ひまわりのビール売り
高校生くらいまで、ずっと「美人になりたい」と思っていた。
顔が整っていれば、メイクも映えるしどんな服でも似合う。自己肯定感も上がり、人の目を気にすることなく、いつも笑顔で、男女問わず色々な人からモテるはずだと。けれど、美しさというのは、顔が整ってさえいれば良いわけではない。それに気づかされたのは、大学時代のビール売りのアルバイトがきっかけだった。
「生ビールいかがですかー!」
華やかなユニフォームを身に纏い、大きな声で呼びかける。階段の一番下まで降り、グラウンドを背に、客席に向かって一礼してから販売するのがルールだ。軽やかに階段を上がっているように見えるかもしれないけれど、背負っている樽の重さは10キロ以上ある。
「今日も頑張ってるねー!2杯お願いね」
「はーい!ありがとうございます!1600円になります」
肩にかかったホースを外し、左手のカップに一気にビールを注ぐ。ふわふわの泡が黄金比になるよう、泡の量は最後に調節する。何杯も注いでいると、カップを見ずとも綺麗な黄金比が作れるようになり、注ぎながらつり銭の準備をしたり、次のお客様を目で探したりする。売り子は結構マルチタスクなのだ。左手には、カップだけでなく千円札を何枚も挟む。何よりスピードが重要なので、ポーチに入れるより挟むだけの方が効率が良い。常連さんはそれをわかっていて、丁寧に半分に折りたたんだお札を持たせてくれる人もいた。
「今日も8ウラまでなので、次は3回裏くらいに来ますね」
「よろしく頼むよー!」
呼びかけからビールの提供までは、数十秒。観戦の邪魔をしないようできるだけテキパキ動くけれど、野球好きな私はついついお客様との会話を楽しんでしまう。そんなことを繰り返しながら約2時間半、階段を上り下りしながらビールを販売し続けるのがこのアルバイトの内容だ。
売り子の給料は、歩合制である。ゆえに、それぞれの売上杯数は事細かにランキングとなって日々可視化される。その順位によって、次の試合の販売物や場所にも影響があり、さらに私が所属していた会社は、授業で休むと前日の杯数がリセットされるような仕組みもあったので、なかなか厳しい世界である。
私が野球を好きになったのは、小学3年生の時だ。母に連れられて初めて観に行ったプロ野球が、その後の人生を大きく変えた。
初めて野球を観た日、ホームランを打った選手がいた。大きく弧を描いたボールが私たちのいるスタンドに入ると、これまで感じたことのない熱気と歓声が身体を包む。金管楽器の応援団に、肩を組むサラリーマンの大合唱、タオルを振り回す大勢の観客。お祭り騒ぎのライトスタンドの中から見上げたバックスクリーン。そこに映る彼の背中はあまりにも冷静で、颯爽と走る姿に引き込まれた。
「ホームラン、やったねー!!」
ポン、と弾けるような明るい声。
ふと振り向くと、少し前に母が買ったビールのお姉さんが立っていた。えんじ色の帽子に、かわいいショートパンツ。にこっと白い歯をのぞかせた笑顔は、帽子に飾られたひまわりよりも、うんと華やかで綺麗だ。
「私も、お姉さんみたいに…なれますか?」
自分でもびっくりするほど、自然と口から出た言葉だった。母も目を丸くして顔を覗き込んでくる。
「えーっ、そんな風に思ってくれるの? 嬉しいなあ。絶対になれるよ! ビールは重くてちょっと大変だけど、野球が好きなら、この仕事は絶対に楽しいよ」
私の頭にぽんと手を置くと、上のお客さんに呼ばれて、お姉さんはすぐに行ってしまった。
初めて野球を知った日、私はひまわりのお姉さんになる、という小さな目標ができた。
あれから中学生、高校生、大学生になっても、私の1番の趣味はずっと野球観戦だった。あの時とは比べ物にならないくらい、野球にも詳しくなった。大学生になり、すぐに私は売り子のアルバイトに応募をして、運良く採用してもらうことができた。
