幕開け[第3話]
〈第1話・2話〉
・・・
チリン、チリン。
夏でもないのに、なんでいつもこのお店には風鈴があるんだろう、と高三の私が呟くと、駿介は迷わず、風鈴は癒しの音だからだろ、と答えた。
あの時と同じ音が鳴ったことに、少し驚いた。
「いらっしゃいま……」
花柄エプロンの店主が、奥からひょっこり顔を出した。目をまん丸に広げたまま、口元をマスクの上から抑えている。
「お久しぶりです、みつこおばちゃん」
「わあ! びーっくり! どうしましょ」
「ごめんね、驚かせて」
「嬉しいわあ。ささっ、奥の席に座って座って」
みっちゃんのパン屋さん。こじんまりとしたこの店は、私たちの秘密基地だった。多い時には週三で通ったと思う。焼きたてパンとスイーツが絶品で、試験前は奥のテーブルに教科書を広げながら、二人でよく勉強していた。みつこおばちゃんが東大出身だと知ってからは特に、塾のように通ったといっても過言ではない。多くの飲食店が閉店する状況の中、お店が変わらずここにあることが、何より嬉しかった。
「俺、カレーパンとブレンドで」
「ふふ、変わってないわね。千秋ちゃんはどうする? 季節のスイーツは杏のタルトよ」
「わぁ、じゃあそれで! あとは……」
「ミルクティー、だろ」
「お願いしますっ」
「ふふ。少し待っててね」
アンティークの椅子も机も、あの頃に比べて色は淡くなっていたけれど、確かに同じものだ。おひとつどうぞ、と書かれた皮付きの胡桃が、テーブルの隅に置かれている。
「これも、まだあるんだね」
私が言い終わる前に、駿介が胡桃を二つ手に取った。素手で割るにはコツがいる。片方の胡桃の硬い溝の部分ともう片方のへこんだ柔らかい部分を合わせて、両手でぐっと握る。駿介は慣れた手つきで胡桃を剥くと、半分をぽんと口に入れた。
「懐かしくて、涙出そうになるな」
「パン食べたら、号泣しちゃうんじゃないの」
「だな。最近事務所からパン禁止令出てたから、余計かも」
今日は私が許してあげるよ、と言うと、嬉しそうにくしゃりと笑った。その表情だけで、 如何に色々なことを我慢してこのバランスの良い身体が作り上げられているかわかる気がする。上半身はがっちりとしているのに、顎はシュッと細い。
もう一つの胡桃を二人で分け合いながら、このテーブルで数学のドリルをやったよね、古文がわからないとおばちゃんに頼ってた、なんて昔話に花が咲く。記憶というのは一人ではぼんやりと曖昧なままなのに、一緒に過ごした人がいると鮮明に思い出せるということに、初めて気がついた。
「お待たせ」
木のトレイに乗せられた焼きたてのパンと、珈琲の匂い。タルトは瑞々しい杏にシロップが綺麗にコーティングされていて、思わずほぉ、と声が漏れてしまう。
「そういえば、駿介くん。先月表紙に出てた雑誌、読んだわよ」
「うわっ、本当ですか、嬉しい。もしかして、あの思い出特集の?」
「そうよ。二冊も買っちゃった」
「でも、おばちゃんなら見てくれてるかなって、信じてました」
「あのインタビュー読んで、泣いちゃったわ……」
おばちゃんは鼻をすすりながら、駿介の肩に手を置いた。
「それにもう、会えないと思ってたから……」
駿介は動揺することなく、大きな掌を重ねた。まるで、おばちゃんが泣くことをわかっていたような表情に見えた。
「あの頃、家帰っても親は仕事でいなくてさ。おばちゃんがいなかったら、俺、絶対グレてたし、東大なんて行けなかったと思う」
「それは違うわ。あなたの実力だもの」
駿介はおばちゃんの言葉をゆっくりと受け止めながら、首を振った。
数秒の沈黙が、ひどく長く感じられた。
「今更過ぎるかもしれないけど……今日は、あの日言えなかったことを言いに来たんだ。本当に感謝してます。俺の居場所を作ってくれて、ありがとう」
二人が優しい目で微笑みあっているのを見て、心がじん、と震えた。杏とカスタードクリームが、口の中で静かに溶けていく。
それから駿介はソーセージロールと苺デニッシュまで追加して、時折おばちゃんが手があく時間は一緒にテーブルを囲み、二時間も滞在してしまった。
ここは俺が出すから、と駿介が奢ってくれた。店を出る時に、おばちゃんがお土産に持たせてくれた五つの胡桃は「絶対また来てね」という言葉と一緒に、大切に大切に鞄にしまった。
「雑誌の企画で、思い出の場所と感謝したい人っていう質問があってさ。高校の頃に通ったパン屋、って答えたんだ。店の名前も出さなかったから、読んでくれてるかは、ちょっとした賭けだったんだけどな」
「読んでくれてたね」
実は私も先月本屋でその雑誌を読んでいた。それがみっちゃんのパン屋さんだということを知っているのは、きっと私だけだと思った。けれど、なんとなく、今は読んだことは黙っておこう、と思った。
私はもう「次はどこへ行くの」と聞くのはやめた。駿介の考えがわかり始めていたし、知らない方が面白いと思ったからだ。結末がわからない舞台や、コンサートが始まる前の、 あの高揚感に少し似ている。
