逢魔が時に、スレ違う-第六刷-狂れた|埋葬虫《シデムシ》、電波、赤マント!
高層ビルが墓石のようにひしめき合い、逃げ場のない影を落とす──鏡町。
コンクリートの壁には、かつての熱狂の残り香のような煤がこびりつき、風が吹くたび古い紙屑が虚しく舞う。
海馬日報の二階、西日が差し込むフロアには、重い紫煙と黄ばんだ紙束の匂いが澱んでいた。机の上に放り出された週刊誌の表紙では、リングの隅で真っ白に燃え尽きたボクサーが力なくうなだれている。時代は、何か巨大な熱量を喪失し、静かに窒息しようとしていた。
窓の外、黒ずんだ電線の束が夕闇を切り咲き、人々の生活から漏れ出す電波の澱みをどこかへ逃がしている。そんな『生物≠ナマモノ』が死んだような静寂の隙間。新人記者の七尾 一が置いたデンスケの針が、不意に痙攣を始めた。
ザ……ザザ……。
録音テープの摩擦音に混じり、ネバァと糸を引くような不快な電子音が鼓膜の裏を撫でつける。それは、ビルの谷間に巣食う何かが、初めて肺呼吸を始めたような不吉な震えだった。
ザ……ザザ……。
ザ……ザザザ……。
サーーーーーーーー。
鏡町第四中学校の放送室は、陽の当たらない校舎の隅でカビの臭いを吐き出していた。
泉 佑二郎は、埃を被った真空管ラジオに廃材置き場から拾ってきた黒電話の受話器を無理やり繋いで耳に押し当てている。熱を持った機械からは、焦げた髪の毛のような嫌な匂いが漂い、少年の指先はベタついた脂汗でダイヤルを汚していた。
彼が追い求めているのは、電波などという洒落たものではない。それは、街のビルの隙間に溜まった、怨恨のささやきだった。土の下で埋葬虫が猫の死骸を貪るように、泉はこの機械を通して、他人の恥部を穿り返しては啜っている。
不意に、ラジオの奥で濡れた布を絞り出すような音が響いた。
ギチ、ギチッ……。
それは、死骸を掃除するはずの虫たちが、生きている者の肉の味を覚えた瞬間だった。泉の首筋を、冷たい何かが這い上がる。見れば、換気扇の隙間から、赤い翅を血のように湿らせた埋葬虫が、一匹、また一匹と溢れ出していた。泉はそれを払おうともせず、ただ、耳に吸い付く受話器から流れる誰かの絶望に、恍惚として聞き惚れていた。
「あれは事故です。私が殺したんじゃない」
受話器から聞こえるのは、隣のクラスの担任の、震える声だった。
担任は夜の職員室で誰かに言い訳をしている。泉は口元を歪めた。
学校一厳格な男の、これが裏の顔だ。背中が、ちくちくと痛んだ。首筋から制服の襟裏へ、平たいものが潜り込んでいく。手で探ると、虫の節くれ立った脚が指に触れた。
埋葬虫だ。
爪を立てて引き剥がそうとしたが、虫は皮膚に食い込んで離れない。痛い。痛すぎて声を発したい。だが、泉は受話器を耳から離せなかった。担任の声が、今度は泣き声に変わったからだ。
「誰も見ていないはず…です」
その言葉を、一文字も聞き漏らしたくなかった。虫の頭が、泉の皮膚を食い破って肉の中へ潜り込んでいく。泉は笑っていた。男の秘密という餌を喉にきゅるきゅると流し込みながら、ただ、受話器を強く握りしめていた。
キュルキュル……キュル
デンスケのテープが、不快な摩擦音を立てて回り続けている。
七尾はヘッドフォンを耳に押し当てたまま、海馬日報の二階フロアを飛び出した。
機械が拾ったのは、ただの雑音ではない。
「誰も見ていないはず……です!」
受話器越しに泣き出す男の声。そして、その背後で鳴り響く、カサカサと乾いた無数の羽音。何かが肉を噛み切る、濡れた咀嚼音。七尾の勘が、これは単なる事故の告発ではないと告げていた。音が放たれている方角は、親不孝筋を抜けた第四中学校だ。
夜の帳が下りたビル街を、七尾は走った。肩に提げたデンスケが、走るたびに脇腹を激しく打ちつける。痛む。だが、テープを止める気にはなれなかった。ビルの隙間の暗がりから、街灯の薄赤い光に引き寄せられるように、平たい甲虫が這い出てくるのが見えた。一匹や二匹ではない。アスファルトの地表が黒く染まっていく。踏み潰すたび、靴の裏でプチプチと嫌な硬さが弾けた。
第四中学校の鉄門は、鍵が外されて薄く開いていた。校庭の砂は、無数の虫が這い回ったせいで不自然に波打っている。七尾はデンスケのコードを引っ張りながら、夜間通用口のガラス扉を押し開けた。校内は、すえたワックスの臭いと、古い教科書が湿ったような空気だけで満ちている。
