40代最後に買った、ひとりで住むために選んだ家。
何かを決めるとき、私はいつも唐突だ。
「喉が渇いたから水を飲もう」と、ふと思うときのような。身体の中から自然に湧き出た小さな欲求を、ただ淡々と満たすような、そんな静かな勢いで、人生の大きな舵を切ってしまうところがある。
分譲マンションを買ったときも、そうだった。
三年前の年末。四十代最後の年を過ごしていた頃、私はある日突然思った。そろそろ、「終の住処」を手に入れてもいいのではないか、と。
別に、何か特別な出来事があったわけではないし、賃貸住宅に不満があったわけでもない。ただ、いつものように仕事をして、ご飯を作って、洗濯をして、眠る。
そんな生活を繰り返しているうちに、ある日ぽつんと、その考えが頭に浮かんだ。
人生も後半戦にさしかかった。休日の予定を決めるのも、風邪をひいた日の食事も、もうずいぶん長く自分ひとりでやってきた。
この先も、その暮らしが続いていくのだろうと思った。おそらく劇的な変化はもうないし、誰かと生活を共にする可能性は、限りなくゼロに近い。
もちろん、未来のことなんて本当は分からない。けれど、自分の性格を考えると、その可能性に期待しながら生きるより、ひとりで生きていく前提で暮らしを整えておいたほうが、気持ちはずっと楽だった。
だったら、どこかの誰かから借りた場所ではなく、自分の居場所を持ちたい。年を重ねても、安心して、機嫌よく暮らせる場所を。
ちょうどその頃、マンション価格が上がり続けているというニュースを目にしていた。買うなら今が最後のチャンスかもしれない。そう思ったら買うことばかりが頭をよぎるようになった。
思い返してみれば、昔からそうだった。引っ越しも転職も、何かを始めるときはいつも、じわじわ悩むというより、「あ、今だ」と突然スイッチが入る。
その瞬間が来るまでは動かないのに、一滴一滴とコップの中に溜まった水が、表面張力で耐えきれなくなった瞬間、一気に溢れ出るように、一度決めたらもう戻らない。
今回もそうだった。
「老後のために家を買おう」
そう思った翌日には、もう住宅サイトを開いていた。間取り図を眺め、地図を拡大し、ブックマークの数はあっという間に増えていった。
■ 「行きたい場所」より「行かなくてはならない場所」
家探しを始めて、まず考えたのは立地だった。
おしゃれなカフェが近いとか、人気のパン屋があるとか、そういう「行きたい場所」への距離は、思っていたほど重要ではなかった。
今でも、便利で楽しい街への憧れはある。流行りの店が徒歩圏内にあって、休日にはふらりと雑貨屋をのぞき、夜遅くまで営業している本屋にも立ち寄れる。そんな暮らしも、きっと楽しいだろうと思う。
でも今回は、そこを基準にはしていなかった。
それよりも大切にしたのは、「行かなくてはならない場所」への近さだった。これから先の人生で、足繁く通うことになる場所。それはきっと、区役所であり、病院だ。
マイナンバーの更新や年金の手続きなど、暮らしていると区役所へ行かなければならない用事は意外とある。
そのたびに思うのは、「もう少し近ければ」ということだった。役所は平日の昼間しか開いていないことが多い。仕事へ行く時間を遅らせて区役所へ行くのは、仕事の都合をつけなくてはいけなくて、思っている以上に手間がかかる。
「家を出る前に少し寄るだけで済む距離だったら」と考えたことは、一度や二度ではない。
年を重ねれば、保険や介護、さまざまな行政手続きなど、「生きていくため」に役所へ足を運ぶ機会は、きっともっと増えていくのだろう。
人生とは、案外そういう細々とした手続きの積み重ねで出来ている。だったら、散歩のついでに立ち寄れるくらいの距離に区役所があれば、なんだか守られているような気がして安心だ。
病院も同じだ。今は「健康だけが取り柄です」なんて顔をしていても、機械と同じで、人間も長く使えばどこかしらにガタが来る。
体力が落ちると「少し遠い」が急に大きな負担になる。体調が悪いときに、重い体を引きずってタクシーを呼ぶ気力が、果たして自分にあるだろうか。ふらりと歩いて診察券を出せる距離に先生がいてくれるほうが、ずっと心強い。
「行きたい場所」なら、どんなに遠くても気合で行くだろう。でも年をとれば、気力も体力も、なだらかに下り坂になる。生活というのは、小さな億劫さとの付き合いだ。「行かなければならない場所」へのハードルは、低ければ低いほどいい。
■ 寝る場所や寛ぐ場所はそれほど広くなくていい
部屋の広さについても、かなり考えた。
当時住んでいたのは、一DKの賃貸だった。
寝室はそれなりに広く、八畳以上あった。でも振り返ってみると、眠るとき以外その部屋をほとんど使っていなかった。
一日の大半を過ごしていたのは、六畳ほどのダイニングキッチンだった。小さなカフェテーブルを置き、そこでご飯を食べ、本を読み、ネットをして、お酒を飲んでいた。
結局、人間ひとりが落ち着ける場所なんて、それほど広くなくてもいいのかもしれない。

