「TAP BAR 10」色彩のバーテンダー 〈2. 漆黒のスタウトと仮面の花嫁〉
◀︎前のお話
2. 漆黒のスタウトと仮面の花嫁
「この手で殺すためにね」
彼女が放ったその一言で、湿った店内の空気がピリッと張り詰めた。壁の古時計が刻む音だけが、やけに大きく響いている。
「……っ」
短く息を呑む音。
横のキッチンにちらりと目をやると、トマトを切り分けていた豪が、ナイフを握ったまま固まっている。整った顔は、絵に描いたように引きつっていた。まあ、無理もないだろう。
真琴の意識は、カウンターの向こうで激しく明滅する「色」に向けられていた。
彼女から吐き出された言葉は確かに鋭い。けれど、目の前で揺れる色の混ざり方には、妙な違和感がある。
(……おっかしいなあ。誰かを殺したいほど憎んでる人の色じゃないんだよね)
のたうち回る紫と、その奥に滲むどろりとした血液のような赤。けれどそれは、外へ放たれる怒りとは決定的に違う。鋭い光を欠き、どこか重く、歪な形をして彼女自身を侵食している。何より異質なのは、その中心だ。今にも消えそうなほど白く、虚ろに透けている。それはまるで、すべてを諦めた人が最後に纏う、死装束のような白だ。
「豪。仕上げは、私がやるから」
「え、あ……はい! お願いします」
カウンターの端に置かれた小皿へ手を伸ばす。切り分けられたばかりのトマトとモッツァレラ。大きさも形も丁度良い。そこに岩塩のミルを回すと、オリーブオイルを一筋、繊細に垂らす。
「……披露宴へ乗り込みに。それは、ずいぶんと大胆な復讐ですね」
彼女は鼻で笑うと、小さく肩を揺らした。
「元々は、高校の演劇部仲間だったの。ご丁寧に、当時のメンバーは全員招待されてたわ。きっと、私だけ露骨に外したら体裁が悪かったんでしょうね。あいつの誠実さを証明するための、アリバイ作りみたいなもの」
「アリバイ……ですか」
「そう。でも、周りから見たら、惨めな女だったはずよ」
グラスの縁を指先でなぞりながら、彼女はぽつりと続ける。
「長年付き合って婚約破棄された元カノが、のこのこ披露宴に来たんだから。でも……私がどれだけ傷ついたかなんて、みんな知らないもの」
真琴は、純白のマーメイドドレスへ静かに目を向けた。
「それで、敢えてその真っ白なドレスを選ばれたんですか」
作業を続けながら尋ねると、彼女がこくり、と唾を飲む音が聞こえた。
「そう。招待されたなら、客として振る舞う義務があるでしょう? だから、精一杯の礼儀として、あいつらと同じ色で乗り込んでやったの。最高の余興だったわよ。このドレスで会場に現れた瞬間、空気が一変するのが分かったわ。みんな、きっと私が狂ったと思ったでしょうね」
彼女は自嘲気味に笑うと、右手でグラスを弄んだ。真っ白なネイルが、薄暗い店内で鈍く光って見える。
その光に添えるように、出来上がった皿をそっと滑らせた。
「こちら、お通しです」
「……お通し?」
「はい。さっき届いたばかりのトマトを使った、カプレーゼです。苦手ではありませんか?」
「ええ。いただくわ」
彼女は長い人差し指と親指を使って優雅にフォークを取ると、トマトを一切れ、口に運ぶ。
ひんやりとした瑞々しい香りが、カウンターのこちら側までかすかに漂ってきた。こくり、と喉が小さく動く。
「……おいしい」
一瞬、彼女を覆っていたどろりとした紫色の澱が透き通った。静かな空のような、混じりけのない澄んだ青。
けれど、それも数秒。爆ぜるような赤と重苦しい紫が、再び彼女を飲み込んでいく。
「お口に合ってよかったです。きっと、披露宴でおいしいものを召し上がったでしょうから、少しさっぱりしすぎかもしれませんけど」
「……確かに、あのホテルの料理は絶品だったわ。本当に」
手元で新しいリネンを広げながら彼女のグラスに目をやると、琥珀色のペールエールは、まだ半分ほど揺れている。
