【連載小説③‐1】 春に成る/天の珈琲

< 前回までのあらすじ >
自分には何もないと逃げ込むように入った喫茶店で、包み込むようなマスターと珈琲に出会い、少し前を向けた遥。

春に成る/緑の珈琲

※先に絵と詩をご覧いただく場合はコチラ

天の珈琲(1)


少しずつ暑さを感じるようになってきたけれど、今日も小雨がちらつく。そんな中、カフェ『ベル』へと足を運ぶ。最初入るきっかけとなった看板の前で足を止めた。縦に真っ二つに色が分かれているのは昼のカフェと夜のバーの意味があるんだと、何度目かに来た時に気がついた。お酒は苦手だから夜来たことはないけど、昼のカフェには、マスターが名前を覚えてくれるくらいには訪れていた。

「ああ、佐藤さん。いらっしゃい」

いつものベルを鳴らすと、マスターが笑顔で迎えてくれる。マスターは、鈴木聖司さんという名前だということも知った。鈴木だからお店の名前が『ベル』なんですと、少し照れながら教えてくれた姿が、可愛く思えた。

「今日はどうしますか?」

あれから、マスターにお任せすることが多かったけれど、ふと、最初におすすめしてもらった珈琲をまた飲んでみたいと思い、お願いした。

食器の音とゆったりとした音楽が流れる。

「あの、この前来た時、すみませんでした。閉店時間ギリギリだったのに」

「いえいえ、あの日は雨もすごかったですしね、雨宿りにもなって良かったですよ」

『ベル』は十七時閉店だから、平日の仕事終わりに行こうと思うとギリギリで迷惑をかけてしまう。だから、休みに行こうと決めていたのに、その日はどうしても、マスターの珈琲が飲みたかった。

「そんな指示してないよね、何してるの?」

部長は私が勝手なことをしたかのように言うけれど「そんな指示」を確かにした。周りの人も、もちろん聞いていた。こういう事は一度だけではない。色々な人が被害に遭っているが、言われた人も聞いていた周りも、誰も本当のことを口に出す人はいない。

口答えしたり、言われた人を庇おうものなら、ただでさえ長い話がどんどん長くなる。それだけじゃなく、役員とも繋がりがあるから、出世を考える人は怖いらしい。本人が謝って、時間が過ぎるのをただただ待つ。それが一番良い方法だと誰もが知っている。だから、声を上げたくてもできない。

分かっている。分かっているけれど、この納得できずに、一人だけ取り残されてしまった状態が、初めて『ベル』へ行く直前の私と重なった。『ベル』へ行ってから、少し前向きになって頑張ろうって思えたのに、何も変わっていない現状。見ないようにしていたけれど、今も取り残されたままだってこと、実感してしまった。

このまま、見るものが何もかも、嫌なリンク先にしか繋がらなくなるのは避けたかったけど、どうして良いか分からなかった。マスターの珈琲を飲んだ時のように切り替えたかった。マスターに会って、珈琲を飲みたかった。行くだけ、行こう。そう決めて、突き刺さるような雨の中『ベル』へと向かった。

