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私達は毎日「そんな〜時代も〜あ〜ったねぇと〜」と種を見つけるだけのゲームを楽しんでいます( ー`дー´)キリッ✨

いつもありがとうございます。
昨日は巳の日でした。


たまたまその前日、例の無料お届けで
金色の蛇の置物が届きました。



更に、たまたまその前日、
その金色の蛇の置物を入手する流れに
恵まれました。



更に数日前に、弁天様と龍神様が
いらっしゃる神社に伺ってきました。
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それは元々「呼んでいただいている」と感じる
出来事があったからで…


そこに「至る」までにも「お導き」を感じる
出来事が積み重なっていました。



そして昨日、たまたま私の親戚の葬儀と
主人の親戚の葬儀が重なり
私は迷わず、主人の親戚の葬儀に出席
する事にしました。




そして、その流れで思いがけず
「臨時収入」があり、更に今まであった
「お金の憂い」が「物理的に解消」されました。




私はこれは、「神様達高次元の皆様」が
下さった「種」だと思いました。




私達の周りには、日々
「過去の自分が意識していたもの」が
転がっています。



当時「自分が意識していた思い」を
「感じさせる」種が「一番大きく見つけやすい」
のですが



今までと「違う展開」を望むのであれば
「違う」種を育てて「大きくする」選択を
しても良いと思いました。



そう「感じていた結果」を「受け取った」
気がしました。




そして同時に「更に今、過程で育てている」
とも思いました。




この地球は「意識を向けたもの」が
「拡大する」幻想を楽しむ場所です。




だから例えば、誰かが「悲しい」幻想を
観ている横で、私は「嬉しい」幻想を
観ている事もあるかも知れません。


そして「二極ある」からこそ、
私も誰かも「逆の体験」もするのです。




主人の親戚の葬儀に参加しながら、
ぼんやりと「愛しさ」「喜び」を
感じていました。


同時に、自分の親戚の葬儀を思い、
両親の葬儀だったら、どう思ったのだろう?
と想像しました。




両親の葬儀だったら、何だか
「人間文化って面白いな」と思って
遠慮なく笑ってしまうだろうな、と思いました。



だって私は、「抜け殻」には正直
興味がないのです。
↑789文字!




私達は元々、誰もが分け御霊であり
尊い存在で優劣はありません。
源に「還っている途中」という点では「同じ」
なのだと思います。

ただその「感覚」は源に近ければ近い程
感じやすく、遠ざかれば遠ざかる程
分かりづらくなるだけなのかも知れません。



そして、「生まれてきた」なら
「死ぬ」体験はセットなのです。



必ず誰もが「通る道」なのだと思います。
それにも関わらずに、
「生きていて欲しかった」
「もっとそばにいたかった」
と「感じられる」体験は、
人間である「今」だから、できる事です。



それぞれに違う宗派で違うやり方があったり
マナーがあったり…



それらを「ちゃんと」やろうが守ろうが
「テキトーに」やらなかろうが守らなかろうが



故人が生き返る事はありません。



だから、葬儀は「今生きている人」の為に
行うのだな、と思いました。



「寂しい気持ち」「悲しい気持ち」を
ちゃんと場をつくって「感じきる」事により
次に進む事ができます。



そして、寂しさ悲しみを経験したからこそ
「愛しさ」「喜び」を「感じやすくなる」のだと
思いました。
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ただ私は、もともと「外側」に
あまり興味がないタイプなのです。


美男、美女、
確かに目の保養はできますが、見慣れます。


お金持ち、権力者
死んだら残るのは「影響」だけです。
どんな影響が「遺る」のかはその人次第なので
貧乏人もお金持ちも変わりません。



芸能人
死んだらやっぱり骨になります。




人間が亡くなれば「物質」は「みえなくなる」
かも知れません。



でも私は今「目を閉じる」だけで
生前のおばあちゃんの「声」も
優しく頭を撫でてくれた「感触」も
口癖だった「言葉」も
温かく抱きしめてくれた時の「匂い」も



くっきりはっきり「思い出せる」のです。



今生きていて会えていない
遠くにいる人達と「同じ」ように…。



脳は、現実と妄想の区別がつかないなら
「イメージできる」事が「近くにいる証」で
物質がそこにあるか否か、は
実はそこまで大きい問題では無いのかも知れないと
本気で思っております。



