45歳・教員の「越境学習」 ~日本財団での1年間~(2)
虎ノ門
3月下旬の午後、私は東京の港区赤坂にある日本財団のビルへと向かっていた。
事前に教育委員会の関係者から、「横浜から行くのであれば、最寄り駅は虎ノ門」だと聞いていた。JR東海道線で横浜から3つ目の新橋で東京メトロ銀座線に乗り換えて、1駅目が虎ノ門である。
ちなみに、南北線・銀座線の溜池山王駅、千代田線・丸ノ内線の国会議事堂前駅からも、日本財団は徒歩で5~6分の距離にある。
最寄り駅が3つもあるとは、さすが東京である。横浜にも地下鉄は走っているが、2006年当時、路線は「ブルーライン」だけだった。しかも、地下鉄とは名ばかりで、市の中心部を除くと電車が地上を走っている、というのが横浜の市営地下鉄だった。
その点、東京では文字通り網の目のように地下鉄が走っている。1年間、ここで無事にやっていけるだろうかと、妙なところで緊張と不安が高まってきた。
虎ノ門駅の3番出口から地上に出て、文部科学省や霞ヶ関ビルなどの建物が立ち並ぶ外堀通りを5分ほど歩いていくと、正面に五角柱の形をした日本財団のビルがあった。
ビルの入口で、研修を担当する教育センターの職員2人と合流し、受付で「横浜市教育委員会から参りました」と告げると、エレベーターに乗るように案内され、8階の会議室に通された。
会議室
教室2つ分ぐらいの広さがある会議室では、3名の男性が私たちを待っていた。
まずは名刺交換を、といいたいところだが、当時の私は名刺を持っていなかった。最近ではキャリア教育や出前授業の普及などもあって、一般の教員が企業などの関係者と接触をする機会が増え、名刺を持つことも珍しくなくなったようだが、当時は管理職になってから初めて作るのが一般的だったのだ。
一応、事前に書店で立ち読みした「社会人のマナー」に関する本で得た知識をもとに名刺を受け取り、楕円型のテーブルをはさんで日本財団側と私たちとが3人ずつ向き合うようなかたちで着席をした。
名刺に記された肩書によると、3人の中心に座っている50代半ばだと思われる方が常務理事、その左側の、やはり50代半ばと思しき方がブロック長、そして右側の、私よりも若く見える方がチーム・リーダーだということである。ブロック長が部長、チーム・リーダーが課長のことだというのは、4月になって実際に研修がスタートしてから知った。
それにしても立派な会議室である。テーブル、椅子、調度品など、どれをとっても高級感があり、なんといっても、肘掛け付きの椅子は座り心地がよかった。学校の会議室で使っている折り畳み式のパイプ椅子とは雲泥の差だ。映画やテレビドラマでしか見たことがなかった会議室の雰囲気に、再び緊張と不安が高まった。
日本財団のお三方が説明してくれた内容をまとめると、ほぼ次のようになるだろう。
○日本財団は、公営競技のひとつである競艇(ボートレース)の収益金をもとにして、海洋や船舶関連の事業に対する支援とともに、公益・福祉・国際協力などに関する支援や事業を行なっている公益財団法人であること。
○数年前に、日本財団がインドの貧困地帯への視察旅行を行った際に、横浜市教育委員会の幹部職員が同行したことがきっかけとなり、横浜市の教員を研修で受け入れる運びになったこと。
○これまでに、日本財団は関連団体などからの出向者は数多く受け入れてきているが、現職の教員を研修というかたちで迎え入れるのは初めてであること。
○近年、日本財団では教育関連の事業にも力を入れており、教員の立場からの具体的な意見や助言を求めていること。
○4月1日付で日本財団に入会する新人職員は、4月と5月の2か月間が研修期間になっており、大部分の研修については彼らと一緒に受けてもらう予定であること。
○その後の研修については、大まかなスケジュールを立ててあるが、教育委員会や研修する本人とも相談をしながら具体的なプログラムを決めていきたいこと。
「モンキーターン」
説明や質問が一段落すると、常務理事が私に尋ねてきた。
「ところで、立田さんは競艇についてはご存知ですか?」
一応、日本財団のホームページや関連するサイトなどで、競艇(ボートレース)については予習をしてきていた。ところが、自分でも不思議なことに、反射的に口から出てきたのは、
「アニメの『モンキーターン』が好きで、毎週見ていました」
という言葉だった。
『モンキーターン』は、競艇の世界を舞台にした漫画である。1996年から2005年にかけて『少年サンデー』に連載され、2004年にはアニメ化されていた。私は、たまたまアニメの放送を初回から欠かさずに見ていたのだ。
2004年1月初旬の土曜日の深夜、偶然にテレビのチャンネルをつけると、競艇のレースシーンが映っていた。それが、たまたま『モンキーターン』初回の番組開始直後の場面だったのだ。当時としては珍しくCGを多用した画面と、それまで知らなかった競艇の世界に引き込まれ、それ以来、毎週欠かさずに見るようになったのだ。
アニメの初回では、競艇学校での厳しい訓練やストイックな生活の様子が描かれていて、テレビを見ながら、「自分とは無縁な世界だな」と思った記憶がある。その2年後、研修とはいえ、その競艇学校に体験入学をする日が来るとは夢にも思っていなかった。
また、それまでの私には「競艇=ギャンブル」という先入観があったように思う。しかし、『モンキーターン』によってそれが払拭され、ギャンブルの要素はあるものの、それ以上にプロ・スポーツの一つとして考えるようになっていたのだ。
「ほう。『モンキーターン』をご存知ですか」
担当常務が、そう言って何度か頷いていた。
両隣の2人も、
「そうですか。うれしいですね」「『モンキーターン』の話題が出るとは思わなかったです」と呟いている。
気のせいかもしれないが、これがきっかけで場の雰囲気が和んだように思われる。何がどこでどう役に立つか、世の中はわからないものだ。
(つづく)
