忘れてはいけないこと。【FREE PALESTINE】世界難民の日にちなんで
こんにちは。ウララです。
6月20日は世界難民の日でした。
(書いているうちに日が過ぎていってしまった、、)
大学生の時は、毎年何かしらインスタのストーリーを上げたりしていたな。
例えばUNHCRの投稿をシェアしたりだとか。
というのも、私は大学で移民・難民問題、社会的マイノリティについて専門的に学んでいたから。
なぜこの分野に興味を持ったか、正確な理由はわからないけれど、なんだか小さい頃からマイノリティに目を向けるのは得意だったように思う。
ひとりぼっちの子が出るくらいなら自分が多少犠牲になってもへっちゃらだったし、みんなにどれだけ嫌われている子がいてもなんだか見捨てられなかった。
その子を理解しよう。筋が通らない話であってもその子の言い分をとりあえず聞いてみよう。
そう思っていた。
大学選びの時は「難民」ってどんな人たちなのかすらよくわかっていなかったけど、同じようにこの世界に生まれた人間の中で幸せに暮らせない人がいるというこの不平等さを許せない部分があって、そんなことを学べる私にぴったりの場所が見つかった。
それが獨協大学、外国語学部、交流文化学科。
エアライン業界を目指す人やツーリズムについて学びたい人が多い中で、私の学びの目的は難民についてだった。
私はそれまで全く歴史に興味がなかったし学んで何になるんだと思っていたくらいだから、世界情勢を理解するのにはとても苦労した。
でもそれがいつしか自分にとってのinterestingに変わって、何事も「自分の目で確かめたい」そして「人に発信したい」と思うようになった。
無知の恐ろしさ
私が大学で学んだ1番大切なことは「知る」ということ。
なぜなら、人は知らない人や物事を「怖いもの」としてみてしまうから。
中東は怖い。イスラム教は怖い。難民は怖い。
私も1人の人間としてこの世論を疑うことなく生きてきた。
物を知らずに何を言うんだ。
今の私はそう思う。
私は大学生の間、取れる授業は取れるだけ取った。
週一しか大学に行かずに楽する大学生活も良かったかもしれないけれど、私はどうやら「学び」が好きらしい。
学科の必須科目にプラスあらゆる言語を勉強し、英仏の教職課程を履修し、週4一限がまるで当たり前のような生活だったけど、何かを学ぶたびにみえる世界が変わり生き方が変わる。
学びがなくては、耳が聞こえない人を「変な人」と勘違いしてしまうかもしれない。
学びがなくては、生まれ持った障害と闘い生き苦しんでいる人を「変な人」と勘違いしてしまうかもしれない。
助けを必要とする人を逃さないために、「知る」ことは必要である。
大学を卒業してから、アカデミックな時間を作るのが難しくなってしまった。
自分のみえる世界が小さくなるのは怖い。
私は生涯、何かしらの形で「学び」を続けていきたいと思っている。
フランスの難民キャンプ
大学3年生の夏、初めての海外で私はフランスの北部、Calais(カレ)という街にある難民キャンプに行った。
それは日本人向けのボランティア募集でもなんでもなく、ある団体に直接連絡して何から何まで1人で行った。
自分にとってとても大きな挑戦だったけど、実際に目にしてみないとわからないことはやはりある。
憧れのフランスだからこそ行ってみたかった。
カレでの難民支援についてはまた別の投稿で話そうと思っているけれど、ここでも少し話そうかと思う。
カレで何が起きているのか
なぜCalais(カレ)に難民が集まるのかと言うと、それは英国(イングランド)を目指す人々の中継地点だから。
あと、おおよそ30kmの海を越えれば英国に辿り着く。
カレはそんな場所にある。

難民の方々が英国を目指す理由は、さまざまな言語が飛び交うヨーロッパの中で英語圏であること、且つ難民の受け入れが寛容だということが大きい。
また、すでに家族や親戚が移住しているからと目指す人も多い。
彼ら彼女らがどこからやって来るかというと、それは主に、アフリカ、中東、東ヨーロッパ。
自国・地域での紛争や迫害を逃れ、難民として受け入れてもらうために英国を目指す。
しかし、カレまで辿り着くことができるのは体力のある20代、30代の男性ばかりだ。
もちろんそれまでに亡くなってしまう人もいる。
カレで1日〜1週間程度野外でテントを張り寝泊まりし、その後自力で泳いだり、いかだやゴムボートを使ったりして英国へ向かっていく。
この英仏ドーヴァー海峡でいったい何人の人が亡くなっていることか。

