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子どもへの願いが、呪いになってしまうとき

この記事は、Gaudiy Advent Calendar 2025 24日目の記事です

しつけと呪い

「机にひじって何でついちゃいけないの?」って、ある時に子供に聞かれました。「そういうもんなの」って答えちゃいましたが、後からふと「これって納得感ないよな」と思って調べてみました。

ひじを突いてはいけない理由は大きく3つあって、見た目がだらしなく見えるから、相手への敬意が足りないと受け取られるから、日本の礼儀作法では正座が使われて姿勢の良さが重視されてきた歴史があるから、とのことでした。

肘をついてはいけないといいつつ、その理由まではちゃんと知らなかったです。これはまるで、指示だけだして背景を説明しないちょっとイケてない上司のようです。でも、しつけの背景って自分もちゃんと親に教わったかなあ、教わったとしても真面目に聞いてなかったんだなって思いました。

なんとなく、自分が一般常識のコピペみたいな形でしつけをしてることに気付きました。いや別にいいんだけど、これって子供じゃなくて周りを見てるなって思いまして。

そういえばこの前に同僚と、親からのしつけと呪いって混ざってるなって話をしたんですよ。親も当然完璧じゃなくて、ソシャゲのガチャで天井掴んだとか、仮想通貨が金と連動せずに暴落したりとか、そういう時に子供に機嫌悪く当たることってあると思います。そういう時にしつけという理由を使って、過剰な正当化で子供を怒ったりすることもあって。

子供って最初は純粋な存在じゃないですか。もちろん子供によって生まれながらに性格とかは違うけど、最初は純粋な混じりっけなしの子供100%な状態なわけで。

そこに親が、しつけという名の一般常識をインストールするわけですよ。それは社会になじむために必要なんだけど、子供の中に親の考えをインストールするわけで、親の考えが全部正しいことはないわけで。

ここで変な情報をインストールすると、下手したら呪いになるなって思ったんです。これを続けると、周りの期待に応えることが目的になって、どこからが自分かわからなくなったりしそうだなって。

人って生活する中で、基本的に他人が期待していることをやってると思うんです。親のしつけだってそうだし、学校の勉強だってそうだし、会社の仕事だってそうです。みんなその人のためにって思ってやるんですが、その中にどうしても私欲やノイズも混じっちゃうわけで。

めっちゃ話が変わるんですけど、少し前に子供に中学受験をしてもらおうと思って、塾に通い出したんです。これがまためちゃくちゃ大変で。小学校5年生の内に6年生の勉強を全部終わらせるんですよ。すると放課後も遊ぶ時間はないし、土日もほとんど潰れちゃう。

子供も親もこれ無理だなってなっちゃって。子供なんか「人生がちょっと嫌になった」とか言うわけで。これは健康的ではないなと。

でも塾を辞めるのも勇気がいるわけです。中学受験っていう一般的には勝ち組になるためのステップみたいなのを自分から外れるわけだから、本当にやめていいのか?一種のドロップアウトじゃないのかって思っちゃう。

でも多分、やめて良かったんだと思います。小学校の頃は友達と遊ぶ方がいいし、AIが出てきて受験や学力の意味も自分の中で揺らいできて。そもそも勝ち組になるとか、一般的に良いと思われることに頼るのが楽だっただけで、これも自分が無い判断だなって思いました。そもそもこれって親側の期待で、子供の中に「自分」があった選択じゃなかったなって思います。

こういう周りが望むことをやってくと、「自分」がどんどん薄まって、それをすべて取り除いたときに「自分」がちゃんと残るのか?タケノコのように他人の期待をむいていったら、どこからが自分かわからなくなっちゃわないか。

学力も、出世も、お金も、自分がやりたい事だったらいいけど、自分って何だろう、どこからが自分なんだろうって思うわけです。特に、学校も社会もSNSも、世の中が他人と比較して上を目指すように設計されてるから、ほっとくと他と比較してしまう。比較するって周りが主な選択だと思うので、「自分」が薄まっていくのかなと。

みんな人と比べるなっていうけど、世の中のシステム的にほっとくと自動的に比較されちゃうんです。しかも子供の時に比較されるのがイヤだった自分が、自分の子供を他人と比較しちゃうという。

回りに流された比較は自分が薄まっていくような気がするし、世の中からの強迫観念をもとに選択すると、これも一種の呪いになっちゃうわけで。マジでムズい。

じゃあどこからが自分なのか、呪いをかけないように子供とどう接していくのがいいのか。

人がいう事は知識、それを基にやった経験が自分になっていく

言葉にしちゃうとめちゃめちゃシンプルなんですけど、親も学校も会社も本も、周りが言う事は知識で他人の物であり、それを自分が経験すると自分の物になるなって思いました。教える側は自分のやりたい事と、子供のやりたい事を区別するのが大事で、そこを混ぜすぎると呪いになるかもなって。

「親や先生のいう事を聞くことがいい子」という定義にしちゃうと、それは子供の中の自分を薄める要素になるかもしれない。

子供も最初は「自分というものが何か」は分からないかもしれなくて。子供が親を頼りたいのは当然だし、そこは子供の中の自分を守りながら。親が自分のエゴを入れないのは難しいけど、「これはちょっと良くないかもな」って言うのは親の中の良心でなんとなくわかるから、それを大事にしながらきづけるようにする。

特に自分の機嫌が悪い時は、しつけを理由に感情をぶつけちゃったりするので、それをやったらちゃんと子供に謝ることとか。

自分が親にされてよかった思い出は当然あるけど、なんでかイヤだったことばっかり記憶に残ってたりするわけですが、じゃあそれを自分がやらないようにしたいなと。呪いをかけないだけだとマイナスに偏り過ぎですが、自分が子供のころに受けたポジティブなことも当然あったと思うんです。

夏の思い出

自分が親になって思う事。Google Photoが提案する5年前の子供を見たり、仕事が忙しい中でも子供を寝かしつけたり、冬に入る季節で子供に挟まれながら寝たり、これを死ぬときに多分思い出すんだろうなあって思ったり。

これって別に、相手が子供に限ったことじゃないんだと思います。友達でも、彼氏彼女でも、相手が大事だからこそアドバイスと呪いがちょっと混ざったりするかもしれないので、自分を振り返って悪かったことは悪かったという。

その中で、手を繋いだり、久しぶりに地元に帰って友人と飲んだり、ふとその帰り道に、これを死ぬ前に思い出すのかもなあって思うような瞬間はあるわけで。

年の瀬にそんなことを想いました。

魚が好きな子どもが作ったみかんの粒アート

何の話だっけこれ

これ会社のアドベントカレンダーなんですけど、好き勝手に書いてたらマジで会社の事関係なくなっちゃった…。こういう話を同僚としたりする会社です。いや、こんな話してるのごく一部かもしれない。

でもこういう話をしたりしなかったりながら、話してて面白い人がGaudiy Advent Calendar 2025、明日の担当のBiz(営業)深見さんです。アドベントカレンダーのトリです。多分おもしろいと思うんでぜひ読んでください。


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