人は、見続けた理想に似ていく——フィクションが現実の身体をつくるまで
最近、若い俳優やアイドルを見ていて、妙なことを思う。
この人たち、昔の漫画にいなかったか。
小さな顔に長い手脚。細い腰。髪まで含めた全身の輪郭。写真で決めた一瞬というより、ふと横を向いたときや、歩き出したときにそう感じる。
自分が十代だった1990年代、漫画の中には現実にはほとんどいない身体の人間が普通にいた。
頭が小さく、脚が長く、制服を着ているだけで妙に様になる。髪型も現実に持ち込めばかなり奇抜なはずなのに、その人物には馴染んでいる。
こちらも特段、それを不思議だとは思っていなかった。
まー漫画だからね。
そういうものだった。
現実の身体をそのまま描く必要はない。格好いいと思う部分だけ強くして、邪魔な部分を消せる。肩を広くしたり、顎を細くしたり、脚を長くしたりできる。
現実にいたら少しおかしい。
でも絵なら美しい。
その境界を、昔はもっとはっきり感じていた気がする。
それが最近、曖昧になってきた。
画面の向こうにいる二十歳そこそこの人間を見て、こちらが「漫画みたいだ」と思っている。
これは何なのだろう、としばらく引っかかっていた。
もちろん、三十年間で人間の骨格が漫画へ向かって進化した、などという話ではない。
そこではなくて、三十年という時間の途中にいた人間たちのほうが気になった。
あの漫画を読んでいた子どもたちは、その後どうしたのか。
大人になり、鏡を見るようになった。
自分で服を買うようになり髪型を決めるようになった。太れば気にするし痩せれば印象が変わることを知る。身体を鍛え、肌を整えて、写真に写った自分を見る。
そのときの「こっちのほうがいい」は、どこから来るのだろう。生まれた瞬間から身体の中に美意識が入っていたわけではない。ずっと何かを見てきた。
親の顔も街を歩く人も見た。
テレビも見た。
俳優も、ミュージシャンも、モデルも見た。
漫画も見た。
その中の何かに、十歳の自分が勝手に反応した。
「これ、格好いいな」
その程度のことだったはずだ。
ところが、その「格好いい」が二十年残ることがある。
私にとって、B'zの稲葉浩志さんはまさにそうだった。中学生の頃から見ている。
最初は当然、音楽だった。
でも、長く見ていると曲だけではなくなっていく。身体を見る。服を見る。髪を見る。
ライブでの立ち方を見る。
歌っていないときの顔を見る。
インタビューで話す声を聞く。
あれだけの出力をステージで出す人なのに、普段は妙に静かだな、と思う。
身体は強い。色気もある。派手な服も着る。
なのに、本人そのものが騒がしく見えない。
十代の自分は、たぶんその全部をまとめて「格好いい」と受け取っていた。
別に分析していたわけではないし、ノートに書いたこともない。
ただ何度も見た。何年も。
気づけば、三十年近くになる。
後になって、当時師事していた人から「君は彼に似ているよ」と言われたことがある。
何のことだろうと思った。
顔が似ているわけではない。稲葉浩志になろうとした覚えもないし、なれない。
ライブ衣装を再現していたわけでもない。
それでも、その言葉は残った。
今になって考えると、似るというのは、もっと細かいところで起きるのかもしれない。
どういう身体を美しいと思うか。
筋肉はどこまで付けたいか。
服にどれくらい存在感を持たせたいか。
男がずっと喋り続けている姿を格好いいと思うのか。
黙っている時間を持てる人を格好いいと思うのか。色気という言葉で何を想像するのか。
年齢を重ねた男性のどこを見ているのか。
そんなものを、毎回意識して選んできたわけではない。
でも、身体を作るときには何かを基準にしている。
服を買うときにもそうだし、鏡の前で「これは違う」と感じるときにも、すでに何かとの比較が起きている。
その比較対象の一つが、あまりに長い間こちらの中に置かれていた。
だから私は稲葉浩志さんに似たのではなく、稲葉浩志さんを見て反応した自分の部分を、長い時間かけて残してきたのだと思う。
ここは似ているようで、かなり違う。
憧れた相手をコピーしたのなら、どこかで無理が出る。
元々こちら側に何もなければ、長くは続かない。
何十年も残るものには、最初からこちらにも何かがある。
外にいた人物が、それを見つけやすくした。
「ああ、自分はこういうものに反応する人間なのか」
それが分かる。
ロールモデルという言葉には、少し模範解答の匂いがある。
私には鏡のほうが近い。
見ている相手の中に、自分がまだうまく説明できなかったものが映っている。
それを何度も見る。そのうち、こちら側の選び方が変わっている。
このことを考えていたら、最近の若い俳優を見て感じていた「漫画みたいだ」という違和感が、別の方向から見えてきた。
そもそも漫画の側も、現実を見て作られている。
ある時代の俳優。モデル。
ミュージシャン。
服。髪型。街にいる格好いい人。
それを描き手が拾う。
ただし、そのまま紙へ移すわけではない。
少し純度を上げる。
現実の身体にある不均一さを減らす。
特徴を強くする。現実の人間なら少し矛盾している要素も、一人の人物の中に同居させる。
こういう男がいたら格好いい。
こういう女性がいたら美しい。
現実で探すと十人に分かれているものを、一人のキャラクターに集めることもできる。
そうして現実から少し離れた人物ができる。
その人物を次の世代が見る。
格好いいと思う。
ここで終わらない。
二十年後、その世代が現実を作る側へ回る。
美容師になる。服を作る。
写真を撮る。メイクをする。
