【Butter読書感想文(II) 】柚木麻子作翻訳版を読んで
英訳『Butter』を、原作と比較した結果翻訳の意味を考えさせられてしまった。
比較しようと思ったきっかけはイギリスの女流作家たちの作品。ジェーン・オースティンや、ヴァージニア・ウルフ、ジリー・クーパー、フランシス・ハーディング等々、女性作家の作品はどれも女性性が持つ特徴をベースにしたものが多い。女性を主役とした厚い文化と醸成されてきた社会的環境はあるが、同時に時代や社会の主流から隔絶された女の不利を訴え、ベルベットのような歴史に縫い付けらた緻密な刺繍のごとき女性の文化や智慧を理解しない男への反意が表されていることが多い。そのため『Butter』がどう解釈されたかに興味があった。
『Butter』文庫版を読み印象がフレッシュなうちにPolly Burton氏の翻訳版を買った。この小説はこれまで多くの人たちが描こうとしていた多角的な女の側面を一挙にしかも包括的に描いた画期的な小説だと思った。どこを切り取れば私の印象を捉えるか、読んでいる間に見つけた箇所の翻訳を見て比較することにした。
10章 伶子(主人公の友人)独白 2月22日から2月24日までの2日間の日記
ここに女性が環境をカスタマイズできる意の概念的な記述がある(文庫版P356)。
『どんな境遇であれ、少しでも快適にしようとする女の知恵、自分の好みに環境をカスタマイズできる女の逞しさを、保守的な男ほど疎んじるものだ。でも、それこそが彼らが女に何よりも求める家事能力の核に他ならない。どうしてその矛盾に気づかないのだろう。家庭的な女でさえあれば、自分たちを凌駕するような能力を持たない、言いなりになりやすい、とどうして決めつけているのだろう。火事ほど、才能とエゴイズムとある種の狂気が必要な分野はないというのに』
ストーリーの流れには直接関係はないが、この文章は今の誰もが仕事に行き個別に収入を持つ時代へのアンチテーゼにも思われて強く印象に残った。同じように思う人はいてもこれだけを言葉にしたところで、現在の社会傾向のなかで首肯する人間はどれほどいるだろうか。作家の勇気と根気強さに感銘を受けた一文だった。しかしこの段落はBurton氏の訳本からそっくり抜けている。
同じ章にある怜子の父が語った言葉の訳にも違和感があった。それは父は会社のスタッフと関係を持ち母親もそれを認めている状況での一文(P345)『家族とはセックスできないんだから』というもの。英訳では
"I just can't have sex with someone who's so close that they feel like family."となっていて、この訳に違和感があった。
原文の『家族とセックスできない』は、家族になるとできない、の意。これは別の章でも語られていて、性の嗜好性が原因で怜子自身、結婚生活において同様な問題に直面する。しかし永く見合い結婚の習慣がある日本では、家庭を営むための結婚と恋愛の最終到達点としての結婚があり、その感覚は根強く日本人の意識下にある。愛する対象と慈しむ対象への感情の違いは日本人としてはさほど違和感を生むものではない。このことはむしろ上記のような意訳がなければ、海外の読者が自国の感覚と照らし合わせ違いを認知する箇所かと。そう考えると意訳はむしろない方がいいように思えた。直訳だと揶揄されても、コンテクストを受けない行間は、のちの解明につながるかため。
上記の箇所を皮切りに、気になる記述のあった箇所をピックアップし英訳を読み、そのあと全体を通した。いくつか表現に違いはあったけれど、上記のように特筆すべきものではなかった。むしろストーリーの流れをスムーズにし、フラグ付きの日本的シンプトンとして目立つことがないような工夫に思われた。
私は論文翻訳や、役抜けのチェックなどをしていたが、仕事で触ったデザテーションやジャーナル投稿論文では直訳は好まれない。とはいえ語順を変えたり重複箇所を整理したりする場合、そのことは付記する。一段落を意味を変えず書き換えた場合そのことを表示する約束になっている。それを研究者本人が確認すると、主語が変わっただけでもクレームがつくこともある。その点文芸作品ではどうなのだろうか。 抜けた段落の内容はどこかに内包されるような加筆の跡はなかった。
そうやってBarton版を読み進めていくうちに、私は翻訳の意味がわからなくなってしまった。私の年代ではシドニー・シェルドンの超訳が有名だけど、当時はそれがどれほど“超”なのか確かめる術もなく、面白ければいいじゃん、と当時は思った。そうなのである。『Butter』は論文ではないのだ。それに翻訳を依頼するにあたって、それが異国の人に受け入れらるよう多少の改変・加筆を受け入れるといった話し合いがあったかもしれない。特に現代がテーマでありながら、当たり前だと思っている性についてのパーセプションが、独特なものの上に立脚していたら、翻訳者はその箇所について言語に合うよう解釈を加えながら進めなければ無理だと思う。
そう納得して英訳版を読んだ。全体のトーンは原書を同様、繊細な事実や登場人物の感じ方、常識とのギャップと積み上げながら展開してゆく。しかしその流れはには読者との共通理解に基づく自然なものである必要があり、そこに海外の読者が日本的と感じる要素があるかもしれない。
