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幽世畸人伝ー伴久筆記ー 其之八【盂蘭盆会】

序.

子は子、親はやはり親なりて、年に一度は会いたくなるもの。
羨ましいか、そう問われたとて所詮筆の身。

彼岸と此岸、うぬぼれ筆はただ彷徨うばかり。

一.

いやはや、暑い。
昨今の夏ときたら、「盛夏の候」などと風雅な響きが
咽び泣こうというもの。

真名の陽がじりじりと地を焦がせば、
幽世に漂う白靄も相まって、まさに蒸篭。

我が筆庵も例に漏れず、昨夜の飯はいまだ湯気立ち、
ただでさえ生ぬるい幽世の風は蒸し蒸しと。

夜は暑さに舌を打ち、朝は寝汗に溺れ、
井戸の水すら生ぬるく、口が曲がる。

まことあっぱれ、幽世気候。

とはいえ、このままでは文人の蒸し饅頭。
拙はのそりと身体を起こす。

「……おらんな。」

普段であれば朝餉はまだかと腹を踏みつけていくものだが、
今朝に限っては文太郎が姿を見せぬ。

まぁ心当たりはある。
——盆である。

年に一度、彼岸と此岸のつながる盆の内。
豆に群がる鳩の如く、律儀に誰しも待ち侘びおる。

この幾日ばかりかは、この幽世の成れ果てどももお祭り騒ぎ。
誰が呼んだか呼ばれぬか、刻限たがわず彼岸と此岸のあわいを渡る。

「帰る場所、か……。」

ふと口に出しては、鼻白む。

毎年のことながら盆の内の幽世ときたら
戸をやにわに叩くものもおらぬし、烏も鳴かぬ。

町に出でれば物売りの声もなく、川のせせらぎの音が心地よい。
まこと寒山、寂びの心地。

――いざ、静謐なる幽世よ。
そうして破れ障子に手をかければ、軒先にはぶらりぶらりと縄の音。

めでたくも、こやつも独りもの。
静謐なるこの時をせしめようという肚は、このぶらり男とて同じ。

なれば盆の内こそ、互いに関わらぬ方がよい。
そうして町へと繰り出しては通りを歩く。

薄ぼんやりと白靄は立ち、
地を這う湿りは、ゆらり昇りて陽炎となす。

川のせせらぎは、どこかうら寂しく、
此岸に行き場のない者どもの口数は少ない。

ところが、かえって騒がしい声が消えた分、
業の深い者達の呻き声ばかりが良く響く。

奇声に嬌声。
ざりざりと地を這う音、ばりばりと何かを食む音。
ただ立ちつくし、恨めしくも空を拝む者。

風は湿り気を帯び、陽は暑く、
たらりと顔をなぜる雫はひどく生ぬるい。

これもまた、幽世の風物詩である。

――とはいえ、賑わいよりは幾分か良い。

ここぞとばかりに帳面片手に町を巡れど、
どうにも筆は走らなんだ。

曰く、名状しがたきもの、形の定まらぬ成れ果て。
幽世にごくありふれた、情念の残渣。

それらがこの日ばかりはひどく生ぬるく、そして耳にこびりついた。

妙なものである。
騒がしいものほど、残らぬのだから。


二.

盆も過ぎれば秋の風、と誰かが言った。

暑さの角は丸くなり、蝉のしぐれは途絶え、
次第に町には、あの騒がしさが戻る。

湯屋の煙出しに煙女の影が揺れるのを見て、
——ああ、幽世はようやく普段通りである。

久方ぶりの湯に、身体は火照る。
夕暮の風は次第に涼しく、拙が橋の上で身体を冷やしておると

ひょっこりと現れたのは、はす向かいの長屋のご隠居であった。

「あれまぁ、伴久先生ではありませぬか。」

顔なじみではないが、道端で挨拶を交わす程度の間柄。
しかし今日はなんとも上機嫌で、風呂敷なんぞ携えておる。

「いやぁ、この度は帰省しておりましてな。」

そういってぺこりと下げたその顔は、なにやら悪戯めいておった。

「孫がおりましてな。はや齢九十。
 わたくしが逝ったころ頃はまだ這い這いで。
 いや、歳月のなんとも早いこと……。」

「まったくにございます。
 拙も歳などとうに忘れてしまいましたわ。
 無為に過ぐる時とは、詮無きものですな。」

「ほっほ、然り然り。
 実はですな、その孫の寝顔を久方ぶりに覗き込んでおったのです。
 皴の深さは……もうわたくしの完敗ですな。
 なれど孫はやはり孫。
 昔を思い出しては目なんぞを細めておりましたらな、
 孫がぱちりと目を開けまして、ぎゃっ、と一言。」

「まったく驚いたのはこちら。
 孫も孫で、あまりの驚きに息をつめて転げ落ち……。
 危うく爺と孫、幽世への道行となるところでしたわい。
 帰省のつもりが連れ帰りでは、曾孫にまで祟られますからな。
 はっはっは。」

祖父と孫、その実どちらも爺であろうに。
されどもこのご老人、笑う顔はまるで悪戯小僧そのものである。

「で、これ。多大なる供物にございます。」

そう言って広げた風呂敷には、乾麺乾物青果に油。
どれも日持ちしそうで、ご先祖への心配りが行き届いておる。

「わたしのような痩せた爺にはもはや食いきれませぬ。
 ぜひとも伴久先生、頂いてはくださらぬか。」

——なるほど、お供え物のお下がりというやつである。
実家が太い、とはまこと羨ましい。

文人たるもの、矜持と腹の鳴り物で葛藤するのは習わしではあるが、
なにせ盆のおすそ分けである。今日は筆の負けで良い。

「喜んでご相伴にあずかることといたしましょう。」

拙は懇ろに頭を下げては帳面にさらり。

  【供福翁(くふくのおきな)】
    供物のおすそ分けを餌に実家の太さを惜しげもなく披露する魂胆。
    その笑顔、ひと夏限りの悪童面。

    茶目っ気も福も、惜し気なく顔に乗せて帰ってきた。
    これぞ幽世の楽隠居なり。


三.

筆庵に戻れば案の定。
囲炉裏の傍で尾をぱたりぱたりと揺らす文太郎。

下僕よ、主を待たせてなんとする。
などと、物は言わぬがその尾が雄弁に語っておる。

その主さまが風呂敷を見るや
なんぞ食いもんかと鼻先をひっつけては尾が伸びる。

「……お主、帰省ついでにたらふく食ったのではあるまいか?」
と拙が問えば、知らぬ存ぜぬとぱたぱた尻尾が畳を叩く。

その表情のなんともふてぶてしい事、致し方ない主様よの。

その夜は供物のおすそ分けを肴に、茶を一杯。

障子の破れ目より吹き込む風はすっかりと冷たく、
布団の上には文太郎。

こうなれば盆も終わりである。

「……これではすっかり元通りではないか。」

そう独り言ちては、鼻が白む。

こやつにも拙にも帰る場所がある。
ただ、それでよい。

明滅する灯が、ゆらりと揺れた。

——了


次回 其之九

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