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教室の住人たち|50点の価値

テストの50点を、どう捉えるだろうか。

平均点にもよるけれど、一般的にはあまり良い評価として受け取られないかもしれない。

ただ、50点を超えることを目標にしていた子がいた。
数学で50点を取る。
その子にとっては、それが、とても高い壁だった。

その子が中学生の最初の定期テストでスタートしたのは、一桁の点数から。
中1の冬に塾を訪れ、入塾面談のときから、保護者の方の必死な様子が伝わってきた。

中学1年生の「正負の数」でつまずいていたが、よく見てみると、その手前の分数の計算や四則演算から不安定だった。
まずは、地道に計算力をつけるところから始めた。

その子は、家でも勉強はしていた。
保護者からも、「勉強はしているんです。でも、なかなか身についていなくて……」という悩みを切実に聞いていた。

実際に教室での様子を見ていると、その理由は何となく見えてきた。

わからなくなると、すぐ答えを見る。
解き方を確認すると、それで安心してしまうのだ。

自分で考える前に答えを見てしまうから、「できたつもり」にはなる。でも、それは自分の力にはなっていない。

答えを見るから、宿題も期待できなかった。
案の定、宿題を確認すると全部丸。間違いもない。
そんなはずはないんだけど。

問い詰めることはしなかった。
勉強ができないことへの不安や焦り、もがき。注意したところで何か変わるなら、とっくに変わっている。

自分で気づくしかない。

それにしても、なぜそんなに「丸」にこだわるのか。
間違ってもいい。間違えるからこそ、そこから学べるのに。

取り組み姿勢は真面目だった。
ただ、私が目を離すと、すぐ答えを見る。
私の視線に気づくと、慌てて問題に戻る。

答えを見られないように遠ざけたり、プリント学習の際は答えをテキストの下に隠したり。
そんな不器用な攻防が、最初は何度もあった。

だから塾では、できるようになった問題を何度も反復した。
答えを見る前に、自分で考える時間を少しずつ増やしていった。
そうやって「自分で解く」という経験を、小さく積み重ねた。

形になるまで時間はかかった。
それでも反復練習を続けるうちに、少しずつ変化が見え始めた。

丸付けをして、自分で間違いを見つける。
なぜ間違えたのかを、自分で確認する。
そんな、当たり前のようでいて実は難しいことが、できるようになっていった。

自分で間違いを直せたときや気づいたとき。
「いいねぇ」「そんな感じ」
私はそんな、小さな声かけを意識していた。大袈裟に褒めるのではなく、その「気づき」が大切なことなんだと伝わってほしくて。

学年内容の総復習をしていた頃だったと思う。
それまでバラバラだった知識のピースが、急にピタッとはまった感覚があった。

「あ、分かった」と言わんばかりに、驚くほど計算が安定し始めたのだ。

問題を解いている途中を見ても、もう答えを見なくなっている。答えを見るよりも自分で解いた方が速いことを実感したんだと思う。
間違いの原因も、自分で探せるようになった。

そうして迎えた、定期テスト。
数学で、見事に50点を超えてきた。

保護者も喜んでくれた。
本人も、本当に嬉しそうだった。一桁のスタートを思えば、それは間違いなく、自分の力で高い壁を乗り越えた瞬間だった。

ただ、私が今でも鮮明に覚えているのは、50点という数字そのものではない。
そのテストを境に、その子の「勉強のしかた」が変わり、間違いを恐れなくなったことだ。

マーカーを使ったり、付箋を貼ったり。
ノートには、その子らしい色や工夫が増えていった。
間違った部分は、自分の気づきが、きれいな色でまとめてある。

今だって、その子の宿題を見る前は少し不安になる。
今日もまた、答えを写して「全部丸」にしてやしないか。塾以外での勉強は大丈夫なのか、と。

でも、開いたノートに「間違えたあとの気づき」が自分の言葉で書き残されているのを見たとき、私は、その子が自分の間違いに向き合っているんだと思える。

間違いを恐れなくていい。中身のない「丸」なんていらない。

50点は、決して世間的な高得点ではないけれど、何か一つでも「自分の頑張りで結果が変わった」という体験は、その後の行動をガラリと変えていく。

私にとっての、50点の価値。
それは点数そのものではなく、「バツ」を受け入れ、自分の力で歩き始めたことにあると思う。

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