Barton氏以外の訳ではどうなっているか調べてみたいと考えたが、他の訳者の手による英語版は見つけることができなかった。一方Ursula Grafe氏によるドイツ語版は2022年5月からAmazonから配信されている。ドイツ語は不承知のため直接確認はできないのでコメントで推測するしかない。「日本のことをよく知れた」というコメントの一方「ここでは(独)では起こり得ない。読む必要はない」というものまであった。
穿った見方かもしれないが、Grafe氏の本に対するコメントは日本的や異質のものを見知った感想が多いように感じた。この日本的という視点は、英語版のコメントにはあまり見られない。英国の賞British Book Awards 2025のDebut Fiction部門を受賞したことにより、米英の一流紙が批評を書いているが、それが推理小説としてあるいはグルメ小説として賛美が多く、社会に疑問を投げかけた作品といった批評はない。
以前、面白いか売れるかにシフトしてから、日本の小説はガラパゴス化しているとnoteに書いたことがある。私は海外の小説を読んで育ち、日本の小説の恨みつらみやコミュニティーでの振る舞いを主体とした話には共感できなかった。面白味が感じられなかった。ストレス発散系のストーリ仕立てではなく、もっと視点を根本的に転換させてくれるような物に読む意味を感じる読者だった。海外作品に現代の課題を、小説という形態をとりながら警鐘を鳴らしたり、デフォルメ的な表現で想像の最大限の翼を与え社会に問うたりしているのに対して違いを痛感していた。日本では売れるもの主体になっているため読者の読解力が育たない。それがひいては本自体の衰退につながっている。そう感じていた。
『Butter』の受賞はそこに新しい風が吹いたように感じた。日本の小説を手に取る海外の読書は増えるだろうし、出版界の書籍化を考えるカラーやトレンドも変わってゆくだろう。こうやって書いていると、小説がまるでファッションみたいな気がしてくる。しかし小説は、もっと考えさせるものであっていいと思うのだ。
Barton版『Butter』はそういう意味で日本の小説に目を向けさせる機会になっている。たとえその途中で、多少の改変があっても、十分に日本人が持つ女性性、結婚観、女性の役割、女性が持つ問題を視点を変えて語らせてることで、同じ女性の中にもぶつかり合う観点の違いがあることをストーリーに展開させており、この小説が評価されるようになったのだから。イギリスでは、文学賞は実に細分化され、さまざまな分野・視点で作品が多数毎年受賞している。文学が盛んな国でこの作品が選ばれ注目されるのに、Barton氏の功績は大きい。その方法を熟知している彼女の筆があってこそのものだと考えると、翻訳の意味はとても大きいのではないだろうか。小説は、差し替えではなく、再構成でないだろうかとさえ思わされた。AI翻訳が当たり前になったこの時代に、一石を投じていると思った。
Grafe氏のドイツ語版との違いは、異言語とは言語のみならずその背景の差異が起こす違いなのだと思う。言葉一つの選び方も、何をどう感じるかによって違いは生まれる。着実に訳して再構成するか、感じたまま解釈したままで再構成するか、そこに翻訳の面白さはあって小説の翻訳もまた、新しい未来があるように感じた。
Amazonで二人の翻訳者によるバージョンのコメントを見ることができる。比較してみると面白いので、お勧めしたい。
また、私は以前、英国旅行した際買った本を翻訳させて欲しいと原作者にコンタクトを取ったことがある。その時はOKをもらった。しかし、作業が終わり再度連絡したとき、日本での出版が決まり出版社が翻訳者を依頼しており仕事として依頼することはできない、と断られた。OKが出たこと自体が驚きだったので、当然の成り行きと諦めはついた。9年ほど前の話である。今は翻訳した本を出版社に送信することも断られる。そんな売れるかどうかもわからないものに割く時間はないのだろう。
翻訳は訳者によって変わるという。文学フリーマーケットなど、各人間がほんの数冊、自分の訳を披露できる場所はないだろうか。コストをかけてトライアルを依頼するより、好事家が訳した本を試読するのはどうだろうか。前述の作家に、文フリに出品する許可を貰おうかと考えている。
追記:①9月5日現在読み直し。 主人公がマンションを購入した不動産業の女性は被害者の姉だが、その名前が山村であったのに対し、Barton氏はHatakoと名に変更している点が気になった。ストーリー最後半で、梶井の家庭的な面に強く惹かれその後放棄されたことによって自殺した事実が、仕事をもち社会的地位を確立してきた母と姉を傷つけたのではないか、と里佳が指摘する。重要な箇所を含むため、名前の変更はどんな意図があるのだろうか。
② 『Butter』で鍵となるワードの一つ、ちびくろサンボ。バターを買ってきてと言われて探し回るが見つからなかった里佳。そこから題名のバターにまつわる世界が始まるのだけど、最初に出てくるのはちびくろサンボ。そのネーミングが差別的として批判対象になり、1980年代後半に絶版措置を取られてきたとか。そのことも原作中で触れられている。英語版ではそういった理由で絶版になる本が多いこと、さほど差別的とは思えないことについては削除されている。しかし、テーマでもあるちびくろサンボは作中の至る所に出てきて梶井事件の里佳の考えの変化を表していて、最後には梶井の罪に疑問を投げかける一文にも引用されているが、ここはほぼ原文そのままだった。つまり重要な箇所ということだろう。
