幸平 連載時代小説 別編2 中華幻想1
中華幻想1 上海の吉行エイスケ
何故に、このような得体のしれぬ妖しげなところにおるのだろうか。夢かうつつか、どうにも定まらぬ思い。宴の席で口にしたものが悪かったのか。もしや一服盛られ、すでに黄泉の者と成り果てたとでも。
疑念を振り払うべく刮目して今一度、あたりを見回した。どこかの方丈の一室らしい。天窓から降り注ぐ光で、すでに陽も高いとみえる。ともかくはここから抜け出さぬことには、何も始まるまい。入口とおぼしき扉に手をかけ開けようとしたが、押せども引けどもびくともしない。
閉じ込められている。何者が。何故に。斯様な真似を。再度、室内を探るが、目ぼしいものは見当たらぬ。ただ、文机の上に巻物が置かれていた
開いてみれば、一文が記されていた。
「始」、「定」、「壌」。
そのまま読み下しても、意味をなさぬ。童の悪戯書きか、それとも何かの謎を秘めたものか。
彼は無言のまま文書を見つめていた。
「吉行さん、吉行さん。待ってくださいよ」
背後から声をかけられ、驚いて立ち止まる。こんなところで名を呼ばれようとは予想もしていなかったからだ。そして振り向けば、思わぬ顔をそこに見つけ、彼はまた驚いた。
タダイスト詩人にして新興芸術派の作家でもある吉行エイスケは、若年ながらも、溢れんばかりの才能を評価される期待の新星であった。
「こりゃぁ、誰かと思えば、磯川さん」
とんだ幡随院の役回りの主は、某在京新聞社の記者である磯川である。一年ほど前、仕事がらみで関係した人間から紹介されて以来の知己であった。何かにつけ同じ岡山出身という縁を持ち出してくるのが時に鬱陶しいが、ともあれそれなりの付き合いが続いていた。
「妙なところでお会いしますね」
磯川は訝しげな調子である。確かに、ここは奇妙な場所に違いないだろう。
島国日本と海を挟んだ、地平遥かな広大な国土。かつての大清帝国が革命で中華民国と名を変えたのは十数年以前のことだ。
だが、その内実といえば、皇帝という支配者は消えたものの、あちこちの軍閥の統領や国民党と共産党などが綱引きして何とかバランスを保っているような危うい状態の国家だった。その矛盾と混沌の象徴ともいえるのが、この上海という街であろう。
ここには外国人が支配する租界と中華の民たちが日々暮らす華界という全く違う種類の世界が存在する。繁栄と歓楽と富が横溢する近代的大都市の顔をした租界。旧態依然たる亜細亜そのものの華界。中でも旧清朝政府の役所があった県城を中心とした南市は、ゴミと汚泥と貧しさの中であがく虐げられし民たちが住む。
彼らは租界に憧れ、そして自国を食い物にするそこに住む連中に憎しみを抱いてもいる。だが、租界の人間たちにとっても、ここは生易しいところではない。成功と敗残は紙一重、一攫千金の夢破れ、無一文になるぐらいで済めばまだまし。中には、この世からおさらばしてしまったという輩もいる。
そんな得体のしれぬ坩堝のようなところが、吉行はなぜか気に入ってしまい、度々この街を訪れていた。
七年ほど前に、神戸から長崎経由で上海まで、長崎丸と上海丸という五千トン級の定期船が運航するようになり、渡航が格段と便利になったこともある。
長崎、上海間はわずか一日程度の旅ですむ。手紙も長崎県上海市で届くといった話があるぐらい、日本人にとって最も馴染み深い、身近な、異郷となっていた。
「小説の題材でもお探しですか」
吉行は、それには答えず、逆に問い返した。
「そちらこそ、いったいなんでまたここに」
聞けば、上海支局に異動になったという。
イギリスとフランスに先を越された日本とアメリカは、ついこの間の戦争の後から上海に金をつぎ込み始めた。さらに甘みを増したその汁を求めて世界中からさまざまな人間が押し寄せてくる。かくして亜細亜唯一の国際都市となった上海は、新聞社にとってもますます重要な報道の拠点になった。そこで自分に白羽の矢がたったと、臆面もなく言うのはご愛嬌だろうか。
「ところでご家族は」
吉行は苦笑いを浮かべた。妻のあぐりは、幼い息子の淳之介を抱えながら、アメリカ帰りの美容師である山野愛子のもとで修行をしている。ようやく独立を決意し、その準備で大わらわの状態だった。とても同行できるような状況ではない。それより何より妻を同道すれば、何につけても自由がきかない、といったところが本音でもあった。
先輩の詩人、金子光晴が妻の森三千代と、ここでしばらく暮らしていたというが、夫婦連れには、この街は刺激的過ぎようか。自分にはとても無理かなどと、吉行は思う。
「そんなことより、磯川君、今日は時間あるかな」
「え、赴任したばかりで特に仕事もないので暇だけはたっぷりとありまさぁ」
「そうか、そいつはいい。後でちょいと付き合わないかい」
「いいですが、どちらへ」
「これぞ上海、という場所さ」
所用を済ませてくるという吉行と一旦別れ、磯川は指示の通り、共同租界とフランス租界の境にある愛多亜路の辻で待っていた。目の前には四階建てほどのビルジングがどんと居座る。その中ほどに四層になった仏舎利塔まがいの望楼がある。お世辞にも美しいとはいえない、ごてごてとした猥雑な印象の建造物だ。そこに吉行が現れた。
「じゃ、行きましょうかね」
「行くって、どこに、です」
「そこ、大世界。こちらではダスカというがね」
目の前の建物を指差す。
「あそこは、この上海という街を具現したような場所だよ」
上海でも繁華な通りの交差点の角に建つ「大世界」。表の顔は上海人士の社交場であり、旅行者にとっては、観光名所でもある。飲食店やダンスホール、劇場に映画館、賭博場などの施設を擁する歓楽の拠点だ。だが、同時に、さまざまな国の女たちが春を鬻ぐ場や、アヘンの吸引所も抱えた悪所でもある。
吉行は、「とにかく、入りますか」
そういうと、スタスタと通りを渡り始める。磯川は慌てて後を追った。
