鉄の匂い。


 好きではない。


 おれは鼻先を上げたまま、道の真ん中で止まった。


 後ろから草鞋が詰まる。


「どうした、おかげ犬」


 おれは藪へ入った。


 ざわりと枝が鳴る。首の袋が揺れ、結び目が喉に当たる。


 鬱陶しい。


 それでも進む。


 いる。


 ひとつ。ふたつ。さらに向こうに、もうひとつ。


 おれは低く唸った。


 藪の奥で、何かが息を呑む気配がした。


 人間どもの足が止まる。


 誰かが「何だ」と言い、誰かが「待て」と言った。


 その声に重なるように、枝の折れる音がした。


 逃げる音だ。


 おれは少しだけ駆けた。


 逃げていく足の片方に、歯をかける。


 深くは噛まない。逃げ足が鈍れば、それでいい。


 男が叫んだ。棒が土へ落ちた。さらに奥で、何かがばらばらに動いた。


 匂いが遠ざかる。


 それで足りる。


 人間どもが騒ぎ出した。


「ありゃあ、賊だったに違いねぇ」


「犬が止めてくれたんだ」


「道を守ったんだ」


 おれは鼻を鳴らした。


 ただ、気に入らない匂いを追っただけだ。


 だが、誰もそうは思わない。


 守った犬。

 導いた犬。


 話がひとつにまとまる。


 その中に、あの声が混ざる。


 頼むぞ。


 おれは目を逸らした。


 首の結び目が、わずかに重くなる。


 その夜、囲炉裏端で、話はさらに膨らんだ。


 藪の男は三人から五人になり、棒は刃物になり、おれは山腹から風のように駆け下りてきたことになっていた。


 人間というものは、見たものより、言いたいものを覚えている。


 おれは外へ出た。


 夜の空気は薄く、冷たい。


 結び目を嗅ぐ。


 匂いが、少し弱い。


 前より、確かに。


 だが、まだある。


 それだけを頼りに、目を閉じる。




 伊勢へ着いたのは、それから何日か後だった。


 宮へ向かう道は、また人で膨らんでいた。


 山を越え、田を越え、町を抜け、最後に足だけが急ぐ。人間どもの声も、息も、どこか浮いていた。腹は減っているのに、足だけが前へ出る。疲れているのに、目だけが遠くを見ている。


 おれは疲れていた。


 首も痛かった。腹も減っていた。それでも歩いた。


 人間どもが手を洗う川で、おれも水を飲んだ。


 喉が鳴る。冷たくて、少しだけ生き返る。


 そのまま進み、広い前庭へ出て、そこで座り込んだ。


 座っただけである。

 足がだるく、首が重かったからだ。


「伏せた……」


 誰かが息を呑んだ。


「拝んでいる……」


 違う。


 だが、ここまで来ると、誰ももう違うとは思わない。


 宮へ来るまでの道のり全部が、人間どもの中で一つの話になっていて、その最後に、おれを伏せさせたかったのだろう。


 白いものを着た男が出てきた。


 檜の匂い。墨の匂い。紙の乾いた匂い。古い床に染みた、人間どもの祈りの匂い。


 どれも主人の匂いではない。


 男はおれの首を見た。

 村の名の書かれた紙を見た。


 何かを言ってうなずき、細長い札を持ってこさせた。


 やめろ、と思った。

 これ以上、首を重くするな。


 だが、結び目はほどかれない。


 おれは動かなかった。

 動けなかった、という方が近い。


 札が脇に添えられ、別の紐で留められる。


 人間どもがまた頭を下げる。


 泣く者までいる。


「これで役目が済んだ」

「ようやってくれた」


 役目。


 その言葉は嫌いではない。

 意味はよく分からないが、終わりの匂いがするからだ。


 たしかに、ここで何かは終わったのだろう。

 人間どもにとっては。


 だが、おれにはまだ終わっていない。


 帰る匂いが、どこかにあるはずなのだ。


 宿へ戻る道で、また大勢が道を開けた。


「おかげ犬だ」と囁き合い、小さく手を合わせる。


 誰かが首の札を見て泣き笑いをし、誰かが残り飯を包んで差し出した。


 おれはそれを食った。食うべきものは食う。




 夜。

 宿の土間で横になり、首をひねる。


 結び目を口に含む。


 縄は古い。すぐに切れる。


 軽くなる。


 楽になる。


 ここで終わる。


 伊勢で役目を果たした犬になる。人間どもの話の最後に収まる。


 噛めばいい。歯に力を入れる。


 ――そのとき、匂いが揺れた。


 薄い。


 消えかけている。


 ここで切れば、消える。


 完全に。二度と辿れない。


 おれは歯を止めた。


 離した。


 重いままでいい。


 これがある限り、消えない。


 見えなくてもいい。


 分からなくてもいい。


 あるなら、行ける。




 翌朝。

 空気の中に、細い匂いがあった。


 西へ引く匂い。


 遠い水。


 薬草。


 主人の弱った手。


 消えかかっている。


 だが、ある。


 おれは立ち上がる。


「帰りも頼むぞ」

「途中までも一緒に行きてぇもんだ」


 勝手なことを言う。


 頼まれてはいない。


 おれは外へ出る。


 振り返らない。


 首は重い。札も銭もある。


 だが、それらはどうでもいい。


 おれの首に残っているのは、ただひとつ。


 消えかけた、あの手の匂いだけだ。


 おれはそれを辿って、帰る。






お読みいただきありがとうございました。

創作の励みになりますので、評価・感想をよろしくお願いします。


本作は、江戸時代に実際にあったと伝えられる「おかげ犬」を題材にしました。


おかげ犬とは、病や貧しさ、あるいは家の事情などで伊勢参りに行けない者が、犬の首に初穂料や願文を入れた袋を結びつけ、代参させたというものです。道中の人々はその犬を「神の使い」のように扱い、水や食べ物を与え、時には宿や案内の世話までしたといわれます。


江戸時代には、伊勢神宮への集団参詣である「おかげ参り」が何度も大流行しました。特に明和八年、文政十三年などのおかげ参りは有名で、仕事や奉公先を抜け出してでも伊勢へ向かう「抜け参り」の人々が街道を埋めたと伝わります。人が人を押し流すような熱気の中で、犬までもが願いを背負って歩いたのです。


ただ、この話では、おかげ犬をあまり神聖な存在にはしませんでした。


犬にとっては、伊勢も、信仰も、役目も、たぶん分からない。分かるのは匂いだけ。主人の手の匂いだけ。


人間は勝手に拝み、勝手に意味を見出し、勝手に物語にしてしまう。けれど犬は、ただ自分に残された匂いを辿って帰ろうとする。そのずれを書きたくて、この形になりました。


作中の道中や山中の出来事には創作も交えていますが、「人々が犬を助け、犬が願いを運んだ」というおかげ犬の伝承そのものには、江戸の庶民信仰の温かさと不思議さが詰まっているように思います。


お気に召した方は、他の短編『続きそうな短編集』もぜひ、ご一読ください。


参考文献:『明和続後神異記』『御蔭参宮文政神異記』『甲子夜話』『宝来講 道中細見記』

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― 新着の感想 ―
いいですね! 犬目線のお話しだとは思いませんでした。 すばらしい。
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