研修医、白衣の中で窒息する 〜僕らは今日も“正しさ”に溺れている〜
8月。
内科が始まった。
研修医になって、もう四ヶ月が経つ。白衣の袖にも、だんだんと癖がついてきた。
それはつまり、日々が体に染み込んできた証なのかもしれない。けれど、それと比例するように、ある考えが頭をもたげてくるようになった。
医療とは、なんだろう?
研修が始まったばかりの頃は、そんな疑問を抱く余裕もなかった。目の前の業務をこなすことで精一杯で、自分のしていることの意味なんて考えていなかった。
でも最近、不意に足を止めてしまう瞬間がある。
この治療は、本当にこの人のためになっているのだろうか、と。
たとえば、認知症で意思疎通が難しい高齢の患者。繰り返す誤嚥性肺炎。何度も入退院を繰り返し、点滴でつながれ、動脈に針を刺され、栄養が摂れないからと首にCVを通される。抗生剤で炎症を抑えた先にあるのは、また同じサイクルの始まり。
これを「医療」と呼ぶのか?
それとも「延命」という名の苦行か?
本人の声を聞くことすらできないまま、ただ“命をつなぐ”ことが、正しいと言えるのか。
ときどき、そんな疑問が胸を刺す。
医者として失格だろうか。
少なくとも、テレビドラマの中の医者は、そんなことは言わない。
目の前の命を救う。それがすべてだ。そう言い切って、まっすぐ患者を見つめている。
でも実際の現場は違う。
患者が運ばれてきたときに、思わずため息をついてしまうこともある。
退院の日、看護師に「退院許可」を出して終わりで、顔も見ずに終える医師だっている。
病棟の全患者のフルネームと顔を一致させている医者なんて、どれだけいるのだろうか。
…それでいいのか?
それとも、そうであるべきなのか?
感情を抱けば、判断を誤る。
外科医が身内を手術できないのと同じように。
だからこそ、距離を置くことも必要なのかもしれない。
でも、それでも――本当に、それでいいのか?
考えているうちに、自分が何を考えていたのか、わからなくなる。
いや、きっとこれが「現場」なのだ。医療の最前線の、ゆがんだ日常。
自分の時間、体力、精神を削って差し出すこの仕事は、それに見合う価値があるのか。
そう思ってしまった瞬間から、もう「好き」という感情だけでは続けられなくなる。
たぶん、そんなことを一度も疑問に思わず、笑いながら何十年も続けられる医者は、ほんとうに“選ばれし者”なのだろう。
けれど僕は、選ばれし者ではない。
考えてしまう者だ。迷ってしまう者だ。
だから言いたい。
こんな思いを抱えるのは、きっと医者だけじゃない。
朝から終電まで働くサラリーマンも、家族を支えるために働く誰かも、
「このままでいいのか」と考えてしまう日があるなら、
きっとその声を無視しないほうがいい。
一ヶ月以上、同じ疑問が心に居座っているなら、
それは、もう限界のサインだ。
逃げてもいい。
考えてもいい。
答えが出なくても、いい。
だって、僕らはまだ、白衣の中で迷ってる最中なんだから。
