教室の住人たち|織田信長
なんか、いつもぼーっとしている子だった。
塾には決まって、2〜3分遅れてやってくる。
「開始は何時からだ?」
「7時からです」
「今、何分や」
「7時5分です」
「いい加減にしろや(笑)」
「はい」
そんなやり取りを、何度も何度も繰り返していた。
友達からも「あいつが時間を守るわけないじゃん」と言われていたし、学校でもそういうキャラクターで有名だったらしい。
でも、私は心の中でこう思っていた。
「行きたくない場所に来るのって、ハードルが高いよな」と。
だからこそ、ここをなんとか「行きたい場所」にしたいな、と考えていた。
宿題をやってこない日もあった。
理由を聞くと、悪びれもせずこう言う。
「ゲームしてました」
「友達と遊んでました」
あまりに正直すぎて、笑ってしまうこともあった。
変な言い訳をされるくらいなら、正直に言ってもらった方が気持ちいい。
けれど、でも……「なんか違う、そうじゃないんだよな」という思いもあった。
それでも、その子は素直だった。
いつの間にか授業はちゃんと聞くようになっていたし、ノートも一生懸命に書いていた。
遅刻も少しずつ減っていった。
周りからも、
「え、あいつが?」
なんて言われていた。
ある日のこと、周りの友達から、
「自習室に来なよ」
「家だと絶対やらないでしょ」
と声をかけられていた。
その瞬間、彼の表情がすっと曇る。
(そりゃあ、行きたくないよな……)
と私が思っていた、その時だった。
別の子が、ぽつりとこう言った。
「私も、来てるよ」
「あ、そうなの。……んじゃ、行こう」
その一言が、彼の小さなハードルを飛び越えさせた。
それから本当に、彼は自習室へ来るようになったのだ。
少しずつ、少しずつ、学習量が増えていった。
「頑張れている自分」に自信がついたのだろうか。
あんなに拒絶していた自習室を、いつの間にか嫌がらなくなっていた。
それどころか、むしろ自分から進んで来るようにさえなっていた。
授業でも、少し難しい問題になるほど話をよく聞いていた。
「伝わった?」
と聞くと、
「わかりました」
と答える。
逆に、わからないときは、
「んー、いまいち」
とはっきり言う。
できるふりをしない。
わからないなりに、なんとか理解しようとしているのが伝わってきた。
◇
ある日のこと。
彼が入試の過去問(社会)を解いていた。
丸付けをしようと答案を受け取った私は、思わず目を疑った。
公民の問題の解答欄に、堂々と「織田信長」と書いてある。
「少しずつ変わってきた」と思っていた矢先のことだった。
(やっぱり、適当に書いちゃったのかな……)
と、少しがっかりした。
わからないなら、いっそ空欄にしてほしかった。
問題を確認すると、それは「ODA(政府開発援助)」に関する問題だった。
「なんでここに織田信長って書いたの?」
「わかんなくて、適当に書いた?」
すると、その子はまっすぐ私を見て言った。
「……ローマ字読みすると『おだ』なので」
あ。
頭を殴られたような感覚だった。
適当に書いたわけじゃなかった。
その子はわからないなりに、必死に頭をひねって、彼なりの答えを導き出そうとしていたのだ。
方向性は、だいぶ間違っていたけれど。
◇
卒業するとき、保護者の方に言われた。
「この子が最後まで頑張れるなんて、思っていなかったんです。途中で塾に行きたくないと言うかと思ってました。本当にありがとうございました」
思い返すと、なんとなく理由が分かる気がした。
その子は、ずっと正直だった。
宿題をやらなかったことも隠さない。
わからない問題も、わからないなりに泥臭く考える。
あのとき解答欄に書かれていた「織田信長」を思い出す。
方向性は間違っていたけれど、あれは適当に書いた答えじゃない。
わからないなりに考えた跡だった。
ぼーっとしているように見えても、その子なりに、ちゃんと考えていたのだと思う。