命がけの渡英
私たちボランティアは難民キャンプに滞在する方々に食糧の寄付や、電気の供給、バリカンやヘアーカット用のはさみを貸し出したりする。
ゲームの対戦相手にもなる。
電気を流すと1番に駆け寄るのは携帯の充電コーナー。

目の前に広がっていたのは、今まで見たことのないとてもショッキングな光景だった。
「私なんかが泣いちゃダメだ。」とグッと涙を堪え続けた。
私が仲良くなったアルバニア出身の男の子(18歳)は、私が難民キャンプを離れた後、何度も何度も電話をかけてきた。
なんだか怖くて一度も応答しないまま、その2日後、私は飛行機に乗って日本へ帰った。
日本に着いて携帯を開くと「明日英国へ行くんだ」というメッセージが来ていた。
私は返信をしたけれど、もう遅かった。
しばらく彼からメッセージが来ることはなかった。
ドーヴァー海峡で亡くなってしまったのかもしれない、、
私は毎日毎日そのことで頭がいっぱいだった。
そして彼からの電話を無視してしまったことをものすごく後悔した。
一度限りとはいえ、この広い世界で出会った大切な人を失ってしまったわけだ。
ゼミで難民キャンプへ行ったことの報告をした際も、先輩を目の前に思わず涙が溢れ出た。
そこから2ヶ月以上経って日本でのいつもの生活に戻り、ある日ふと携帯をみると彼から連絡が来ていた。
「なんとか英国に着いたよ」と。
辛さを知る人はやさしい
私は翌年の留学中にも、再びカレの難民キャンプを訪れた。
学校の休みに合わせて2日間。
1日目はスーダンから来た人たちの集まり。
彼らの得意なゲーム、Dominosを一緒にやった。
私はルールを知らなかったけれど、優しい彼らが言語の通じない私に身振り手振りで教えてくれた。
気づいたら私と対戦するための列ができていて、何時間も彼らと対戦していた。
待っている人たちが私にコーヒーやクッキーを持ってきてくれる。

2日目、クルドやアルバニア、エリトリアの方々と出会った。
女性や小さな子どももちらほらいた。
雨が降るとブルーシートを上に持ちあげみんなで雨宿りをする。
私は彼ら彼女らのためにカレへ来たのに、みんなが私を気にかけ私が濡れないようにと中へ入れてくれる。
みんなの優しさに何度も感動した。
世間ではボランティアは自己満だと考える人もいる。
たしかに法律が変わらなければ根本的な問題解決には繋がらないかもしれない。
ただ、人間は心を持っている。
自分を支えてくれている人がいる。1人じゃないんだ。
少しでもそう思ってもらえるように、私が動かなくては。
そして自分の目で見たことを人に伝えなくては。
みんなが助け合う世界に繋がるように。
川口のクルド人問題
SNSの影響で、クルド人の存在を知る人は増えたように思う。
私は大学に入るまで耳にしたことがなかったけれど、川口市民で知らない人はいないという。
私の大学から川口は近い。
クルド人が経営するケバブ屋さんも多ければ、クルド人のための日本語教室もちらほら見られる。
クルド人問題がまだ深刻じゃない頃、私は日本でのクルド問題について学び始めた。
クルド人とは何者か
クルド人に「自国」はない。
主にトルコ、シリア、イラク、イランにまたがる民族である。

日本では特に、トルコで迫害を受けていたクルド人が難民として日本の埼玉県川口市に住み付き、そこで移民2世、3世と年々その数が増えていっている。
つまり、今小学生である子どもらのほとんどは日本生まれである。
生まれただけで追い出される存在とはなんなのだろうか。
生まれた子どもに罪はあるのだろうか。
世界的にみて難民認定率が圧倒的に低い日本という国で仮放免として暮らすクルド人たちに、就労は認められていない。
トルコで迫害を逃れてやってきたにも関わらず、難民として認めることもしなければ働く許可も与えずに、彼ら彼女らはどう生きたら良いのだろうか。
そして仮放免では入管の許可なしに埼玉県外に行くことはできないため、中には学校の修学旅行に参加できない子どももいる。
義務として定期的に入管を訪れたある日、突然長期の収容が始まることもある。
入管での収容は刑務所よりもひどく、いつまで続くかわからないまま暴行を受けたり医療体制が整っていなかったり。
入管職員への訴えとして断食(ハンガー・ストライキ)を行い、そこで亡くなってしまった方もいる。
クルド人の一部が野蛮な行動をしているというのは事実であるし、川口市民にとって迷惑だという言い分も十分にわかる。
クルド人とトルコ人を同じ人種としてみることは決してできないけれど、トルコを何度も旅してトルコ人と結婚した今、トルコに住む人々は日本人よりもかなり野生的でアグレッシブだということは言える。
そして日本国内での大事件はトルコ国内では頻繁に起こるちっぽけなことだったりする。
そんなところで暮らす、郷土愛が非常に強い人々だ。
正直に、日本という大人しい国で暮らすには目立ってしまう人がいて当然だろうと言える。
だからと言って、クルド人全員が全員そうというわけではない。
「クルド人」というだけで生まれながらに居場所のない人間がいて良いのだろうか。
「国に帰れ」という心のない言葉は何を示すのか。
彼ら彼女らにとっての「国」とはー
反クルドとの闘い
私のゼミは、毎年大学の国際交流フェスティバルの時にクルド人の方々を招いている。
クルド人女性がクルドの民族ダンスを披露したり、クルド人学生が演説をしてくれたりする。

