幸せになりたいなら、漫才で笑わないようにしよう
幸せになりたいなら、漫才で笑わないようにしよう。
もちろん、本当に笑うなと言いたいわけではない。
ただ、少しだけ考えてみてほしい。
漫才を見る。
芸人が面白いことを言う。
こちらは笑う。
そこでは、笑いは「自分で作ったもの」ではない。
誰かが用意した刺激を受け取って、反応している。
これは別に悪いことではない。
映画も、音楽も、ゲームも、旅行も同じだ。
問題なのは、人生の楽しさのほとんどが、この形になってしまうことである。
誰かに笑わせてもらう。
誰かに楽しませてもらう。
誰かに認めてもらう。
誰かに愛してもらう。
そして、いつの間にか、
「世界が自分を楽しませてくれない」
と感じ始める。
退屈に弱くなるということ
現代には、退屈を消す道具がいくらでもある。
スマホを開けば動画が流れる。
SNSを見れば刺激がある。
音楽を流せば沈黙は消える。
数秒でも暇になると、人は何かを再生する。
そうして退屈を避け続けると、不思議なことが起こる。
退屈そのものに耐えられなくなる。
何も起きていない時間が、苦痛になる。
電車に乗っているだけでは足りない。
ご飯を食べているだけでは足りない。
散歩しているだけでは足りない。
何か面白いものが必要になる。
つまり、娯楽が増えた結果、娯楽がない時間の価値が下がってしまう。
幸福になるために刺激を増やしていたはずなのに、刺激がないと幸福でいられない人間になっていく。
少し奇妙ではないだろうか。
幸せは、感情の最大値ではない
幸福というと、多くの人は「楽しい状態」を想像する。
笑っている。
旅行している。
美味しいものを食べている。
友達と遊んでいる。
でも、人生の大部分はそんな時間ではない。
歯を磨く。
電車を待つ。
洗濯物を畳む。
スーパーまで歩く。
ぼんやり窓を見る。
人生の大半は、驚くほど地味だ。
だから幸福を「強い快楽」と定義すると、人生のほとんどが幸福ではなくなってしまう。
むしろ幸福にとって重要なのは、
何も起きていない時間を、どれくらい嫌わずにいられるか
なのかもしれない。
笑わない時間をつくる
だから、たまには漫才を見ても笑わなくていい。
面白くないふりをする必要はない。
ただ、刺激にすぐ反応せず、
「今、自分は笑わせてもらっているんだな」
と一度眺めてみる。
動画を閉じる。
イヤホンを外す。
そして少しだけ、何も起きない時間に戻る。
最初は退屈する。
でも、その退屈の向こう側に行くと、妙なことに気づく。
窓から入ってくる風は結構気持ちいい。
夜の道路は意外と綺麗だ。
コンビニまで歩くのも悪くない。
コーヒーの匂いは思ったより強い。
世界は、こちらを笑わせようとはしていない。
それでも、よく見るとそれなりに面白い。
「楽しませてもらう」から降りる
幸せになるために必要なのは、もっと面白いコンテンツではないのかもしれない。
もっと刺激的な旅行でもない。
もっと面白い友達でもない。
世界に、
「俺を楽しませろ」
と要求しなくても生きていけること。
それはかなり大きな自由だと思う。
漫才を見て笑うのはいい。
映画を見て泣くのもいい。
ゲームに夢中になるのもいい。
ただ、ときどきはそれらを止めてみる。
そして、
何も与えられていない自分が、それでも平気か
確かめてみる。
幸せになりたいなら、
たまには、漫才で笑わないようにしよう。

