第5話 12月の始め 『地獄先生ぬ〜べ〜』みたい!と大騒ぎ その3
黒板の下の方、ほこりが薄く積もった縁のすぐ上に、私は指を伸ばした。そこには、黒マジックで力任せに書かれた小さな文字があった。
「おれは本気だ! by ゆうき」
その筆跡は震えていて、怒りと悔しさが混じったような勢いがあった。 多分、「そんな細かいことまでゆうきか」の最後の「ゆうきか」だけを聞いて、自分のことを言われたと勘違いして殴りかかったのだろう。 (想像だが、この想像はあたっている。これが外れるようじゃ、公認心理師にはなれない。)
それなのに反撃され――倒された。 その屈辱が、さらに激怒を呼び、この落書きという復讐に変わったわけだ。
私は黒板の文字を見つめながら、胸の奥で小さく息を吐いた。 次は、3年生のこの「ゆうき」君を探さないといけない。

6年生の3人には、そこらあたりの勘違い――「ゆうき」違いのことを説明して、新しく6年3組に指定された音楽室に行くよう指示した。 3人は、なんとなく納得したような、していないような、不思議そうな顔をしていた。 (そんな勘違いをする子がいるなんて、彼らの理解の外なんだろう。)
帰り際、南君がふと立ち止まり、私を見上げて聞いてきた。
「前から気になってたんですが、先生の『写楽』というのは、どんな由来があるんですか?」さすが読書家。「由来」ときたか。
「私の父が『しゃらくさいやつ』でね。つまり、生意気でこざかしいやつだったんだ。大学時代のあだ名が『しゃらくさい』だったらしいんだよ。それをそのまま、わが子に付けたわけ。『写楽』でよかったよ。下手したら『写楽犀』になりかねなかったからね。」
南君は「なるほど」と言いながら、どこか楽しそうに笑った。 自分の名前の由来を語るとき、私はいつも少し照れくさい(全部、嘘なので…)。

南校舎から運動場を横切り、北校舎2階の職員室へ向かった。 冬のはずなのに、空気は妙に柔らかく、頬に当たる風も冷たさを失っている。 (やっぱり、ちょうどいい気候だ。地球温暖化なのかな?12月になったんだから、本当は寒い頃なんだが。)
階段を上り、職員室のドアを開けると、そこはがらんとしていた。 授業中の静けさが、広い部屋の空気を薄く伸ばしている。 専科の先生や家庭サポータ、新任担当教諭、教務係、そして教頭先生だけが机に向かっていた。
3年生の先生はいない。 (当たり前か。8時45分、1時間目がもう始まっている。)
仕方がないので、3年生のクラス名簿を平井教頭先生に出してもらった。 教頭先生は自分の後ろのファイルケースから、名簿を迷いなく取り出した。 (資料整理ができないと、教頭になれないだろうな。)
私が落書き事件について説明すると、教頭先生は「ああ、それで分かりました。なぜ6年3組が急遽教室変更になったんだろうと思ってました」と頷いた(教頭先生と校長先生の連携が少し悪いようだな)。

名簿を1組から見ていくと、3年生には3人の「ゆうき」がいた。 そのうち一人は「由貴」で女の子。 ということは、残りの橋田裕貴か松本佑樹のどちらかが、私の探している「ゆうき」ということになる。
教頭先生によると、音楽専科の先生が3年生全クラスを見ているとのことなので、事情と「ゆうき」君の特徴を説明して、2人の「ゆうき」について聞いてみた。
「その小柄の『ゆうき』という男の子は、松本君の方ですよ。橋田君は背が高くて、少年サッカークラブのゴールキーパーしているくらいですから。それに、松本君は、ちょっと変わってますしね。」
どう変わっているか聞こうかとも思ったが、これから直接会うので、自分で見ればいいだろうと判断した。 とりあえず、落書きした本人を特定できたわけだ。
その時、校長室の職員室側のスライドドアが開き、森本校長先生が顔を出した。
「もう、ぬーべーは退治した?」
「今、落書きした子どもを特定したところです。」
「ぬーべーは、どうなの?」
「ぬーべーは関係ありませんでした。運動会委員が勝手に言っているだけです。そして、今から――」
落書きした本人に会う算段をしているところだと説明しようとしたら、
「そう。『ぬーべじゃ』なければいいわ。TSさん、早く解決してね。よろしく。」
と言って校長先生はまた校長室に引っ込んでいった。
(なんだ今のは? もう少し“素早い解決ね”くらい言ってもいいのに。人を決して褒めない校長だ。)
教頭先生に松本佑樹君を3年生の教室から保健室に呼び出すよう頼み、私は保育室に戻って朝のお茶の続きをしようとした。 いや、お茶はやめて、頭を冴えさせるために珈琲にしよう。ドトールコーヒーの格安パック(1杯40円)とIKEAの大型マグカップを取り出す(恋人にもらったジアラのカップより、大量にコーヒを飲むときにはこちらの方が便利)。 ティファールに水を入れ、スイッチを押す。 アルミパックを破り、マグカップの上にセットした――その瞬間、ノックの音がした。


(まさか、もう松本君が来た?)
「どうぞ」と言うと、3年3組の小泉先生が松本佑樹君を連れて入ってきた。 (平井教頭先生は、仕事が早い。)
TO BE CONTINUED
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