「プレシオジテ」の世界
フランス語に「Préciosité(プレシオジテ)」という言葉がある。かってのフランスのサロンにおける、洗練された言動の風潮のことである。
広義には色々とネガティヴなイメージも付き纏うが、僕としては狭義に、文学的イメージとして「気取り」といった意味に解している。
学生時代、第二外国語がフランス語だったので、つい覚えたらしいが、経緯不明のまま、この言葉を「プレシォジる」と日本語風に活用して顰蹙を買っていたことがあった。
まあ、半可通の軽薄なのだから、顰蹙を買うのも尤もではあるが……なぜか今に至るまで、この「プレシォジる」なる流通しそうにもない言葉が、個人的な語彙として定着しているのだ。
もしかしたら、これまでの記事でも無意識に使っていたかも知れない。
確かに、「プレシォジって書く」……つまり「ちょっと気取って書く」というのが、僕が文章を綴る上での鉄則と言うか、流儀らしい。
「気取り」という態度は、日本語としてもあまり評価はされ難いが、……もちっと砕けて言えば、「少しばかりカッコウを付けて」といった構えかも知れない。
僕は昔から、なりふり構わず、汗まみれに、歯を食いしばって的な、体育会系の根性論は好まない。
肉体にしても精神にしても、使い過ぎれば故障するに決っているのだから、汗まみれになる前に休むことも当然だし、歯医者のお世話になるまで食いしばる必要もないと考えるのだ。
もとより、ギリギリまで振り絞って……その結果云々なる、アニメ的テツガクも見ている分には喝采もするが、実際に壊れてからでは身も蓋もないだろう。
当然、火事場から逃げ出すような場合には気取ってなどいられるはずもないが、かかる状況は一生のうちそう何度もお目にはかかれないはずだ。
もしあるとすれば、「戦場」くらいかも知れない。戦は全ての「気取り」を拒絶する。
映画「西部戦線異状なし」のラストで、蝶に手を伸ばした兵士が射殺されるシーンはそれを物語っているのかも知れない。
個人的な意見ではあるが、「プレシォジる」事を一蹴するような風潮は間違っていると思うし、各人それぞれがそれぞれの「気取り」を持ち続けることこそ、人間が生きるに於て相応しい心構えのような気がするのだ。
「気取り」のない所には、音楽も文学も……たぶん政治も経済も……すへて砂上の楼閣と終わるように思えてしまう。
戦のような、「気取り」を「悪」とみなす世界だけは絶対に避けるべきなのだ。
それでも僕は信じたい。
戦場にあっても、美しい蝶に手を伸ばせるような……そんな「プレシォジった」った兵士こそ、生きるに値する本当の人間であると……
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