私はゼミの課外活動として、クルド人向けの日本語教室に何度かボランティアに行ったこともある。
年に一度のクルド人のお祭り、ネヴロズにも何度か参加した。
こういったクルド関連のイベントに付き物なのは反クルドの存在だ。
「国へ帰れ」彼らはそう叫ぶ。
私はクルド人の友人と絡む中で、ある反クルドの川口市民との対立に出くわし、警察沙汰に巻き込まれたことがあった。
「お姉さん、学費払って良い大学行かせてもらってるのにこんな奴らとつるんで、残念だよ。親の顔が見てみたいよ。」
なんてことを言われた。
大ごとになるのを避け私は何も言い返さなかったけれど、悔しくて悔しくてたまらなかった。
この事件は私の中で少しトラウマチックになったけれど、それでも私は罪のない人から「幸せでいる権利」を奪うことは許せない。
人は個人としてはみなくてはならない。
何も知らずまま「クルド人は野蛮だ」というレッテルに流されてはいけない。
パレスチナを訪れる計画
パレスチナとの出会い

私のゼミの先生は、以前パレスチナを訪れ衝撃的な光景を目の当たりにしたことをきっかけにパレスチナの研究を始められた。
ゼミでは難民問題の他に、LGBTQ+やヤングケアラー、技能実習生など、あらゆる社会的マイノリティについて学んでいたが、先生は特にパレスチナ問題に力を入れていた。
学び始めた頃は、イスラエルとパレスチナがどこにあるのかも、そこで何が起きているのかも全く知らなかった。
大学に入るまで、歴史をまともに勉強してこなかったからだ。
どっちがパレスチナでどっちがイスラエルなのか私はよく混乱していたし、アラブ人だのユダヤ人だのよくわからなかった。
私たちのゼミでは、英国に統治されていた頃のパレスチナを舞台にした『The Promise』というある映画をもとに勉強することが多かった。
その他にも、パレスチナ人の自爆攻撃をメインに取り扱った『パラダイス・ナウ』という映画を観たり、ガザについて書かれた本を何冊も読み合わせたりした。
また、元イスラエル兵で国際平和を訴えるダニー・ネフセタイさんという方をお招きして講演会を行うこともあった。
私たちはたまたま日本に生まれてきたけれど、たまたまパレスチナに生まれた子どもたちは、私たちが想像できないほど過酷な生活を送っている。
どの映像もどのセンテンスも私の心を痛め、時に涙が出そうだった。
「自分の目でみてみたい」そしてそれを「日本で伝えたい」
日に日にその思いが強くなり、大学生のうちにパレスチナを訪れることが一つの夢になった。
1人で行くという選択肢もあったけれど、ゼミの先生がパレスチナに行きたい学生を募集しているところだったし、何度かパレスチナを訪れたことのある「大学教授」と行くほうが学びになるだろうと思った。
Messengerで4、5人のチャットが作成され、何となく日程を決めつつ、現地について調べたりした記憶がある。
私はその時留学中でフランスにいたけれど、なんとなくその話は止まってしまった。
そしてその数ヶ月後、2023年10月7日。
パレスチナとイスラエルの紛争が始まったー
私は何の学者でもないけれど、学んだ知識をまとめて無知の方々に少しでも知ってもらえたらと思う。
次回、パレスチナとイスラエルで何が起きているのか、一体何が原因なのか、詳しく話していきたい。
幸せに生きることのできる人が幸せに生きることのできない人を「知る」
それが世界を変える第一歩になる。
私たちが歩み寄らなくてはならい。
Free Palestine