「そのドレスで乗り込むなんて、それだけでも、かなりの勇気が必要だったでしょう」
「……まあね。でも、白を着ない、露出を避けるっていう結婚式の定番を全部覆せば、それだけで復讐になるんじゃないかって。そう思ってから、ドレス選びも、身体づくりもしたわ」
彼女は自嘲気味に口角を上げた。
「憎しみを燃料に自分を磨くなんて、我ながらどうかしていると思うけど。でも、最高の気分だった。あの男の隣で、真っ青な顔をした女に見せつけてやったんだから。そのウエディングドレス、私の方が似合うわよって」
そう言うと、ふっと視線を落とし、皿に残ったオリーブオイルをフォークでなぞる。
「まぁ、さすがの私も、最後までいるつもりはなかったわよ。でも、これだけは、って最初からひとつだけ決めてたことがあるの」
真琴は彼女の表情を眺めながら、小さく首を傾げた。
「ブーケトスのブーケを全力で奪い取る……とかでしょうか」
「それも良かったわね」
彼女は愉快そうに目を細めてから、少しだけトーンを落とした。
「正解はね、メインディッシュまでは食べてやろう!って思ってたの。だって、一流ホテルでの披露宴でしょ。あんなに高級な鴨のロースト、あの男が払うにしろ、新婦や親が払うにしろ、私の血肉にしてやらなきゃ気が済まなかった。だから、メインが運ばれてくるまでは、優雅にワインを飲んでやるって」
まるで勝利宣言をするように胸を張る彼女。その態度とは裏腹に、背後の色は一ミリも動じない。
成功の美酒に酔うどころか、冷たい泥の中に足を取られたまま、必死に胸を張っているような。そんな痛々しいアンバランスさが、真琴の網膜をチリチリと焼いた。
「お味はいかがでしたか」
「最高よ。それはもう、今まで人生で食べてきた中でも一二を争うくらいにはね。でも不思議。思いだそうとすると砂を噛んでいるみたいな気分になるの。なんだか、ずっと喉が渇いてるような……だから、ここに来たのかもしれないわ」
チューリップグラスには、まだほんの少しビールが残っている。
「では、そんな渇きを優しく潤す、おつまみをお出しします。ナッツとはちみつは苦手ではないですか?」
「ええ。好きよ」
「承知いたしました。少々お待ちください」
カウンターのガラス棚から小さな器をひとつ取り出す。
バーナーで軽く炙ったアーモンドとカシューナッツを器に盛りつける。そこへ愛媛産のみかん蜂蜜を細く垂らすと、最後にすり胡麻をひとつまみ。簡単だが、豪もお気に入りのおつまみレシピだ。
「お待たせいたしました。ローストナッツのみかん蜂蜜がけです」
「へぇ。ワインのおつまみみたいね」
「意外とビールと合うんですよ」
彼女が一つ、ナッツを口に運ぶのを待つ。
カリッという香ばしい音を聞きながら、カウンターの下に視線を落とし、真琴は独り言のようにポツリと話し始めた。
「……ここからは、ただのバーテンダーの独り言だと思って聞いていただきたいのですが」
「ええ」
彼女は首をかしげると、覗き込むようにこちらを見上げる。照明の下で強調されたきついアイラインの奥に、ふと、素顔の目元が透けて見えた。
(メイクで大人っぽく見えるけど、この人、素顔は案外かわいいタイプなのかも)
「私、学生の頃、野球場でビールの売り子をしていたんです。先日、当時のメンバーで集まる機会がありまして」
手元のリネンをゆっくりと動かしながら、懐かしむように目を細めた。
「売り子さんって、大変よね。何ていうの、背負ってるあれ、すごく重いんでしょう?」
「満タンの樽とホースも入れると、大体10キロくらいでしょうか。汗だくで階段をひたすら上がったり下りたりするんですよ。まぁ、当時はまだ若かったので」
「それでも重いでしょ。今でもまだ仲がいいなんて、素敵な関係ね」
「今はもうみんな引退してバラバラの道を歩んでいますが、私を含めて何人かは飲食関係の仕事に就いています。そこで出たのが、同じような愚痴と言いますか、悩みだったんです」