手前のテーブルでいつも過ごしていて、
奥にあるソファはほぼ荷物置き場になってた。
「起きて半畳、寝て一畳」この諺の意味を、身をもって知った。昔の人は、うまいことを言ったものだと思う。
もちろん、広い部屋には憧れる。窓が大きくて、開放感のあるリビング。雑誌に出てくるような余白のある暮らし。そういうものを素敵だと思う気持ちは、今でもある。
でも実際の私は、そんな広い空間を持て余してしまう気がした。
掃除をする場所が増え、管理するものが増え、そのうち「今日はもういいか」と見ないふりをする場所が増えていく。
それなら、身の丈に合った広さのほうがいい。その代わり、収納だけはしっかり欲しかった。
歳を取れば、体力は確実に落ちる。若い頃なら簡単に動かせた家具も、いつか重たく感じる日が来るだろう。それに、不要になった家具を手放そうとすると、不用品業者を手配して、日程を決めて、お金を払ってと、それだけの段取りを、体の衰えた自分が面倒がらずにできるだろうか。
未来の自分が、重い家具の前で途方に暮れることがないように。だったら最初から、大きな収納が備え付けられている部屋がいい。家具が少なければ、掃除もしやすい。歳を取っても、暮らしを身軽に保てる。
若い頃は、暮らしを豊かにするために物を増やしてきた。でもこれからは、少しずつ減らしていきたい。身軽に暮らせることも、豊かさの一つなのだと思うようになった。
予算の都合でそれほど選択肢はなかったけれど、条件に合う物件をいくつか見て回った。
古いマンションをリノベーションして住むのも素敵だと思った。味のあるフローリング、レトロな窓枠、古い建物特有の落ち着き。そういう空気感には惹かれるものがある。
でも、どうしても気になったのが「音」だった。
隣の部屋のテレビの音。深夜の足音。ドアを閉める音。水回りの生活音。
音の問題だけは、あとから簡単には変えられない。どれだけ内装を綺麗にしても、壁の薄さだけはどうにもならないのだ。
私は昔から、音に疲れやすい。特に人の声が苦手だった。聞くつもりのない話し声が耳に入ると、意識が削がれて、体の中からエネルギーが搾り取られていくような感覚がある。
車の走る音は平気なのに、隣人の話し声は耐えられない。無機質な音ではなく、生き物の気配がする音が、どうも苦手らしかった。
だから家の中では静かでいたい。十年前にテレビを処分したから、家では音無しの生活だ。聞こえてくるのは掛時計の秒針だけ。むしろ外では平気でも、自宅で他人の生活音が続くと、じわじわ神経が削られていく。
だから最後は、築浅で防音性の高い物件へと候補が絞られていった。
そして最終的に、私の背中を押したのはキッチンだった。
■ 選んだ決め手は「L字型のキッチン」
ひとり暮らし向けの部屋なのに、そこには驚くほど立派なL字型キッチンがあった。
一般的な単身者向けのキッチンよりも、ずっと広いスペースが割かれている。LDKと表記された部屋の半分近くを、デカデカとキッチンが占領していた。
コンロは三口。作業スペースも広々としている。ここなら、まな板の上で材料を切っても、端からシンクへ転げ落ちることはないし、切った食材の置き場に困って、電子レンジや冷蔵庫の中に〈仮置き〉するような、あの切ない工夫も必要ない。
これまで住んできた部屋は、どこもキッチンが狭かった。思うように作業ができず、料理のたびに、ほんの少しずつストレスが積み上がっていった。
「次は、広いキッチンがいい」
それは密かに抱いてきた願いだったけれど、広いキッチンはたいていファミリー向け物件の専売特許で、ひとり用の部屋では半ば諦めていた。
それなのに、あったのだ。
ひとりのための部屋に、ひとりには過ぎるほどのキッチンが。
物件を見て回る中で、このキッチンを見た瞬間、この先ひとり暮らし向けの部屋で、これ以上のキッチンにはもう出会えないかもしれない、と思った。
もう少し部屋が広い方がいいとか、もう少し上の階がいいとか、そんな条件なら妥協してもいい。このキッチンだけは手放したくなかった。
そう思えた部屋は、この物件が初めてだった。
間取りではなく、キッチンを見て部屋を決めようと思ったのも初めてだった。

振り返ってみれば、仕事のない休日、私が一番長く過ごしているのはキッチンだった。
翌週のための作り置きをつくったり、季節の果物を煮てジャムにしたり、冷凍庫の整理をしながら献立を考えたり。誰かに見せるわけでも、誰かに食べさせるわけでもない。
何かを仕込みながら過ごす時間が、私にとって一番の「回復」だった。乱れた生活のリズムを整えてくれるのも、落ちた気力を静かに補充してくれるのも、いつもキッチンだった。
一番長い時間を過ごす場所が、一番充実していてほしい。それは私の場合、リビングでも寝室でもなく、キッチンなのだ。
この家に住んで、年をとって、いつか仕事も辞めたら——この静かなキッチンで、一日が過ぎていく。そんな暮らしも悪くないと、自然と思い描ける家だった。
区役所も病院も近い。収納も十分ある。静かに暮らせる防音性があって、キッチンは広い。
条件を並べると、地味この上ない。でも暮らしというのは、案外こういう地味な条件に支えられている。華やかな条件は心を弾ませてくれるけれど、毎日を穏やかにしてくれるのは、こういう目立たない条件なのだと思う。

毎日キッチンで何かをつくりながら、ただ自分を機嫌よく満たしていく。地味だけれど穏やかで、それでいて安心できる暮らし。そういう生活を、このキッチンが支えてくれると思っている。
老後のために買った家だった。でも、本当に手に入れたかったのは、これからも変わらず暮らしていける毎日だったのかもしれない。
三年が経った今も、私はキッチンに立っている。明日の弁当のおかずを作りながら、ふと顔を上げると部屋が目に入る。
あの日思い描いた老後は、いつの間にか、今日になっていた。






※大幅に加筆修正しました。