けれど、現実はそう甘くない。私はお金を稼ぐことが1番の目標ではないとはいえ、売上杯数が伸びないと、やっぱり悔しい。頭で考えて工夫をしても、翌日ものすごく売れるわけではない。突然可愛くなれるわけでもない。勉強みたいに、努力が結果に直結しない。突然新人の子が入って、ポンと順位を抜かされたりもする。日に日に悔しさは虚しさに変わり、授業も忙しくなってきた頃、「もう辞めようかな」と思った時期がある。
それでも、私は売り子を辞めなかった。理由は、野球が好きだったこと、そして野球好きな大切なお客様と出会ったこともあるけれど、それ以上に売り子のみんなが好きだったから、というのも大きい。
「ビールの売り子のお姉さん」は、本当に美しい人が多かった。ミスコンで受賞するような人やアナウンサーの卵、アイドル活動をしている人、そうでなくともすれ違うだけで振り向いてしまうような美人も、わんさかいる。私みたいに野球好きで採用されるケースは稀なのだ。
美しいお姉さんたちは、強い。心が強いということもあるけれど、努力する意志、美しくいようとする姿勢、自分自身を高める向上心、場の空気を明るくする力。裏では、体調不良で顔色が悪そうにしていても、販売時間になればそんなことを微塵も感じさせないくらい満面の笑顔で仕事をこなす。全然売れなかったと大泣きしていた人が、翌月ものすごい杯数記録を作っていたこともある。それから、素直な人も多かった。良いことだけではなく、悲しい時は悲しい、つらい時はつらい、助けてほしい時は助けてほしいと他人に頼ることができる。そんな彼女たちの姿に、新たな美しさを見つけ、私は憧れた。皆みたいになりたい、と強く思った。
ある日、私がビールの販売をした日。前日の夜中までテスト勉強を詰め込んだこともあり、販売開始2時間後に体調不良になり、リタイアしてしまったことがある。ビールを販売できる売り子の人数は限られているのに。私が穴を空けてしまった。どうして体調管理ができないんだ。今日頑張れば明日もビールを売れたのに。前半はこの前より調子が良かったのに。常連さんのところに行くって約束していたのに。私はだめだ。皆みたいにできない。考えれば考えるほど悔しさが増してきた。情けないが、限界まで使った足の筋肉も痙攣を起こし、裏の精算所の近くでタオルに顔を押し当てて座っているしかなかった。
気づけば販売時間が終わり、売り子たちが続々と精算所に並び始める。隅っこでうずくまっている私はきっと不自然だったはずだ。
「大丈夫?お茶持ってきたよ」
「体、冷えてるね。大きいタオルもってきて!」
「徹夜明けなのによく頑張った!」
「これ、さっきもらったお菓子。あとで食べなね」
「動ける?あっちまで一緒に歩こ」
自分たちもとても疲れているはずなのに、優しく声をかけてくれるお姉さんたち。何も言わず頭にポンと手を置いてくれる先輩も、心配そうに声をかけてくれる後輩も、寄り添ってくれる同期も。あの時の私は、本当にみんなに救われた。そしてまた、美しさの違った形を垣間見ることができた。
初めて球場で出会ったお姉さんが帽子につけていたひまわりの髪飾りは、私の憧れだった。花飾りの大きさや色は、売り子によって違う。球場で常に動き回る売り子たちの中から目当ての子を探すのに、花の色や形は大きな目印になる。それ故、よっぽどのことがない限り、花は変えない人の方が多いと思う。もし自分が売り子になったら、あのお姉さんみたいに大きなひまわりをつけようと思っていた。けれど、私は2年、3年と売り子を続けても、あのお姉さんみたいな素敵な売り子になれている自信がなく、ずっと小ぶりなピンク色の花飾りをつけていた。それでも、しっかり気づいてくれるお客様はいて、それを目当てに見つけてくれたり、野球の話ができることは本当に楽しい時間だった。
大好きな球場で、大きな歓声の中で、尊敬する皆と売り子を続けられていること。そのことが、とても幸せだった。周りの皆に比べると、情けなかったかもしれない。売上は伸びなかったかもしれない。小さい一歩だったかもしれない。華やかなオーラのある売り子ではなかったかもしれない。けれど、みんなと一緒に売り子として働き抜いたということ自体が、私にとって大きな自信になった。