だって、私は「電車で乗り合わせただけ」の人の
声は知りません。
知らないからイメージもできません。
その人は今、眼の前にいるのにも関わらずに。





そんな事をぼんやり考えながら
一生懸命葬儀でお経を唱える
お坊さん達を観ていたら



主人の亡くなった親戚が
「笑っている」と感じました。



気のせいかも知れないと思ったし、
生前を知らない私が、分かる可能性は低いだろうと
思って黙っていました。



そうしたら、何と主人の親戚の方も
「受け取れる」方々でした。



1人目は主人の母、2人目は主人のおば
です。



そうして向こうから、
「来てたね。」と話しかけられたので
思わず応えてしまったら


何とびっくり!主人のおばは
「スピリチュアルなお仕事」をしている方
でした。



「しじみちゃんはやらないの?」とサラリと
言われて、更にびっくり。



私はやっぱり「お導き」を「いただいている」
のだと有り難く嬉しく思いました。




さとうみつろうさんの動画によると
今年の12月22日0時3分に
どんな状態で「在る」かが拡大していくそうです。



願いを叶えたいなら、その種を見つめる状態
であれば良いのだと思います。


そして、現実世界で「不満な出来事」を
見つけた時は、
それを「不満」と考えられる程
「今の自分に満足している」種を
見つめていこうと思いました。





雨に「不満」を感じられるのは
雨に「満たされた後」だからです。
雨を求めていた時には、それが「満足」に
繋がっていたのかも知れません。



だからこそ、過去の自分も間違ってなかった。




そして、今までは「苦しい」と感じる体験を
「人間意識」で感じてきたなら
「神様意識」で捉え直してみるのも面白いかも
知れないと思いました。




人間意識では「辛い」なんて「当たり前」なのに
神様意識では、それが「分からない」のです。
分からないからこそ「辛い」を「体験できる事」が
「喜び」なのです。




我が子と話していて、
「〇〇をするのは、ママは楽しくないのよ。」
と言ったら、




「たのしくないんだ?なんで?」と
言われて、はっとしました。



私は今、何の種を育てている?



そもそも「何で楽しくないの?」

いや、こんなん「誰だって」楽しくないでしょ。



どうして?

そう「相場が決まってる」から…





なんとびっくり!「楽しくない」の理由なんて
特に見当たらなかったのです。




逆に「楽しい」にも理由なんていらないのです。



「楽しむ」って「決める」だけで
いくらでも楽しくなります。




例えば

「皿洗いでシンデレラごっこ」
※シンデレラになったつもりで、王子様を
夢見ながら皿を洗う場面


「シミ落としで博士ごっこ」
※エライ博士になったつもりで、世紀の大発見を
するべく、シミ落としを研究している場面



「掃除で警察ごっこ」
※警察になったつもりで
家中のゴミやほこりや不要物を相手に、
ピピーっ!御用だ!御用だ!と取り締まる場面



「我が子のおもちゃ片付け競争」
※おもちゃ片付け選手権暫定1位を死守するべく
我が子に負けずに、さっさと片付ける場面



「貧乏ごっこ」
※宇宙のお姫様が地球に来て、普段はできない
体験をしようと思い、記憶を消して人間として
お金に困る体験をして有り難みを知る場面




幼い頃は「〇〇ごっこ」が大好きでした。
ごっこ遊びでは「何にでも瞬時になれる」のです。
私が「〇〇になる」と決めた「瞬間から」
私は「〇〇だから」です。



そしてどんな「場面」も
「ハッピーエンド」に「繋ぐ」為に「在る」
のです。



だからこそ私はいつでも「楽しい」のです。


だって私は「主人公」でいつだって私の中で
「一番輝いている自分」を観ています。



他の人には「みにくいアヒルの子」にみえても
私自身が「私は白鳥」だと知っているなら
その「情況」さえ、「楽しい」のです。



そして、その「設定」は「好きなタイミング」で
いくらでも「変えられる」のです。



眼の前にある「現実」は
「過去のエネルギー」が結晶化した物です。


だからこそ「変えられない」と感じるかも
知れません。


でも、私自身は常に進んでいます。


だからこそ「変えられる」事で楽しめるのです。
それは、変えられないものがあるからこそ、
ゲームの「楽しみ」が生まれるのです。



例えば眼の前に「私をなじる」人がいるなら
なんでそんな事をするのか?
過去は考えていました。でもそれは相手の「学び」
です。


だから今なら「なじられる」を
「過去の私は見つめていたんだ…」



「それが分かるくらい、今の私は自分に
優しくなれたんだ」と思います。



そして「過去の私」を包み込むイメージで
「大丈夫だよ。悲しくならないから安心して。」と
声をかけます。



だってもう、「悲しむ」経験は「満喫した」ので
今、私を喜ばせてあげたいのです。



今、安心させてあげたいのです。



誰より大切な私だから、今
楽しませてあげたいのです。




ところが有り難い事に、今私を悪く言う人は
居ないのです。直接関わりがある人間は
主人と我が子様だけ。



ネットを通して繋がっている人間は
私が「御縁をいただけて有り難い」と思う方だけ。



私が今楽しめるのは
「周囲にいて下さる方々」のお陰様なのです。


あらゆる種があるから「選ぶ自由」があります。



皆様のお陰様で私は
「私が好む現実を創る種」を見つけるのが
本当に上手になり、育てるのも上手になりました。


だからこそ私は今「愛が循環している」種と
「頑張ってきた方々が報われている」種を
見つめています。



時折、「世の中の理不尽さ」や「嘆き」の種を
うっかり育ててしまいそうになる事もありますが


それも全部含めて「等身大の私」だからこそ
ゆっくり「自分が育てたい種」を
育てていきたいと思います。



私は今の私で「在る私」に誇りをもっています。
だからこそ貴方様を誇りに思います。
だって誇らしい私の「顕現」である皆様は
私と同じくらい「素晴らしい」方々で「在る」事を
知っているからです。



12月22日0時3分は
どんな私で「在る」事を「意識」しようと考え
「いつも通り」で良いと思いました。

そう思える事が嬉しく有り難いと思いました。



そんな事をぼんやり考えていたら、ふと過去に
12月に亡くなる人が多いのは何故だろう?と
考えていた事を思い出し、
「宇宙元旦」に合わせて、宇宙新学期から
新しい学習を始める為に、



年度いっぱいギリギリまでの寿命を
設定してくる魂が多いからなのかも知れないな
と思いました。



貴方様が「有益」「真実」と思われたもののみ
おもち帰り下さいませ。

御縁をいただけた事に深く
感謝申し上げます。

最後まで読んで下さって
ありがとうございました🙇💕



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