「……悩み?」
彼女は、フォークの先でアーモンドを小さく転がしながら、短く聞き返した。
「はい。それで、先週はまた別の、このあたりの飲食関係者が集まる会合があったのですが、そこでもやっぱり、同じ話題で持ちきりでした。世界的なこの情勢ですから、物価高に物流の混乱も重なって。特に、海外の食材や資材は届くのに時間がかかる上に、コストも跳ね上がっています。なので、どこも看板メニューを揃えるのに必死なのだと」
「……そう。大変なのね、どこの業界も」
「本当に。でも、面白いなと思ったんです。どれほど裏側が火の車でも、プロであればあるほど“予定通り”であることに執着する……いっそ、事情を話してメニューを変えます、価格を上げますと言ってしまえば楽なのに、完璧主義な私たちは、お客様に喜んでもらうために妥協したくない、と思ってしまうんですよ」
リネンを畳み、今度は静かに彼女の手元へ視線を移した。
「中でも、あるホテルのシェフは見ていて気の毒になるほどでした。先月の輸出制限の影響で、メインに使っているフランス産の鴨肉が、どうしても手に入らなくなってしまって。そのシェフは試行錯誤して最後まで意地を通そうと奔走していましたが、結局、この状況には勝てなかった。何年もこだわってきた看板メニューを、泣く泣く差し替えることになったと。確か……グランドホテルKのシェフだったはずです」
彼女の動きが、ぴたりと止まる。
「あそこのホテルは、私も何度かメインダイニングを利用したことがありますが、前菜からメイン、デザートまで、まるでアートのように美しくて。正直、ここらの飲食店や高級レストランが束になって挑んでも、あのホテルに叶うものはないと思っています。ただ、どうしても……豪華すぎるといいますか。ロビーに足を一歩踏み入れると、外の世界とあまりに違う雰囲気に圧倒されてしまって。自分の場違い感と独特な緊張感に、毎回萎縮してしまうんですよね」
彼女は小さく、吐き出すような溜息をついた。ピンと伸ばしていた背筋の力が抜け、華奢な肩がわずかに内側へ丸まる。アイラインで吊り上げられた目尻は、一瞬幼い形に戻ったように見えた。
「……本当は、行けなかったのではないですか? 披露宴に」
長い、長い沈黙。
彼女は掴んでいたナッツを、音もなく器に返した。ゴールドに光る左手の小指が、わずかに震えている。その震えを落ち着かせるように、もう一度長く息を吐いた。
「ははっ……」
そうぽつりと零すと、張り詰めていた糸がプツリと切れたように、彼女の表情から一切の力が抜けた。ただ燃え尽きた灰のような瞳で、カウンターの隅をじっと見つめている。
真琴は何も言わず、氷をたっぷり入れたチェイサーのグラスを、彼女の震える手元へ音もなく滑らせた。
「……1826日よ」
彼女は視線を落としたまま、ひび割れたような声で言った。
「あの日、別れを切り出されてから今日まで、あの人のことを考えてきた日数。何をしても、どこへ行っても、何を食べても……頭の中はあの人との記憶でいっぱいで。それを全部、憎しみに書き換えることでしか自分を保てなくて、自分を切り刻むようにして生きてきた。あの人が私の代わりに選んだのがどんな女なのか、私に何が足りなかったのか……なりすましのアカウントまで作って、あの女の生活を、吐き気がするほど調べ尽くして」
彼女は震える指先で、冷えたグラスの表面をなぞった。
「……バカみたいでしょ。調べれば調べるほど、自分が惨めになるだけだって分かっているのに、やめられない。どうしてなんでしょうね。そうやって自分を傷つけ続けていないと、あの人と繋がっていられる唯一の糸さえ、消えてしまいそうで怖かったのかもしれない。今日こそトドメを刺しに行くつもりだったの。憎らしくてたまらないあいつと、あの日から一歩も動けずにいる自分に」