大学4年になり、自分にとって最後の売り子の3連勤。初めて、ひまわりの造花をつけた。誰にも言わなかったけれど、小学3年生の頃に憧れたひまわりを、どうしてもつけてみたかったのだ。
裏口の守衛さんに挨拶をして、バタバタと出勤する。受付で今日の番号カードを取り、ユニフォームと帽子、ポーチを1つずつ取り、ロッカールームへ向かう。隅っこのいつもの番号に私服を畳んでしまい、タオルを胸元と腰に仕込む。待機場でみんなとぐうたら喋った後、裏口を通って待機場に向かう。空カップの数を数えながら、釣り銭のビニールを破ってポーチに入れる。スタッフさんから今日の注意事項を聞く。皆と話をしながら靴下の長さを整えたり、準備運動をする。少しずつボルテージが上がる球場の音を感じつつ、売り場ごとのチームに分かれて並ぶ。スタッフさんたちが揃えたビールの樽を、順番に背負う。それぞれのコンコースの入口で、合図を待つ。
スタッフさんのQ出しで、私たちは一斉に客席へ飛び出す。一気に世界が開ける。何度味わっても慣れない、ピリッとした緊張感。試合が始まる前の、このワクワク感。客席から感じる圧倒的な熱気。これが最後になるんだという寂しさ。いろいろな感情がぶわっと体を駆け巡った感覚を、私は一生忘れられないと思った。
最終日は、常連さんが遠くの席からわざわざ私の売り場まで買いに来てくれたり、家族や学校の友人たちも駆けつけてくれたことが、有難かった。特に常連さんたちには、この3年半のお礼を一人一人に直接伝えることができ、これで本当に引退なんだなと、実感が湧いてきた。
「すみませーん!こっちもお願いします!」
3回裏、ちょうど味方の攻撃が盛り上がっている頃、一塁側上段にいたファミリーのお父さんから呼びかけられた。話を聞くと、数か月ぶりの観戦なのだという。私はいつものようにビールを注ぎ、800円を受け取った。
「楽しんでくださいね!」
お釣りを渡しながらそう声をかけ、次の客席を目指そうと振り返った時。
「ひまわりのおねえさん、がんばってね」
後ろから、ちいさな声がした。驚いて振り向くと、お父さんとお母さんと一緒に、女の子がにっこり笑って手を振ってくれていた。私は精一杯の笑顔で手を振り返しながら、初めてあのホームランを見たときくらい、心が震えていた。
私は、この時はじめて、自分を売り子のお姉さんとして認めてあげようと思えた。
あれからもう10年以上が経つ。
楽しいことも、嬉しいことも、苦しいことも、悲しいことも、それなりに経験してきたと思う。大学を卒業し、社会人になり転職も経験し、今まで出会ったことのない人たちとの接点もあった。
けれど、私にとっての憧れは、ずっと変わらず「売り子のお姉さん」たちだ。一人ひとり、帽子につけていた造花のように個性は違うけれど、外見だけでなく内面も、常に高みを目指して努力し続ける。他人に優しく、柔らかくも華やかに輝き続けているみんなのことを、今でもずっと尊敬している。
目を瞑れば、いつでも私は大好きな球場の、あの瞬間に戻ることができる。振り向けば、売り子のみんながいる。どんなに辛いことがあっても、私は大丈夫だって思える。
「生ビールいかがですかー!」
樽は重くて、ふくらはぎは筋肉痛で、汗だくで。でもどうしようもないくらい幸せで、笑顔で仕事をする自分が、大人になった私の背中を誰よりも押してくれる。
引き出しの奥からひょこっと出てきた、ひまわりとピンクの造花。1回しか出番がなかったひまわりも、3年以上現役でクタクタになった花飾りも、どちらも大切で、私らしい。
ふたつの懐かしい花飾りを手にしながら、そんなことを思った。
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