思い出の場所にふらりふらりと寄りながら、さいたま新都心駅方面へ向かう。私たちの足取りは、少しずつ、でも確かに軽やかになっていた。校舎の近くにあった文房具屋、チェーンのハンバーガー店、緑色のベンチ、初めてキャッチボールをした小さな公園。一つずつ巡るたび、まるで高校時代にタイムスリップしたかのような感覚に包まれた。
それから、閉店時間が近い駅前の大きな本屋へ行くことにした。駿介は懐かしそうに目を細めながら、一直線に参考書コーナーへ向かうと、東大の赤本をペラペラとめくっている。駿介は、本当に頭が良かった。それなのに、学年一位であることを偉ぶるわけでも、運動や行事を疎かにすることもない、完璧な学生だった。現役で東京大学に入学するだけでも凄いのに、学生の間に芸能界に入っても、四年できっちり卒業したのだという。その事実を改めて思うと、隣に立っている自分がひどく情けなく思えた。
「私、もうひとつ行きたい所があるんだけど……寄っても良いかな」
「おう」
駿介も、どこに行くのかとは聞かなかった。同じことを考えているという確信も、ほんの少しだけあった。
昔に比べて広く整った駅のデッキや、人がまばらなけやき広場を通り過ぎる間、私たちは一言も喋らず、ただひたすら前だけを見て歩いた。
夕方のほこすぎ橋はとても静かで、穏やかな空気が流れている。あの頃と何も変わっていない。隣にはさいたまスーパーアリーナがそびえ、橋の下はJRの線路が何本も走っている。絵の具で描かれたような鮮やかな夕空の下、しばらく私たちは何も話さないまま、ただそこに佇んでいた。まるで、今自分たちがここにいることを噛みしめるような時間だった。
「今日は、ありがとな。俺のわがままに付き合ってくれて」
周囲に人がいないことを確認すると、駿介は白いマスクをそっと外す。丁寧に二つ折りにしたそれをポケットにしまうと、私がもたれていた手摺りのすぐ隣に並んだ。駿介のシャツが、ワンピースに少し触れる。ただそれだけで鼓動が伝わってしまいそうな気がして、私は反対側にそっと身体を寄せた。
駿介が大きく息を吐いた。
「俺、実はさ……今の仕事辞めようかなって、迷ってたんだ」
心臓がドクン、と鳴った。
冷静を装ってうん、 とだけ返事をする。横を見ると、短いシャツの袖に顔を半分埋めながら、目だけは真っ直ぐ東京方面を向いているように見えた。
私が知らない場所で、どれだけ大変なことを乗り越えてきたのだろう。
どんなに寄り添いたくても、どんなにわかってあげたくても、あの頃とは違う。今隣にいるSYUNには、届かない気がしてしまうのだ。
「海外のエージェントと契約して、来年から世界ツアーを始めましょうって、事務所のスケジュール表にいろんな国が追加されるのを見てたらさ……ある日、背中がぞわっとしたんだ。俺は確かにSTARSとして活動してきたけど、本当にこのまま進み続けていいのか。迷いながらこの大船に乗っていいのか。四人がこれから頑張ろうって時に、俺だけがこんなことを考えてていいのか。皆に迷惑をかけるだけじゃないのかって。そう思ってたらさ、コロナのパンデミックになったんだよ」
橋の下を、湘南新宿ラインが勢いよく走っていく。各駅停車から、急に無理矢理快速急行に乗せられたような気分だろうか。芸能の端くれを知っている私は、この例えがどんなに浅はかかわかっていたけれど、少しでも自分事に置き換えたくて、必死に頭を回転させる。
「そうしたら、今度はびっくりするくらい暇な時間が増えてな。他の四人は、次の曲を作ろう、イベントしようって前向きな話してるのに、俺、何も言えなかったんだ。時間ができたことで余計色々考えちゃってさ……らしくねえよな」
声をかけたいのに、うまく言葉が出てこない。
「一ヶ月位前かな、リーダーの光輝と社長に、辞めたいって話したの。そしたら、二人とも意味わかんないくらい泣いてさ。俺が言いたいこと、その場で全然言えなくなるくらいに」
駿介の物憂げな瞳が、空に向けられる。右の眉をキッと上げて、唇を一文字に結ぶ。私はたまらなくなって、駿介の左手をきゅっと掴んだ。駿介は目線を合わせないまま、同じ位の強さで握り返してきた。
「それから数日経って、二人から提案されたんだ。仕事のことは忘れて、まずは一ヶ月、ゆっくり過ごしてみろって。家族や会いたい人に会って。自分が楽しいこと、安らげること、やってみたいこと……とにかく今はSYUNじゃなくて、箕島駿介として生きてこいって」
気がつくと橙色の夕日は沈み、辺りはすっかり夜の色に包まれていた。さっきより少しだけ穏やかになった声色を確認してから左手の温もりをそっと離すと、橋の手摺りに背中を預けたまま、駿介と向き合った。
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