キュル…ヘッドフォンの奥でテープが短く鳴いた。
「……です。私が……」
担任の男の声はもう掠れて、ほとんど聞き取れない。代わりに、ギチギチと硬い殻が擦れ合う音が大きくなっていた。音は三階の突き当たり、放送室から出ている。暗い廊下を進む七尾の靴底が、時折、濡れた紙を踏みつける感触を捉えた。懐中電灯の光で照らす。それは文字の印刷された更半紙の破片だった。
いや、違う。
それは、人間の表皮の溝がそのまま刻まれた、黄ばんだかさぶた|だった。七尾は生唾を飲み込み、階段に足をかけた。
ギチ…ギチ…
一段上がるごとに、不快な擦れ音が耳の奥で膨らんでいく。実際には、音が頭上から降ってきているのだ。三階への階段は、手すりもコンクリートのステップも、虫の這いずる油染みでどす黒く光っていた。
七尾はデンスケの重みを肩で支え直し、懐中電灯の光を正面へ投げた。廊下の奥、放送室の古い木製の扉が見える。その扉の下にある隙間から、何かが絶え間なく溢れ出ていた。
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黒い塊。
ライトを近づけると、それは塊ではなく、何千匹もの埋葬虫が重なり合って蠢く、動く絨毯だった。虫たちは、ドアの隙間から廊下へと這い出し、七尾の靴を包み込もうと迫る。
「……ん……あ……」
スピーカー越しではなく、扉の向こうから、今度は生身の、しかしひどく掠れた声が漏れた。それは担任の男の声ではない。もっと若い、変声期を過ぎたばかりの少年の声。七尾は、虫の群れを靴で踏み荒らし、粘つくドアノブに手をかけ内側へ開いた。

懐中電灯の光が捉えたのは、机に向かって直立不動のまま背中を向けている、制服姿の少年だった。少年の耳には、黒電話の受話器が吸い付いているかのように離れない。いや、受話器から伸びた無数の埋葬虫の脚が、少年の耳の穴に深く爪を立てて固定されているのだ。
ジ、ジジ……。
受話器からは、男の嗚咽がまだ漏れている。少年はその絶望を鼓膜へ直接注ぎ込まれながら、小刻みに全身を震わせていた。少年の背中は、すでに制服の生地が虫たちに食い破られ丸く露出しており、そこにあるのは生身の肉ではない。文字がびっしりと印刷された更半紙の肌だ。虫たちはその紙の肉に頭を突っ込み、インクの文字を貪り喰っていた。喰われた部分から、じわりと薄黒い膿が溢れ、床へ滴り落ちる。七尾はデンスケを構えたまま、一歩、二歩と、その背中へ近づいた。
三歩目。
七尾の靴底が、床に落ちた鉛の活字を踏んで硬い音を立てた。少年が、ゆっくりと振り返る。受話器は耳にへばりついたままだ。少年の顔面は、鼻から下がすでに白く干からび、更半紙のようになっていた。唇があるべき場所には、印刷のずれた、
『 泉
佑
二
郎 』
という文字の列が、虫の這ったような歪みで並んでいる。その文字の『佑』の一画を、一匹の平たい埋葬虫が噛み切り、顎を動かして呑み込んだ。
「……ぁ……」
少年が口を開いた。だが、出たのは声ではない。名前を喰われた少年の喉から、吐き出された吐瀉物と一緒に、まだ消化されていない鉛の活字の角がいくつか床へこぼれ落ち、冷たく鈍い音を立てた。
七尾の目が、少年の机の上、熱を帯びた真空管ラジオの側面に向けられた。そこに、脂汗でベタベタになった海馬日報の切り抜きがピンで突き刺さっていた。見覚えがあった。海馬日報の二階フロアで、先輩たちが「絶対に触るな」とゴミ箱に叩き込んでいた、あの三行広告の欄だ。なぜそれがここにある。そう思った瞬間、その紙の余白から、どす黒い赤インクがじわりと溢れ出した。それを見た瞬間、七尾の右腕が、自分の意志を完全に無視して、カチリと跳ね上がり、その指先を無理やり硬直させ、少年の机に転がっていた古びた赤鉛筆をひったくった。
腕の骨が内側からきしむ。肉がちぎれそうに痛い。三行広告から噴き出したどす黒い赤インクが、七尾の指を伝い、赤鉛筆の芯を濡らして床へ滴った。
ギチギチギチギチ。
埋葬虫たちが一斉に硬い翅を鳴らし、七尾の足元へ迫る。数千匹の虫が互いの脚を噛み合わせながら、少年の背後で、巨大な人間の形へせり上がっていく。折り重なった無数の赤い翅が蠢く様は、湿った血を吸って重く垂れ下がる、一枚の巨大な布そのものだった。
赤マントだ。
