幸平 連載時代小説 別編2 中華幻想2


 

   中華幻想2  これぞ上海、うわさの大世界

 

 大世界を創ったのは、浙江出身の黄楚九という人物である。家業の眼科医を継ぎ、父が亡くなると母とともに上海に移り住んだ。そこで医業の傍ら市内の茶館や酒楼に開いた薬房が大当たりする。その利益を金融や不動産業で転がして、いつか黄は上海でも屈指の実業家にのし上がった。

その彼が資本を投じて創り上げたのが、この大世界と小世界、新世界、大千世界という名の娯楽施設であった。中でも大世界はその四つの世界の象徴的存在である。

 中は予想以上の賑わいだ。さまざまな店が軒を連ねている。飲食も娯楽も、ここで全てまかなえるという上海っ子の自慢もあながちではないようだ。通路の所々には、一見して商売が何かうかがえる毒々しい化粧をした女たちが立っている。まだ、暮れてもいない時刻でもあり、さすがに強引な客引きはしていないようだが、容赦のない秋波を客たちに送っていた。そんな中、あちこちに人だかりができている。

「あれは何です」

「ああ、詩の欠け字当てさね」

吉行が説明を続けた。

「最近流行している小博打でね。わずかな金でできるんで人気がある」

三流詩人の五言、あるいは七言の詩の一句の一文字を隠し、それを五文字の中から当てさせるという。賭け金は洋銀四角か煙草二箱。当たれば煙草三箱が返ってくるので、それを換金するという仕掛けだ。ケチな小博奕だが、一度に数人が賭けに加わるために、胴元は決して損をしないようにうまくできている。それだけに、大世界の中に四十ぐらいの賭場が立っているとか。

「磯川さんも一つどうだい」

吉行の勧めに、磯川は苦笑いを浮かべながら手を横にふった。たとえ相手が三流であろうと、詩心のまったく欠けた自分に、欠けた字が当てられるはずもない。

「どうだい。ここは東洋一の享楽百貨店。飲む、打つ、買うの三道楽煩悩、その全て以上を満たしてくれるここは、さながら極楽、いや地獄かな」

吉行は、年甲斐もなく悟りきったようなことをのたまった。

 

 女たちの間をちょろちょろする男たちの姿も見える。

 「あいつら、女衒には気をつけないと。やつらの言う名実が違うのは当然だけどさ」

 まだ学生なんですよ、処女も同然の可愛い娘でしてね、フランス・タウンのアルベーローあたりに住んでいるんですよ、損はさせません、とかなんとか言いながら近寄ってくる。それを何とかかわしても、今度は手強い実働部隊がお出ましになる。

 ぐいとばかりに女にいきなり手を掴まれ外に引きずり出される。ずらりと居並ぶワンパオツ。人力車の幌が黄色なので「黄包車」というが、その車夫連中も女たちの幼馴染のようなもの。あれよあれよという間に乗せられて、女の巣窟に運ばれるという寸法。

 「まず、そのあたりの路地か民国街の胡堂なんだが、時には華界の、夢花楼街の方あたりに走っていくこともある。気の小さい日本人なんかは、肝をつぶしかねないだろうな」

 吉行は、いったいそんな知識をどこで得たのだろうか。

 「さては実際の体験なのかもしれぬ」などと思いながらも、磯川は、この場所に充満する脂粉と人いきれ、加えて欲望という名の熱気に当てられたためだろうか。

少し気分が悪くなり、吉行に断って洗面所へと向かった。戻ってくると、彼が一人の女と話し込んでいた。彫刻のように均整のとれた身体をくっきりと際立たせるチャイナドレス姿。腰の脇の深いスリットから抜けるように白い蠱惑的な太腿が時にのぞく。この服は、もとは旧大清帝国の支配層であった満州族系の服だった旗袍という衣装から生まれたものだ。それが上海では、さらに進化した形となって女たちの間で流行った。「摩登」、つまり「モダン」いわれ、特に、夜の女たちにとっては、男たちを引き付ける絶好の道具ともなっていた。

 というわけで磯川も最初はその種の女ではないかと怪しんだ。だが、どうも違うようでもある。しかし、それでも間に割り込むのは憚られるような気がして、しばらく様子をうかがっていた。

 やがて、女は吉行の耳元で何かを囁いた後、すっとばかりに離れて行った。

 吉行は、考え込んだような表情のままである。戻ってきた磯川のことも一瞬気づかぬ風だ。

 「何かありましたか」

 「いや、」

 言いかけて、後を濁す吉行。そして、慌てて付け加えた。

 「申し訳ない。今日はこれで失礼させてほしい。この埋め合わせは必ずするから」

 尋ねようとする磯川の機先を制するかのように、そう言い残すと、吉行は、そそくそと立ち去っていった。

 吉行は、岡山では人に知られた建築請負「吉行組」の跡継ぎとして生まれた。幼時から聡明で、周囲の期待も大きかったが、岡山県立第一中学校に入学後に、当時最新の芸術様式であったダダイスムに傾倒するとともに、その背景思想であるアナキズムにも深く心をひかれた。そして、当時の頭のいい早熟な少年ならば当然といってもいいだろうが、「アカ」に少なからずかぶれもする。とともに長身で顔立ちもよい。そこで、若い娘の噂に上るというわけで、軟派の不良学生として名を馳せてもいた。

 だが、彼が四年で退学したのは、何よりも、教師との間のごたごたが理由である。知識も才能も半端な輩が、ただ教職にあるというだけで、全ての生殺与奪の力をもっているが如くふるまう。その愚劣さに我慢ならず、ささいなことから口論となり、そのあげくに三下り半を投げつけたというわけだ。その後は東京の目白中学に身を寄せた。ここは、上海の東亜同文書院大学と関わりの深い学校であった。その後のことを思えば、何かの縁が繋がっていたのかもしれない。

 

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