着いたのは閉店五分前。これはもう迷惑になってしまうと諦めた時、ベルの音が鳴った。

「佐藤さん……?」

ベルを鳴らしたのはマスターだった。看板の前に佇む私を見つけて声を掛けてくれた。

「すごい雨なのに、来てくれたんですね。どうぞ、入って」

「あの、でも、もうお店終わりですよね?」

「そうだねぇ、でもすごい雨でしょう。ちょっと様子を見に出たんだけど、この雨ではねぇ。もう少し様子を見てから帰ることにするから、佐藤さんが良ければどうぞ」

結局、ご厚意に甘えてお邪魔することに。いつもの店内と変わりなく流れる音楽や食器の感じで、まだ片付け作業に入っていなかったようで、少しホッとした。

「お仕事の帰りですよね? お疲れ様です」

「そうです。すみません、どうしてもマスターの珈琲が飲みたくなってしまって」

「それは、嬉しいですね、何にしますか?」

「……珈琲はマスターにお任せします」

「お任せですね、かしこまりました」

マスターが珈琲の準備に取り掛かる。キッチンの音と音楽だけが響く。いつもゆったりと心地良いと思える音楽なのに、今日は肌に合わない感じがした。

「どうぞ、お待たせしました」

出されたカップを手に取り、早く飲みたくて、いつもより勢いよく口をつけた。

いつも見上げているような空が広がった。飲みやすくて、どこか安心するような珈琲だった。飲んだ後、大きく息を吐いた。

「……お疲れ様でした」

いつもの笑顔で改めて労ってくれる。珈琲を飲んで一息ついたおかげか、少し落ち着いた。お客さんだからとはいえ、いつも受け止めてくれる優しさに、改めて感謝の気持ちでいっぱいになる。その優しさに甘えて、弱音を吐いてしまいそう……ううん、これ以上、優しいマスターに迷惑をかけてはいけない。

「ちょっとしたことで、疲れたり、ヘコんだりしてちゃいけないですよね。みんなもっと頑張ってるんですし、私も頑張ります!」

こういう時に返ってくる、温かい声援である「頑張れ」さえ、本当は苦手。もう頑張っているのに……というのもあるけれど、それ以上になんとなく、勝手に一人で頑張れと、突き放されているような気がするから。

それなのに、自らその言葉が出てくるように振ったのは、もし、マスターが言ってくれたなら、苦手じゃなくなるかもしれないなんて淡い期待があったから。

「……頑張らなくても良いと思いますよ」

予想していなかった返答に、一瞬時が止まった。受け取った時、真っ逆さまに落ちていくような衝撃を受けた。見捨てられたかのような感覚になったけれど、声にはいつもの温かさがある。不安を抱えたまま、マスターを捉えて映し出す。

「頑張るんじゃなくて、もう少しだけ、踏ん張ってみてください」

「少しだけ……踏ん張る?」

「そう、あと少しだけ、踏ん張ってみるんです……なんて、私も他の人に言われたんですけどね。そう言ってもらえて、それならできるかもしれないって、心が軽くなったんですよ。そうしたら、せっかくだから日々楽しまないとって思えてきたんです」

確かに、頑張る頑張るって、自分で自分の首を締めるような感覚に似てるかも……でも『少しだけ踏ん張る』のは、やってみようって思えた。

珈琲を飲み終えてベルを鳴らすと、そこには柔らかなピンクの空が広がっていた。良かった、きっとマスターも濡れずに帰れる。焦らず、もう少し、踏ん張ってみよう。

そして、今日は休日。『ベル』に来る前に買い物をしていると、マスターっぽいと思った柄のタオルを見つけたから、その時のお礼も兼ねて、プレゼントしたいと渡した。

「そんな、気を遣っていただいて、申し訳無い……ですが、いくつになっても、プレゼントを頂けるのは、嬉しいものですね」

喜んでくれた笑顔を見ながら、一番最初におすすめしてもらった珈琲を飲んだ。美味しい……けど、こんなに苦味があったっけ? 前も苦味は感じたはずなのに、最初に飲んだ時とは違う印象に、少し驚く。そういえば、あの日の私にオススメしてくれたんだ。同じ珈琲でも、日によって違う印象になるんだ。

「このタオル、とても気持ち良いですね。有り難く使わせていただきますね」

そう言って微笑むマスターを見たら、美味しい珈琲ってことに変わりはないし、まぁいいかと、つられて笑顔になった。『ベル』にいる時間は、自然と笑顔になることが多い。お店を出ると同時に、次はいつ来ようかと、楽しみになる。

***

少しムスっとした横顔を見て、対照的に口角を上げて呟く。

「早くお義姉さん帰って来ないかなぁ……」

「パパ〜」という声を聞いてようやく口角を上げた横顔から、玄関に続く扉に視線を移した。


※「天の珈琲」が途中である為、絵は次回掲載します。

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☆次の話はコチラ

※見出し画像は、なみへい様の画像です。素敵な画像を使わせていただき、ありがとうございました。


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