地面から浮きます。ご注意ください。【掌編小説】
今では気にする人はいないけれど、僕が大人になる頃には、「嘘をつく」と誰もが宙に浮いていた。
鳥みたいに自由に飛べるのではなく、あくまでも地面から垂直に浮力を感じて上昇するだけなのだが、数センチから2メートルくらいは浮く。高さは嘘の程度によって違うみたいだった。
ヘリウム風船のようにふわっと浮くイメージで、降下するときもソフトランディングするので、頭上に空間さえあれば危険はない。
そりゃあ、初めは驚いたよ。
体が慣れるまで違和感があったし、会話中の変な「間」は気まずかったし、文字でのやりとりでも同様の現象が起きていたから、どうしたらいいのかわからなくて戸惑ってばかりだった。
そもそも浮く理由もわからなかったしね。
けれど、みな同じ状況だったから、1年が経過する頃にはすっかり日常となっていた。
未だ原因は解明されていないけれど、なんらかのウイルスによって突然変異が誘発されたという説が有力らしい。
今更ではあるが、「嘘をつく」という行為は、人を騙すのは別として、自分の考えや感情に対して、自分を偽って発言するということである。
よく考えると、嘘をつくというのはストレスがたまる行為だ。
嘘によりトラブルを一時的に回避することができる、という見方もあると思うが、問題を先送りした分、その後のストレスが増大する可能性は高いだろう。
人間は、嘘をつくという精神的なストレスから逃れたかったのかもしれない。
そこで、そのストレスを精神から身体へと移行させた。身体の方がさまざまな技術により解決しやすい、と学習したからではないだろうか。
現に、僕らは浮くのを防ぐため、外出時には重力と浮力のバランスを一定に保つ機能が内蔵された靴を履いている。
この靴は「高く」浮くのを防ぐ。だが、あえて数センチ程度は浮くようにも作られている。怪我から体を守りつつ、嘘はばれるよう調整されているのだ。
気をつけなければならないのは靴を脱いで家で過ごすときで、特に体重が軽い子どもたちは浮きやすいので要注意である。
たとえば、幼い息子は叱られるのを避けるため「僕じゃないよ」と頻繁に言うのだが、これはすぐに天井行きになる。
また、浮きたいがために、わざと嘘をつくこともある。
子どもたちを怪我から守るため、ほとんどの家屋の天井には緩衝材が貼られている。わが家も例外ではない。
話は逸れるけれど、浮くようになってからよく使われる言葉がある。
それは「ヤバイ」である。
この言葉は浮きにくいのだ。
いろんな意味を包含しているせいなのか、感情を含まず形骸化しているせいなのか、とにかく返答に困ったときに大変便利である。
何十年か前にも流行った時期があったみたいだけど、その時も何か理由があったのかな。
一方、靴を脱ぎ、裸足でいることを強制される場所もある。たとえば、警察署の取調室や裁判所の法廷などだ。理由は言わなくてもわかると思うけれど。
本題はここから。
僕らには忘れられないエピソードがある。
大学生だったあの頃、まだその特別な靴は高価で、手に入れることができなかった。だから、大きな嘘は極力つかないよう気をつけていた。
でもある日、彼女とちょっとしたことで口論となり……。
「どうしてそんなに突っかかってくるの?」
「そんなつもりはないよ」
「私、なにかした?」
「いやぁ」
「あ、そうか。わかった」
「?」
「君、私のことが好きなんでしょう?」
「いや、僕は、君のこと、別に好きなわけじゃ……、あっ!」
次の瞬間、僕は宇宙まで飛んで行くのではないかと思うほど浮いてしまったのである。実際は50センチくらいだったらしいが、こんなに高く浮いたことがなかったので、ひどく狼狽えた。
でも、彼女も売り言葉に買い言葉で、直後に「私もあなたなんか好きじゃない!」そう言い放ち、僕の目の前に現れた。
「あ、いえ……」
「いや、あの、僕の方こそ……」
不器用な僕たちは、思いがけず地上から浮いた状態で告白しあうことになり、僕らのその関係は今も続いている。息子1人が生まれ、猫も1匹加わった。
嘘をついて浮く体になったことに感謝する出来事である。
初めは不自由さもあったけれど、率直に意見交換する場面が増えたし、人に対して良い面を見ようとする意識が高まった。
自己防衛の嘘は、生物である以上防げない一面はあるが、自問自答し、自分を見つめ直す機会も増えた。
円滑なコミュニケーションのためについた嘘の場合、その真意が伝わり、これまで以上に相手との距離が縮まった。
そして、相手を思いやる優しい嘘は、「浮かない」こともわかってきた。
僕の一番の心配事は、いつか歳をとって「私のこと好き?」と聞かれたとき、「うん」と答えて、浮いてしまったらどうしようという問題である。
「ヤバイ」で乗り切れるだろうか。
それとも、これは優しい嘘だろうか。
<完>
©️2025 ume15
お読みくださりありがとうございます。
地面に沈み込むくらい嬉しいです。