その虫の壁が、放送室の天井に頭を打ちつけながら、七尾の頭上へ向けて一斉に覆いかぶさってきた。その塊に向けて、七尾の右腕が激しく振り下ろされた。
ガリ、と、大きな紙が破れる音が放送室に響いた。誰も紙など持っていないのに、その音がした。赤い斜線がそのマントの胸を縦に引き裂いた瞬間、重なっていた虫たちが次々と潰れ、黄色い体液を噴き出しながら床へ転がり落ちた。
ガリ。ガリ、ガリ。
肉をすり鉢でブチブチとすり潰すような音が、絶え間なく室内に響く。床は、潰れた埋葬虫の黄色い体液と、鉛の活字が混ざり合った泥のようなものでぬかるんでいた。だが、虫の増殖は止まらない。真空管ラジオに突き刺さった三行広告の切り抜きから、今度はどす黒い赤インクに混じって、カサカサと乾いた、音、そのものが溢れ出していた。
「私が殺したんじゃない……あれは、あれは……」
担任の男の、引き千切られるような悲鳴。
その声に呼応して、床の体液を吸い上げながら虫の群れが再び起き上がる。七尾の右腕の皮が、激しい運動に耐えかねてペキリと裂けた。傷口から溢れたのは血ではない。真っ黒な印刷インクだった。七尾は叫ぼうとしたが、舌が硬直して、ただ喉を鳴らすことしかできなかった。
ゴト、と、少年の頭が机に落ちた。
首の皮が一枚、乾いた音を立てて千切れたのだ。頭を失った少年の首の断面から、どろりと溢れたのは血ではなく、文字の羅列が隙間なく印刷された、古い更半紙の束だった。
それに向けて、七尾の右腕が猛烈な速さで赤鉛筆を突き刺した。
芯が折れる。それでも、ちぎれた指先の骨を紙に擦り付けながら、七尾の腕は更半紙の文字を真っ赤に塗り潰し続けた。男の悲鳴は、いつの間にか真空管ラジオを飛び出し、放送室のコンクリート壁の隅々から染み出している。
「許してくれ、わざとじゃない、ゴミ箱に捨てたんだ、あの赤ん坊を」
担任の男の犯した、本当の間引き。
そのどす黒い因縁が、部屋を埋め尽くす埋葬虫の翅をさらに激しく震わせる。虫たちは、もはや少年の肉だけでは足りなかった。彼らは床のぬかるみを這い上がり、七尾の動かない左足の裾から、むき出しの肌へと一斉に齧りつき始めた。
痛い、痛くて気が遠くなる。
反転、七尾の右腕はさらに速度を上げて赤鉛筆を動かし続けた。
ガリ、ガリガリガリ。
少年の胴体がガタガタと震え、首の断面から新しい更半紙の束を次々と吐き出す。七尾の右腕は、そこに並ぶ文字の列を赤く塗り潰していく。壁から漏れる男の声は、もはや言葉になっていなかった。
「あ、名前が、俺の、……が、消え、」
男の罪だけではない。男自身の名前が、海馬日報の過去の紙面から物理的に削り取られているのだ。
熱を持ちすぎた真空管ラジオのガラスが、パリンと乾いた音を立てて弾け飛んだ。内部の配線が焼け焦げ、中からどろりとした黒いインクが溢れ出す。そのインクは床のぬかるみと混ざり合い、七尾の足を喰っていた埋葬虫どもの動きを、セメントのように重く固めていった。
音が、消えた。
壁から染み出ていた命乞いも、虫の羽音も、すべてがセメントの中に封じ込められたように途絶えていた。放送室の床には、真っ黒に固まった虫の骸と、インクの混ざった泥が嫌な臭いを放ってこびりついている。
その中心で、机に向かったまま動かない塊。首の断面から覗く更半紙の束は、赤鉛筆の芯でズタズタに引き裂かれ、もはや一文字も読み取ることはできなかった。少年だったものは、ただの、破られた紙屑と校正された。
七尾の右腕が、カチリと音を立てて元の位置へ垂れ下がった。自分の腕に戻るには戻ったが、激痛が遅れて押し寄せ、七尾は床へ膝をついた。ちぎれかけた右手の指先には、爪の隙間までべっとりと、乾きかけた赤インクが固まっている。
肩のデンスケは、まだ回っていた。七尾は震える指で停止ボタンを押し、すぐさま巻き戻して再生のレバーを捻る。スピーカーから流れたのは、少年の悲鳴でも、男の命乞いでもない。カサ、カサカサ……。静まり返った部屋の中で、誰かが更半紙を激しく千切り、ゴミ箱へ放り込み続けているような、乾いた紙の音だけが、永遠にテープに刻まれていたのであった。
ザ……ザザ……。
ザ……ザザザ……。
サーーーーーーーー。
タイトル画・挿絵/胡貼 十夜
第七刷はコチラ☟
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