『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を補完するためのブックリスト
三宅香帆さんの『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)を読みました。
三宅さんの問題意識に共感するとともに、日本人の読書史と労働史からこの問いに答えようというアプローチが新鮮で、非常に発見の多い本でした。
一方で、読書史と労働史に絞ったことで(あえて)語られていない論点も少なくありません。というわけで、関係ありそうな本を再読。この本のおかげで、めちゃくちゃ読書が捗った! まさに「別の文脈」で読書できたからだと思います。
原田隆之『あなたもきっと依存症』(文春新書)
『なぜ働いていると~』のオビに「疲れてスマホばかり見てしまうアナタへ」とあるけれど、この問いへの答えは書いていないんですよね。結局のところ、「スマホには依存性があるが、読書には依存性がない」から本が読めなくなるのでは?
依存症には、薬物や酒、たばこなどの「物質の依存症」だけではなく、ギャンブル、オンラインゲームなどの「行動の依存症」もある。「依存症とは、不安から逃れられない人間が、その不安を紛らわせるための病」だそうで、象徴的なのはラットによるモルヒネの実験。孤独なラットはたちまち依存症になるのに、20匹入れるとモルヒネに見向きもしなくなるそうです。
モルヒネはそれ自体で強力な依存性を持つ薬物であるが、ラットが依存症になってしまうのは、薬物単独の作用だけではなく、そこに孤独や退屈などという環境的要因が加わっていたということだ。
そう考えると『花束みたいな恋をした』の麦くんも、単に長時間労働だっただけではなくて、自分の将来や絹ちゃんとの関係への不安がパズドラに向かわせた……のかもしれません。
山口周『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』(光文社新書)
「半身で働く」という結論は、労働と読書を切り離しすぎていると思うんです。本当に今って労働のために読書は不要な時代なんでしょうか。だって、ノイズ抜きの情報ばかり摂取する「ひろゆき的な人」なんて雇いたくないし、それこそAIに取って代わられませんか?
正しく論理的・理性的に情報処理をするということは、「他人と同じ正解を出す」ということでもあるわけですから、必然的に「 差別化の消失」という問題を招くことになります。
情報処理能力だけでは既存のシステムや価値観を疑うことができない。イノベーションを起こせないのです。そこで重要になるのが「美意識」というわけ。美意識とは「真・善・美」のこと。アートのセンスというより「倫理観」に近い概念です。
人間にとって何が「真・善・美」なのか、を知るためには本を読むことです。それも、自己啓発書や実用書より、哲学書や純文学のほうがいい。2017年の時点で、労働に文学は必要と明確に言い切った本として特筆すべき1冊でしょう。
上野千鶴子『情報生産者になる』(ちくま新書)
「読書はノイズ」という表現がどうも引っかかっていました。ネガティブな印象すぎるというか……。そうしたら、この本にも「ノイズ」という言葉が出てきました。
問題意識がないと問いは生まれません。情報論的には、ノイズをキャッチする感度と言い換えてもよいでしょう。ノイズとは、現実に対する違和感、疑問、こだわりのようなもの。自明性(あたりまえ)の世界で思考停止しているひとには発生しません。
『なぜ働いていると〜』では、「他者の文脈を知ること」が読書の意義とされていましたが、ややボンヤリしていると感じていました。でも「現実に対する問題意識を持つため」と言い換えると、すごく納得がいくし、さっきの「美意識」の話にも繋がります。
自分の経験を振り返ると、仕事で生まれた疑問を解くために本を手に取るときが、いちばん読書のモチベーションが高い気がします。アウトプットの形は別に論文でなくてもいいわけで、組織や社会に影響を与えるため、職場で「情報生産者になる」ことを目指せば、働きながら本を読めるかもしれません。
國分功一郎『目的への抵抗』(新潮新書)
読書が仕事のノイズになる、という現象をもう少し厳密に考えてみると、「目的」というキーワードに行きつくのでは? と思って手に取りました。自己啓発書は読めても小説は読めないというのは、単に忙しいのではなくて、仕事をしていると「何もかもが目的のために行われる状態」「すべてが目的のための手段になってしまう状態」に陥ってしまうからなのでは?
「半身で働ける社会」というコンセプトは、「仕事とは別目的」あるいは「無目的」な読書が許される社会」と言い換えられるかもしれません。読書を仕事に従属した「手段」から解放するということです。でも、國分さんはもう一歩考察を進めています。彼が道路計画の住民運動に関わったときのエピソードが示唆的です。
道路建設を止めるという目的のために運動は始まりましたし、僕もこの目的のために運動に参加しました。けれども、社会運動に携わることが結果として何らかの充実感をもたらすことは事実なのです。それはおそらくアーレントの言う通り、自分が自由に行為する場面があったからだろうと思います。
もともと「道路建設を止める」という目的のための活動だったけれど、活動そのものが楽しくなり、「手段と目的の連関」から解放された感覚があったそうです。國分さんは「真剣な遊び」と呼んでいますが、仕事のために読み始めた本でも、「目的によって開始されつつも目的を超え出る」ような充実した読書になることはありうるのではないでしょうか。
斎藤環『世界が土曜の夜の夢なら』(角川文庫)
日本人を「オタク」と「ヤンキー」に二分して分析した本。ここでいうヤンキーは「不良」よりもっと広い概念で、ホリエモンや箕輪厚介氏、『人生の勝算』の前田裕二氏、今なら石丸伸二氏あたりが当てはまるでしょうか。斎藤環さんは、ヤンキーの典型とみなす実業家・高橋歩氏の著書から「Belive your 鳥肌」などの名言(迷言?)を抜き出しこう評しています。
ひたすら繰り返されるのは、とにかく自分の好きなことを、アツさと気合で、やれるだけやってみろ、という行動主義だ。(中略)その一方で、全体の状況を冷静に判断し、緻密な予測と計算に基づいて行動するような姿勢は、一貫して軽蔑される。彼の言葉を借りるなら、判断よりも決断が大事、というわけだ。
映画『花束みたいな恋をした』は、要するにオタクだった麦くんがヤンキー化する話です。『なぜ働いていると〜』にも、結局世の中はヤンキー社会だから、オタクな私は距離を取るほかない、という諦めが根底にある気がします。
でも、『シン・ゴジラ』を思い出してください。日本を救ったのは巨災対のオタクたちでしょ! より正確にいえば、ヤンキー性を持つ官僚や政治家が研究者のようなオタク的人材を活かす、というモデルを提示した作品ではないでしょうか。だから、本を読むオタクは社会に必要です(尾頭ヒロミは全身全霊で働きながらめちゃくちゃ本を読んでいるはず)。そして、ヤンキーとオタクは正しく手を取り合うべきです。
おわりに
「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」という問いは極めてクリティカルで、まだまだ色々なアプローチで考察できそうです。「これも関係あるのでは?」という本、ほかにもたくさんあるはず。いろいろツッコミはありつつも、間違いなく次の読書に繋がるので『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』、まだ読んでない人には全力でオススメです!
