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「教える」という言葉が、少し苦手だ。

ある日、保護者面談で、「生徒同士で教え合う機会があるといいですよね」という話になった。

学んだことを人に説明すると理解が深まる。私もその考えには納得していた。

場面を選べばできそうだなと思い、「機会があればやってみます」と答えた。

もちろん、教えられる側への配慮は必要なので、慎重に場面を作ってみた。

でも正直、少し気になっていたことがある。

私は「教える」という言葉があまり好きではない。

私は学生の頃、同年代の子に教えられるのが苦手だった。

別に相手が嫌だったわけではない。

でも、「分かっている側」と「分かっていない側」に分かれる感じが心地よくなかった。

相手の言葉の端々に、意図しない“上下関係”を感じてしまう。

だから私は、分からなくても、まずは一人で考えたかった。

自分の中で整理できる前に、横から説明が入ってくると、急に思考が止まる感じがあった。

いろいろ試した結果、どうにもならなくて、一人で行き詰ったとしても、友達に教えてもらうことをしなかった。


生徒同士で教え合う。

良いことだと言われるし、実際、うまくいっている場面もある。

だから、「教えられる側はどう感じるだろう」という不安があった。

何日か経って、友達同士の二人しかいない授業の日があり、その場を作ってみた。

一人は、予習でどんどん進んでいる子(教える側)。

もう一人は、学校の進みに並行して学習を進めていた子(教えられる側)。

実際にやってみると、教える側は、「分かってほしい」という気持ちが強くなっていた。

声がどんどん大きくなっていった。

一方で、教えられる側はどこかぎこちない。

相手を見ていない。

私の方を困った顔で見つめていた。

説明が入っていない感じが、すぐに伝わってきた。

(ああ、違う。)

そう思って、私は早めにその場面を終えた。


ただ、不思議なのは、別の生徒同士では、こういうやり取りが自然に成立している場面もあることだ。

友人同士で問題を見せ合って、

「そこ違うよ」

「ここはこうじゃない?」

と話しながら進んでいく。

お互いの理解を確認しながら進めていく。

先生に聞くより、ずっと自然に学び合えているように見える時もある。


だから、教え合いが良いとか悪いとか、単純な話ではないんだと思う。

関係性なのか。

教室の空気なのか。

それとも、「今は教わりたい」「今は一人で考えたい」というタイミングなのか。

そういうものが全部絡んでいる。

今回の試みで感じたのは、「教え合い」が良いか悪いかではなかった。

同じ言葉でも、受け止められるときと、受け止められないときがある。

学ぶということは、思っている以上に繊細な営みだと感じた。

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