見出し画像

水溜りとボート

 実家の周りを散歩したら、昔世話になった文具店が廃業していたので、どうもやり切れないような心持ちで引き返した。
 帰りは別の道を選んだ。今は文具店の裏に幹線道路が作られて、元々裏だったのが表になっている。あんまり自然な道だから、気を抜くと最初からあった道のように思われるけれど、最後に文具店へ行った時に店主が「どっちが表かわからんようになったわ」と笑っていたから、やっぱり後から作られたので間違いない。
 以前は文具店の傍から道に沿って藪になっていたのが、この幹線道路のために伐採されて半分ぐらいに減った。何だか趣のないことをするものだと憤慨したが、便利な道路を通すのに、住民でもない者が文句を云ったってしようがない。

 昔は藪の端が空地に繋がっていたから、よく吉田と一緒にそこから藪の中へ入って遊んだ。
 今はその空地だった所へ誰かの家が建っている。残った藪の中を久し振りに覗いて見たかったが、そんなことをして不審者と思われてはつまらない。丹田に力を入れて、気持を抑えた。
 当時、藪の向こうには大きな水溜りがあった。面積は大きくても深さは足首ぐらいなので、池や沼と云うほどではない。ただの水溜りである。
 ある時吉田と水溜りの傍で仮面ライダーごっこをしていたら、向こうから若い男女の二人連れが手漕ぎのボートでやって来た。
 女は白いワンピース姿で、白いハットを被っていた。男がどんなだったかはもう忘れた。
 男が自分らの前にボートを停めて先に降り、「はい」と女へ手を差し出した。女は「ありがとう」と言ってその手を取った。女のありがとうが、「が」にアクセントを置いた広島弁だったのを覚えている。
 男女は手を繋いだまま、藪に入って行った。
 自分は、あの人達は文具店へ行くのだろうと思った。
 今考えるとあんな水溜りでボートに乗れるはずがないので、きっと何か思い違いをしているのだろうけれど、随分リアルな記憶で、思い出すと何だか気持ちが悪い。

いいなと思ったら応援しよう!

百裕(ひゃく・ひろし) よかったらコーヒーを奢ってください。ブレンドでいいです。

この記事が参加している募集