『初夏の泡は星座へ昇る』 #せりふ三題噺
同僚が、口から泡をブクブクと吐きながら出社してきた。カニの呪いらしい。
昨日の仕事終わり、カニの食べ放題に行って、ずいぶん食べたという。その夜、夢枕にカニが現れて「呪ってやる」と言ったそうだ。今も口の端から絶え間なく泡があふれている。きっと本当だ。
同僚は、白いレース生地の大きな襟のついたシャツを着ている。やけにヒラヒラしているのは、口周りの泡を目立たなくするためらしい。同棲中の彼女が用意してくれたのだという。「すきま風かな?」そんなふうに言っていた倦怠期も、カニの泡が、ふたりの間を少しだけやわらかくしたようだ。素敵な呪いだ。
「胃カメラとか、検査してもらったら」そう言ってみたが、同僚は「大丈夫、大丈夫、ただの呪いだから」と軽く笑い、普段どおり電話を取り、会議に出て、プレゼンまでこなす。口元から泡をこぼしながら、いつもと同じ調子で話している。
どんな状況でも普段通りに振る舞う同僚に少し感動した。
仕事終わり、同僚を飲みに誘った。泡が目立たない場所がいいと思い、屋上のビアガーデンにした。デパートの屋上は、初夏の風で提灯の灯りが揺れ、ビールの匂いもゆるく流れていく。
「お疲れさまでした」
ジョッキを合わせる。同僚の上唇にはうっすらと泡が乗り、口の端からは相変わらずブクブクと小さな泡があふれている。そのまわりで、レースの襟がゆらゆら揺れる。
しばらくして、同僚が頼んだカニの甲羅焼きが運ばれてきた。戸惑う僕を尻目に同僚は何のためらいもなく箸を伸ばす。
すると同僚の口から、更に大量の泡があふれ出した。泡は次第に大きくなり、ひとつひとつがシャボン玉のようにふくらんで、ふわりと浮かび上がる。夜の風に乗って、それらはゆっくりと空へ流れていった。
西の空には、星がいくつか瞬きはじめている。
シャボン玉は、そのあいだをすり抜けるようにして、カニ座のほうへ、静かに舞い上がっていった。
(了)
※下記、はらとけい様の企画に参加させて頂きました。
■セリフ
「すきま風かな?」
■三題
・胃カメラ・かに・レース