俳優を選ぶ。
アイドルをプロデュースする。
身体を鍛える。
あるいは職業とは何の関係もなく、自分自身の見た目を作る。
昔、紙の上で見た理想像をそのまま再現しようとしているわけではない。
もっと曖昧な形で残っている。
このくらいの脚の長さを格好いいと思う。
このくらいの細さが美しいと思う。
この髪の量感がいい。
この立ち方がいい。この表情に惹かれる。
そういう無数の「なんとなく」が、現実を少しずつ選別していく。
現実を材料にフィクションができる。
そのフィクションを見て育った人間が、次の現実を選ぶ。
そこで出来た現実を、また誰かが描く。
三十年も回せば、最初と同じ場所には戻ってこない。
螺旋のように少しずつずれていく。
たぶん私が今見ているのは、その途中なのだと思う。
しかも今は、昔より条件が揃いすぎている。
高校生でも世界中のモデルを見ることができる。
筋トレを始めれば、種目だけではなくフォームまで動画で見られる。
食事も調べられる。
肌のことも分かる。
髪も自分で研究できる。
服を着たら、その場で写真を撮れる。
正面だけではなく横も後ろも見られる。
歩いている自分を動画で見れば、「自分ではこう歩いているつもりだった」と「実際にそう見えている」は簡単に分離する。
これはかなり大きいことだと思う。
昔、人間は自分の背中をほとんど見ずに一生を終えた。
今は毎日でも見られる。
自分を外側から見る回数が増えた。
そして、気に入らなければ直す手段も増えた。
身体を変える。
髪を変える。
歯を変える。
肌を変える。
服を変える。
写り方を変える。
それを何年も続ける。
そこへ芸能界やSNSの選抜も重なる。
昔から、信じられないくらい顔の小さい人や、手脚の長い人はどこかにいたはずだ。
ただ、その人が地方の町に暮らし、芸能とは無縁の仕事をしていたら、私たちは一生知らなかった。
今は見つかる。
写真一枚で何万人に届く。
動画が回る。
スカウトされる。
人口の中に点在していた極端な身体や顔立ちが、以前よりはるかに可視化される。
だから「人間そのものが変わった」と感じるところには、実際に変わった部分と、以前なら見えなかったものが見えるようになった部分が混ざっている。
その区別は必要だと思う。
ただ、それでも残るものがある。
見続けることの影響だ。
私はホテルで長く働いてきたせいか、ホテルに入ると細かいところを見る。
照明。
スタッフ同士の距離。
声量。
グラスの置き方。
客の流れ。
別に採点したいわけではない。
勝手に目へ入る。
昔は気づかなかったはずのものが、今は気になる。
長く見たことで、自分の中の普通が変わった。
身体にも同じことが起きるのではないかと思う。
いい身体を長く見れば、身体を見る解像度が上がる。
いい服を見れば、以前なら気にならなかった数センチが気になる。
いい写真を見れば、光の違いが分かる。
何かを見続けるというのは、情報を貯めるだけではない。
こちら側の「これくらい」を動かしている。
そこが状態とつながっている。
人間は、自分が普通だと思っている場所から毎日選ぶ。
今日はどこまでやるか。
何を食べるか。
何を着るか。
誰と会うか。
どこへ行くか。
何に金を払うか。
どこで妥協するか。
何を見た瞬間に「違う」と感じるか。
その基準が変われば、選択の細部が変わる。
一日では何も起きない。
一年でも分からないかもしれない。
でも十年経てば、その差は身体に出る。
部屋に出る。
仕事に出る。
人間関係に出る。
話し方にも出る。
たぶん、佇まいというのは、そういう長い選択の残り方なのだと思う。
だから「何を見るか」を娯楽と呼んで終わらせるのは、少し惜しい。
何に長く触れていたか。
誰を見て育ったか。
どんな作品を繰り返し見たか。
その履歴は、履歴書には書かれない。
でも本人からは消えない。
中学生の自分が稲葉浩志さんを見ていたことも、当時はただ好きだっただけである。
三十年後の身体や仕事や美意識との関係など考えていなかった。
それでいい。
むしろ、そのくらい無意識だから深く入るのかもしれない。
漫画も同じだ。
子どもは「将来の自己形成のためにこのキャラクターを観察しよう」とは思わない。
ただ格好いいと思う。
好きになる。
絵を真似して描く。
髪型に憧れる。
そのまま忘れる。
二十年後、本人は忘れていても、選ぶものの中に少し残っている。
そう考えると、フィクションは奇妙な場所だ。
現実にまだいない人間を、先に置ける。
技術が追いついていなくてもいい。
社会がまだ受け入れていなくてもいい。
現実なら成立しない身体でも、服でも、生き方でも、とりあえずそこに立たせることができる。
そして、それを見た誰かが育つ。
気づけば、その誰かが現実のほうを少し作り替えている。
未来予測とは違う。
もっと回りくどい。
作品が人間の内部へ入り、その人間が十年、二十年生き、その途中で何千回も何かを選ぶ。
その結果として、昔は絵の中にしかいなかった人間が、ある日こちら側を歩いている。
最近、若いスターを見て感じていた既視感は、たぶんその長い時間まで含んでいる。
「あの頃、漫画で見た」
それだけではなかった。
あの頃、漫画で見たものを格好いいと思った人間たちが、ずっと現実の中で生きてきた。
私もその一人だった。
三十年もあれば、理想は紙の中だけには留まらない。
身体へ入る。
選択へ入る。
仕事へ入る。
美意識へ入る。
そして次の現実へ出てくる。
今のスターが漫画的になったのではない。
人間そのものが、自分自身を作品として編集する時代に入った。