真琴は一度作業を止め、彼女の伏せた瞳をただ静かに、同じ深さで見つめ返した。
「それでも、あなたは踏みとどまったんですね」
「踏みとどまったなんて、そんな綺麗なものじゃないわ。扉の隙間から、あの人の顔が見えた瞬間……一気に、血の気が引いたの。そこにいたのは、私の知らない、幸せそうな彼だった。私が夜も眠れず、自分を責めて、詮索して、呪い続けてきた5年間。あの人は私のことなんて忘れたまま……ただこうやって笑っていたのかって」
彼女はそこで言葉を切り、喉を鳴らした。
「私の復讐なんて、あの人の人生にはもう届く場所すらなかった。絶望の気持ちをぶつける余地すら、どこにも無かった。私はただ、今日まで自分で自分を殺し続けてきただけ……そう思ったら、もう、あそこに居る理由がなくなっちゃった。気づいたら、花束をゴミ箱に叩きつけて、逃げるようにホテルを飛び出してた」
自嘲気味に肩を揺らすと、彼女は乾いた息を吐いた。
「情けないわよね。あんなに準備して、殺してやるって本気で思って行ったのに。結局、何もできなかった。私は昔と変わらず、あの男に一言も文句すら言えない、物分かりのいい女のまま……」
真琴は、彼女が握りしめていたグラスをそっと下げ、氷をたっぷり入れた新しいチェイサーを、同じ場所に音もなく滑らせた。
「物分かりのいい女、上等じゃないですか」
数秒間、沈黙が走る。
「どういう形であれ、長年の想いを、今日、自分の意志で手放した。あなたがご自分で、引き際を選び取ったんです。それは、逃げ出したのではなく、あなたがあなた自身を救い出した証だと、私は思います」
真っ白な指先が、グラスの縁を柔らかくなぞる。
「……そう、思えたら良かったんだけど。逃げ出した自分が情けなくて、惨めで……だからせめて、ここに来る時だけは、復讐を遂げた強い女のフリをしたかったの」
一気にそこまで言い切ると、彼女は新しく置かれたグラスを、祈るような手つきで包み込んだ。冷たい刺激が、高ぶった感情を少しずつ鎮めていくのを待っているように。
「それにしても、すごいのね、店長さん。まさか料理の話だけで、嘘を見抜いちゃうなんて」
ようやく顔を上げたその目元は少し赤みを帯びていたけれど、そこには先ほどまでの迷いはなく、ただ不思議そうにこちらを見つめている。
真琴は調理道具を静かにガラス棚へ戻すと、今度は彼女の左手に視線を移した。
「きっかけは、その指輪です」
「指輪……?」
彼女は、薬指のソリティアリングにそっと触れると、もう一度視線を上げた。
「薬指のリングは、今日のあなたを強く見せるための、いわば鎧のようなものですよね。でも、そちらの小指のリングは……ずっと肌身離さず着けているものではありませんか?」
サイズが少し大きく、指を動かすたびにくるくる回るその輪は、不自然に際立っていた。
「実は私も、昔大切にしていた指輪が、同じ指に入らなくなった経験がありまして。そのサイズ感と、大切に扱われてきた形跡から……それはきっと、ピンキーリングではなく、誰かがあなたの薬指に贈ったものではないかと推察したんです」
こくり、と彼女が息を呑む音がした。
「本当に彼を憎んで、全てを壊しに行くつもりだったのなら、思い出の指輪なんて絶対にしていきません。いや、私ならその前に捨ててしまうか、売り飛ばします。けれど、あなたは今日、それを身につけている。これだけでも、あなたが本当は彼を傷つけに行ったんじゃないってわかります」
彼女は、自分の小指をもう片方の手でそっと包み込んだ。
「不思議よね……捨てられなかったの、これだけは」
彼女は愛おしそうに、ゴールドの細い輪をなぞった。その中心で、小さな青い石が照明を反射して静かに煌めいている。
真琴は、先ほど置いたグラスを一度手元に引き寄せると、代わりに新しいコースターをそっと置いた。
