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国境を越えた 昭和の記憶と戦争の影 1935

明治18年生まれの 私のじっちゃんは, 8年間も海外で生活をしていたのでした。

その、じっちゃんが大切にしていた「鉄道旅行スタンプ帳」。

何気なく開いたそのページから、私は予期せぬ歴史の旅へと踏み出したのです。

昭和初期、鉄道雑誌でしか見たことのないアジアの鉄道を駆け抜けた、じっちゃんの足跡が、意外にも日本や世界の近現代史の史実と重なるとは、夢にも思わなかったのです。

(  この記事は約12分程度で読めます。)

切手ブームとスタンプ帳

中学生の頃、父から許しをもらって、亡きじっちゃんの「鉄道旅行スタンプ帳(御朱印帳)」を譲り受けました。

ちょうどその頃、世間は切手ブームの真っ盛りで、今でも大切に保管しています。
 
このスタンプ帳は、お経のような蛇腹折りの冊子で、見開き12ページから成り、後半には古い切手が5枚貼られています。

じっちゃんと、このことについて直接話したことはありませんが、父の話によれば、じっちゃんは40歳半ばから8年間も海外で生活していたとのことです。

じっちゃんは、1931年6月から1年間、河北省 秦皇島市 山海関(天津市の北東、約240km)に滞在。

そして、1932年12月から1939年12月まで、吉林省 長春市での7年間の計2回、中国大陸に滞在していたようです。

その1935年に、海外に住む学生たちを引率して日本に旅行をしたときのスタンプ帳(御朱印帳)だろうということでした。

鉄道旅行スタンプ帳
右に開くと・・・1ページ目が現れます
細長い和紙を折り重ねた冊子です
サイズ: 163×88×19mm
サンプル:11ページ目 
伏見 桃山陵(明治天皇陵)
1935年4月18日 京都・七条

確かに、前半のスタンプ帳の駅の名前を見ると、学校の歴史で習ったことのあるような中国の都市の名前と日付が刻印されています。


これらの都市を、Google Earth上にピンを打ってみました。

白色ピンが国内
赤色ピンが当時、じっちゃんが滞在していた都市
緑色のピンが 鉄道移動の停車駅の都市名


1935年の鉄道旅行スタンプ帳(御朱印帳)より

★1935年3月14日~の旅程
中華人民共和国
3月14日  吉林省 長春市、遼寧省 瀋陽市
3月15日  遼寧省 本渓市、遼寧省  鳳城市、遼寧省  丹東市 

朝鮮民主主義人民共和国
日付不明    平安北道  定州市 

大韓民国 
 3月17日 ソウル特別市 、京畿道 水原市、大田広域市 大田市

日本国内
3月19日  下関、広島 
3月20日  大阪
日付不明 春日若宮神社、東大寺、奈良、伊勢山田、内宮参拝
3月26日  津
3月29日  名古屋
日付不明 記念艦三笠、横須賀、靖国神社
4月7日  日光
4月14日   桃山(京都)
日付不明  伏見桃山陵(明治天皇陵)
4月18日   京都、七条
日付不明  湊川神社(神戸)

鉄道旅行スタンプ帳(御朱印帳)全ページ

1ページ目 
中華人民共和国・長春市~本渓市


2ページ目
中華人民共和国・鳳城市~朝鮮民主主義人民共和国・定州市


3ページ目
大韓民国 ソウル特別市内での御朱印と思われます


4ページ目
ソウル特別市~大田市


5ページ目
下関~春日若宮神社(奈良市)御朱印


6ページ目
奈良・東大寺鐘楼~三重・伊勢山田 高千穂館スタンプ


7ページ目
御朱印・伊勢内宮~名古屋


8ページ目
神奈川・記念艦三笠~横須賀


9ページ目
東京・靖国神社~栃木・日光東照宮


10ページ目
日光~京都・桃山
4月7日~14日までの空白期間有り 理由不明

11ページ目
京都・伏見桃山陵~七条


12ページ目
神戸・湊川神社 御朱印

1935年の鉄道旅行スタンプ帳(御朱印帳) いかがでしたか?

1か月にも及ぶ大旅行でした。しかも、中華人民共和国・朝鮮民主主義人民共和国・大韓民国を鉄道で駆け抜け、下関に上陸したのです。
(たぶん、釜山からの関釜連絡船を利用したのでしょう。)

日本国内では、各地の由緒ある神社仏閣巡りの旅でした。

旅行途中での日光と京都の4月7日~14日までの空白期間や、帰路については不明です。

関釜連絡船
下関に停泊中の国鉄連絡船「京福丸」(1922年~1957年)の絵葉書
出典:ウィキメディア・コモンズ  パブリックドメイン





衝撃!! 日本・世界の近現代史と意外なリンク

すでにお気づきの事とは思いますが・・・

この1か月にも及ぶ大旅行や、2度の合計8年にも及ぶじっちゃんの海外滞在(中華人民共和国・秦皇島市と長春市)は、当時の日本や世界の近現代史と大きくリンクしていたのです。

