幸平 連載時代小説 別編2 中華幻想4
真備と吉行 結ぶ女
朱雀門から南の明徳門まで真直ぐに貫く大路。これを朱雀大街という。その西側を西市、東側を東市といい、それぞれ街の区画である坊に分けられていた。その東市にある平康坊の一角こそは、都の多くの男たちにとっての憧れの場であった。なぜなら、そこは、美しい妓女たちが、この世の歓楽を惜しげもなく与えてくれるところだったからである。
長安の北にあることで北里ともいう遊興の地。数多くの妓楼が並び、そこには唐の女だけでなく、紅毛碧眼の胡女に褐色の肌をした大食国の女など遠く西域の女たちもいた。
だが、真備がこの柳暗花明の地に足を運んだのは、偶然のことである。
六道の研鑽と同時に、衆芸といわれるさまざまな学術を知ることにも真備は手を広げていた。それは歴法、兵法、秘術、雑占など多岐にわたる知識である。特に兵法については、孫子の書から多くのものを得た。また、易占とは別の占術についても、これはと思う人物がいれば、礼を尽くしてその技を尋ねた。
ある時、平康坊に道術をよくする人物がいると聞き、訪ねたのだが、その道士はすでに何処かへ立ち退いた後ということだった。
やや気落ちしつつ、そぞろに歩いていて、思わずたどり着いたのが、嫦娥楼という名の妓楼であった。
「旦那、どうです。登楼なされませんか」
客引きが声をかけてくる。断ろうとしたが、ふと気が変わった。男の案内のまま、楼に入る。客間に入ると、香しい匂いが立ち込めている。どこからか琴の音が響いてきた。しばし陶然となり、聞き惚れる。
「旦那さま、こちらでお待ちください。すぐに姑娘が参ります」
やがて琴の音がひときわ心を騒がすように鳴り響くと止んだ。しばらくすると妓女が現れた。ゆったりとした薄絹の衣装をまとい、舞うような挙措である。
「お待ちしておりました」
歌うように告げる。不思議に思い問いかけた。
「以前、どこかで会ったかな」
女は嫣然と微笑む。
「会うのは初めて。でも、あなたのことは、ずっと以前から存じております」
その返事に苦笑する。こういうところの女が使う手管であろうか。だが、それはそれで面白いとも思うのだった。
そして、それが、この芳芸という名を持つ女と真備との出会いだった。
いったい彼女は何者なのか。吉行は逢瀬を重ねる度に驚かされてばかりだった。
その実は、旧清朝の皇帝一族の流れを汲む姫であるともいいながら、時に男装の麗人よろしく国民党軍の将校姿で現れてもみせる。またある時は、中国共産党の創立メンバーでもある陳独秀との関係を匂わせる。相反する連中を思うままに操っているかと思えば、日本や外国の金持ちたちをエロティックな魅力で手玉にとってもみせる。一夜の夢の時。気を失った後にハイ・アライ競馬場の青草の上で朝の太陽を眺めさせられもした。
それは、この国の女特有の「秘密好きな冷理な性質が秘密結社と革命の企業を愛し、東洋女らしい敬虔さがボルシェヴィキの堅固な道徳に陶酔した」結果であろうか。そんな文章が吉行の頭の中に浮かんでもきた。
複雑極まりない女だ。名前とて、彼女が告げた「石芳芸、シー・フアン・ユウ」というそれが、果たして真実の名かどうかはわからない。
自分との連絡のためにと、彼女から紹介された蔡に、尋ねたことがある。
「彼女の正体をご存じなんでしょう」
すると、彼は奇妙な微笑みとともに首を横に振った。
「でも」
「吉行さん。よろしいでしょう。あのお方はあのお方ですよ。どのような姿であれ」
それからの真備は、気が向けば、妓楼を訪れるようになった。逢瀬の度に、新たな思いを抱くことになる。それは、激しく求めるような情とは異なる、どこか懐かしいような想いである。確かに、この女人のことを前から知っていたのかもしれない。いつしか、そう考えるようにもなった。
「以前といっておったが、それは何時のことだ」
「今生ではございませぬ。はるか昔、ずっと昔のことでございますよ」
「そなたは覚えているのか」
「はい、あなたさまをいつも夢に見ておりましたので」
何の衒いもない、当然のような口調であった。
そして、また時が流れた。真備の唐での暮らしは十七年にも及んだが、天平六年秋、ようやく日本へ戻ることになる。その船の中で彼は別れの日のことを思い出していた。
「もう会えぬであろうが、嘆くでないぞ」
自らも心を残しつつも、そう告げる。だが、女は不思議な微笑みを浮かべた。
「はい、今生でお会いできねば、先の世で必ずまたお目にかかれます」
「そうか。またの世でな。ならば待っておるぞ」
「いえ、その時は、こちらがお探ししますので、ご安心ください」
