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凪-高波を越えた人が、午後の海岸で出会うもの

波と螺旋は同じひとつ。潜在意識という原点へ
午後の海岸に立っている。かつては、高い波を探して沖へ出た。いまは寄せては返す細かな波—サーファーが「スープ」と呼ぶ砕けたあとのやわらかな泡のほうに心が向いている。凪。

高波の季節
波の高さを落差と呼んでみる。原点からの距離のことだ。凪いだ水面からどれだけ大きく持ち上がるか。若い頃はその落差を求めた。サーファーは高い波を探しそれに乗るために鍛える。逃げるのではなく、いちばん落差の大きいところへ自分から漕いでいく。ときにパーリング—板の先が水に刺さって前へ巻き込まれ海の中に引きずり込まれる。それでもまた沖へ出る。落差の激しい海に身体ごと突っ込んでいく季節がたしかにある。その季節を悪いものだとは思わない。高波を知らなければ凪の意味もわからないからだ。

午後の凪=スープ
やがて波の高さは鎮まっていく。けれど凪は「波が消えたこと」ではない。寄せ切った波が細かなスープになってそれでもまだ寄せては返している。高さ(落差)は小さくなっても寄せ返す動きめぐりは止まっていない。沖の高波も午後のスープも同じ一つの海だ。違うのは大きさ(半径)だけ。午後の海岸で味わっているのは静止ではなく小さく巡りつづける水のことなのだと思う。

波と螺旋は、同じひとつ
ここに複素数のいちばん静かな贈り物がある。波には二つの成分がある。高さ(振幅)と寄せ返し(回転)。この二つを掛け合わせたものを二つの眼で見てみる。時間の流れに沿って眺めればそれは「波」に見える。膨らんでいっていちばん高い波を過ぎやがて鎮まっていくあの見慣れた形。

けれど、同じものを平面の上に置いて眺めるとそれは「螺旋」になる。原点から膨らんで外へ出ていきいちばん大きく回ったあと細く細く原点へ帰っていく。波と螺旋は別々のものではない。同じひとつの動きの二つの姿だ。高波を越えた者がいま午後の海岸に立っているというのはその螺旋が外いっぱいまで回りきって原点へ戻っていくところに来ているということなのだと思う。

原点は、潜在意識であり、宇宙意識
循環を知るとはどういうことだろう。それはたぶん原点へ帰る道が身体でわかってくるということだ。原点—落差が消えめぐりが小さくなったところ。そこは、顕在の外づらが静まって、潜在意識がひらく場所でもある。自分の奥が宇宙とつながっているというあの感じ。宇宙意識と潜在意識を同じ一点として指させるようになる。そして、高波を越えた人にだけこの凪は沁みる。パーリングで深く巻き込まれ海の底で息を止めた記憶—あの深い縮みがあったからこそ原点へ帰ってきたときの午後の光はあんなにやわらかい。深く縮んだぶんだけ帰りのひと巻きが甘い。「宇宙意識=潜在意識を、理解し始めている」というのは大げさな悟りの宣言ではなくてこの原点へ帰る道の手ざわりを少しずつ思い出しているということ—そう受け取っている。もちろんこれは証明できることではないから確かな事実としてではなく静かな予感としてそっと置いておく。

午後の海岸で
波は消えない。ただ小さく巡るだけ。高い波を求めた季節も午後のスープに見入る今も、同じ海の同じめぐりの半径ちがいだった。渡してもめぐりは減らない。回っても寄せ返しは止まらない。だから急がなくていい。午後の海岸で寄せては返す小さな波をただ味わう。落差が薄れたその渚に残るのは、繋がりと、才能と、静かな喜び。感謝を、いちばん奥に置いて。


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