歴史の教科書に出てくるような、満州事変、柳条湖事件、五・一五事件、リットン調査団とも関係がありそうです。

歴史年表を紐解いてみましょう。

まず、大前提として「満州国は、国際的に認められていない国」であり、「当時の日本の支援を受けた傀儡国家」であることを申し述べておきたいと思います。

満州国は、国際的に認められていない国

満州国は、軍事的侵略と暴力行為によって建国され、国際連盟の制約を無視して日本が一方的に宣言したため、国際的には認められていません。

このため、日本は国際的に孤立し、満州国の建国は他国から非難されました。

私自身も、満州国や戦前の日本の行為を賛美する気持ちはありませんし、反戦の立場であることを申し述べておきたいと思います。

日本と世界の近現代史は、意外と身近にあることを紹介したいのです。

さて、

それを踏まえて、じっちゃんの、この「鉄道旅行スタンプ帳(御朱印帳)」の1935年の年は・・・。

1935年(昭和10年)
満洲国皇帝・溥儀(ふぎ)は昭和10年(1935)4月に初来日した。

4月2日に大連を出発し、6日に横浜港へ上陸。汽車で東京へ向かい、昭和天皇は東京駅のホームで出迎えた。

馬場先門には奉迎門がつくられ、沿道には来日を歓迎する人々でいっぱいになった。

9日には代々木練兵場で観兵式が行われた。

昭和館デジタルアーカイブHPより

じっちゃんの日光と京都の4月7日~14日までの空白期間と、満洲国皇帝・溥儀の来日のスケジュールが妙に重なるのです。

あくまでも私の想像ですが、4月9日にじっちゃんが、東京市代々木練兵場(現在の国立代々木競技場・NHK放送センター付近)にいても、何の不思議な事でもないのです。

何故なら、じっちゃんは旧帝国陸軍の軍人だったからです。

亡き父の残した記録によると、じっちゃんは、1932年(昭和7年)の日本による満州国建国の年、12月24日から現・中華人民共和国 吉林省 長春市(当時は、満州国の首都で「新京」と呼ばれていました。)に単身滞在していました。

じっちゃんの「鉄道旅行スタンプ帳(御朱印帳)」の最初のスタンプを見ると、

新京駅 昭和10.3.14.

と、読み取れます。

その長春市での滞在期間中に、あの1か月にも及ぶ大旅行があったのです。

『(新京)新京駅の盛観』(京都大学附属図書館所蔵)部分
1939年出版


父の話と記録によれは、滞在中何度か日本に帰宅することもあったようですが、最終的には1939年(昭和14年)12月に、54歳で退職し長春より帰国しています。この時は7年間の滞在でした。

しかも、帰国の1939年(昭和14年)は・・・。

1939年(昭和14年)
第二次世界大戦の勃発と日中戦争の激化
、そして日本国内の戦時体制強化という大きな出来事が起こった年です.

1. 第二次世界大戦の勃発:1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発しました。

2. 日中戦争の激化:1939年1月には、中国戦線における第二次上海事変、和平交渉決裂、南京占領などの出来事がありました。
 徐州攻略、漢口・広東攻略、汪兆銘南京政府樹立など、日中戦争は激化しました。

3. 日本国内の戦時体制強化:第二次世界大戦の勃発に伴い、日本も戦時体制を一層強化しました。



満州建国のきっかけの事件の時にも 中国に滞在中

この7年間の長春市滞在の前にも、じっちゃんは中国の河北省 秦皇島市 山海関(天津市の北東 約240km)に1年間滞在していました。
1931年(昭和 6年6月6日)からちょうど1年間のことでした。

1931年(昭和6年)
柳条湖事件

1931年9月18日に起きたこの事件は、日本の関東軍が南満州鉄道の線路を爆破し、これを口実に中国軍への攻撃を開始した事件です。

この事件は満州事変の引き金となり、日本が満州国を建国することにつながりました。


このとき、じっちゃんの滞在していた山海関は、日本が一方的に建国した満州国との国境近くに位置し、軍事的要衝でした。

あくまでも私の想像ですが、じっちゃんは、満州国建国の背景となる歴史的事件を肌で感じていた可能性があります。

あの、万里の長城の最東端の場所が、この山海関なのです。

『万里の長城起点・山海関』(京都大学附属図書館所蔵)部分



旧帝国陸軍の軍人だったじっちゃん。日本が一方的に建国した満州国。

国際的に認められていない国の国境とされる入り口の都市での滞在・・・。

なんだか、謎めいてきました。

“ じっちゃんは 大陸で 何を思い どう生きてきたのだろう? ”




1931年(昭和 6年)に、もうひとつ気になる事件が、ここから約240kmほど離れた天津市で起こっているのです。

天津事件(1931年11月8日と26日)
この事件は、満州事変の中で発生した国際事件で、日本が溥儀を満州国の皇帝として擁立しようとした際に起きた暴動です。

この事は国際的な注目を集め、日本の軍事的拡張主義が批判されるきっかけとなりました。

暴動の鎮圧と結果:
日本軍は暴動を鎮圧し、暴動そのものは失敗に終わりました。

しかし、溥儀は満州へ脱出を果たし、中国保安隊は天津から撤退しました。

不思議なことですが、じっちゃんの足跡は国際的に認められていない満州国の建国や、溥儀の満州への脱出や来日と妙に重なっているのです。

単なる偶然なのでしょうか?


