通勤って、普通に労働では?~私生活と労働の境目~
「会社に行くために必要な行動は、すべて会社のための拘束ではないか」。
この発想を突き詰めていくと、ある一つの世界観にたどり着く。
それは、労働時間と私生活の境界が消えた世界である。
朝、目覚める。
身支度は「業務に備えるための準備行為」である以上、すでに会社のための拘束だと言える。
食事をとる。
体力を維持しなければ業務に支障が出るのだから、これもまた労働の一部になる。
服を選ぶ。
社会人としてふさわしい身なりを整える行為は、業務遂行のための準備である。
そして通勤。
会社に間に合うように移動している以上、最も分かりやすい拘束時間に見える。
この論理を一貫させると、驚くべき結論に至る。
仕事のために生きている時間と、そうでない時間の区別が消える。
一日はすべて「労働の準備」か「労働そのもの」になり、
結果として、私生活という概念は形式だけのものになる。
しかし現実の社会は、この世界観を採用していない。
なぜなら、境界を消してしまうと制度が成立しないからである。
どこまでが労働か決まらない
賃金計算ができない
企業も労働者も責任範囲が無限化する
つまり、「すべてが労働」という世界は、理屈としては一貫していても、運用としては破綻する。
そこで通勤は労働ではなくなる。
しかし、通勤くらいは労働でもいいのではないか。
その考えはかなり自然だと思う。
実際、会社のために使っている時間であり、仕事に行くために必ず発生している以上、そこに対価が支払われても不思議ではない。
通勤経路も報告させている以上、むしろ実態としては「仕事の前段階」というより、仕事そのものの一部にかなり近い。
通勤時間は本人の自由というより、会社に行くという目的に強く拘束されている時間で、その意味では十分に労働として扱う余地がある。
通勤は本来かなり明確に「労働に含めて考えるべき領域」に近いと考える。
あとは制度上の都合で線が引かれているだけであって、理屈の流れとしては、むしろ労働として扱う方が自然だと言えるのではないか。