新たな偶然の発見

今回のじっちゃんの鉄道旅行を詳しく調べているうちに、新たに『満州國皇帝陛下接伴掛員必携』(1935年刊行)という、デジタルアーカイブを見つけ出しました。
(出典は記事の最後に記載しています。)

この必携(手帳)には、昭和10年4月6日から27日までの溥儀の初来日の旅程に関する全ての詳細が記されています。

溥儀が滞在した赤坂離宮(現在の迎賓館)
滞在期間:4月6日~14日



代々木練兵場での観兵式前日
4月9日の代々木練兵場での観兵式の前日、8日には満州国公使館(現在の千代田区永田町二丁目)で「在留満州国人奉迎会」が行われています。

この日も、じっちゃんが東京市に居ても不思議ではありません。

京都での宿泊
さらに偶然が重なります。『満州國皇帝陛下接伴掛員必携』によると、溥儀は4月15日から18日まで京都の都ホテルに宿泊していました。

じっちゃんの「鉄道旅行スタンプ帳(御朱印帳)」には、4月14日の京都桃山駅の駅スタンプがあり、4月18日の京都のスタンプもあります。

しかも、そのスタンプには「満州国皇帝陛下御来訪記念 京都」と記されています。これもまた、偶然の一致なのでしょうか?

神戸での滞在
さらにもう一件、溥儀は4月21日と22日に神戸の武庫離宮に滞在し、23日には神戸港から「軍艦比叡」に乗船して宮島に参拝後、大連へ向かって帰国しています。

御来訪記念切手(一銭五厘) 日光駅 昭和10年4月7日
 “ 軍艦比叡 ”
じっちゃんの「鉄道旅行スタンプ帳(御朱印帳)」より

じっちゃんの「鉄道旅行スタンプ帳(御朱印帳)」には日付はありませんが、神戸の湊川神社の御朱印が最後の12ページ目にありました。

武庫離宮と湊川神社は、同じ神戸市内で約6kmの距離に位置しています。

またもや、これも偶然の一致なのでしょうか?

じっちゃんの「鉄道旅行スタンプ帳(御朱印帳)」の謎は深まるばかりです。

しかし今となっては、この思いは、私の想像の範疇を越えることはできません。これ以上個人的に調査する術が見つからないのです。

歴史的な背景

長春滞在期間中には、蘆溝橋事件や日中戦争も勃発しています。じっちゃんの経験は、満州国の建国や溥儀の脱出といった歴史的な出来事と重なります。

じっちゃんの滞在中には、日中戦争やその他の重要な事件が発生しており、その状況を直接体験していた可能性を否定できなくなってきました。



題:草原返来迷人夏天  作者:官布
題名の意味:草原からの帰路は、夏の日に人を魅了する
(中国大陸の平和でのどかな夏を描いた 心和む作品ですね。)
愿 与 和 平 同 行 」 (平和を共に願います。)



旅の終わりと教訓

当時の切手ブームに乗って譲り受けた“鉄道旅行スタンプ帳(御朱印帳)”には、身近なところに戦前・戦中の深い歴史が潜んでいることを実感しました。

2025年、戦後80年、昭和100年という節目の年に、この視座からじっちゃんの“ 鉄道旅行スタンプ帳(御朱印帳)”を見つめ直すと、そこには深いメッセージが込められていると感じざるを得ません。

今こそ、日本や世界の近現代史を真摯に学び直すべき時ではないでしょうか。

これからの平和な世界を共に築き続けるために、私たち一人一人がその歴史を理解し、未来に生かしていく責任があります。

また、このようなとりとめのない長文・駄文にお付き合いいただき、心より感謝申し上げます。

この旅路が、皆様にとって歴史を考えるきっかけとなれば幸いです。


では、次回またお目にかかれることを楽しみにしております。

ありがとうございました。

出典:
関西大学アジア・オープン・リサーチセンター 
デジタルアーカイブ公開情報
『満州國皇帝陛下接伴掛員必携』 刊行年 1935年
(マンシュウコクコウテイヘイカセッパンガカリインヒッケイ)

記事の公開日: 2025年6月15日(日)
父の日」に設定させていただきました
9:01 AM JST (UTC+9)


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