「お客様に、私からおすすめの一杯をお出ししてよろしいでしょうか」
彼女は柔らかく微笑み、ただ静かに頷いた。
カウンター内のタップと向き合うと、真琴は迷わず左から5番目のタップに手を添えた。
漆黒の『インペリアル・スタウト』。
18世紀、イギリスからロシア女帝エカテリーナ2世に献上するために造られたという、歴史上もっとも贅沢で、もっとも力強いビール。一般的なスタウトを遥かに凌駕する麦芽量とホップ、そして長い熟成期間。まさに「ビールの帝王」の名に相応しい一杯だ。
口の広い、どっしりとしたスニフターグラスを傾け、サーバーからゆっくりと注いでいく。漆黒のボディの上に、きめ細やかで濃密なベージュの泡が滑らかに層を作っていく。まるでエスプレッソのクレマのようなこの泡は、いつ見ても綺麗だ。
「お待たせいたしました。インペリアル・スタウトです」
夜の闇を溶かし込んだような一杯を、彼女の前に静かに滑らせる。
「……真っ黒ね。さっきのとは真逆の色」
「人って、黒に悪いイメージを持ちすぎだと思いません?」
真琴の不意の問いかけに、彼女はグラスを覗き込んだまま、少し自嘲気味に肩を揺らした。
「まあ、そうね。でも、今の私には、真っ白なドレスよりこっちの方がお似合いだろうけど」
「いえ。あなたが思っているような『絶望の色』ではないですよ」
「どういう……意味?」
彼女が怪訝そうに顔を上げると、真琴は穏やかに微笑んで言葉を継いだ。
「黒って、いろいろな色が混ざり合ってできている色でもあるんです。愛しさも、悲しみも、憎しみも……バラバラだと鋭い色たちが、何層にも重なって、ようやく辿り着くのがこの深い黒。だから、どの色より豊かな色だとも思うんです」
漆黒の液体の上に浮かぶクリーミーな泡を見つめた。
「このスタウトの色は、焙煎された麦芽の焦げた苦味も、気が遠くなるような長い熟成期間も……色々な条件がいくつも重なり、混ざり合ってできています。だから、これはすべてを糧にした『誠実な黒』なんですよ」
「誠実な、黒……」
「はい。無理に真っ白でいようとしたり、何かを隠したりする必要なんてありません。良い面も、時には悪い面も、です。愛した時間も、憎んだ時間も、あなたが必死に生きてきた時間に変わりないですから。それを無理に綺麗な思い出に変える必要も、無駄な時間だったと切り捨てる必要もありません」
彼女は、その言葉の温度を確かめるように、重厚なグラスを両手でそっと包み込んだ。
一口、二口。
漆黒の液体が喉を通るたび、彼女の背後で硬く冷たくのたうち回っていた紫色の澱が、さらさらした砂のように崩れ、温かな光の方へ溶けていく。
「……苦いわね。でも、すごくあったかい。不思議ね」
「ゆっくり味わってみてください。これは、終わりではなく、始まりの一杯ですよ」
ビールの余韻に身を委ねる彼女の横顔を見届けてから、キッチンでグラスを拭いていた豪に、顎でわずかに合図を送った。
豪は無言で頷くと、奥から小さな黒い木箱を恭しく取り出し、静かにカウンターへ滑らせる。
真琴は箱の中から、深い群青色のグラデーションが施された一粒をトングで持ち上げる。
「こちらは、私からのサービスです」
スタウトの隣に、クリスタルのプレートを静かに置いた。
「わぁ……綺麗な色。まるでお揃いね」
小指の青い光と目の前のショコラを交互に見つめて、彼女が小さく声を上げる。
「カシスの酸味と、ほんの少しスパイスが練り込まれています。スタウトの重厚な苦味と合わせることで、驚くほど華やかな後味に変わるんですよ」
真琴は、彼女の手元へ視線を落とした。
「サファイアの石言葉は、『誠実』、そして『慈愛』です。その指輪に込められた想いも、そして、今日まで大切に守り続けてきたあなたの想いも……どちらも誠実なものだと、私は思います」
彼女がこくりと息を呑む。
「復讐という鎧を纏ってでも、その指輪を手離さなかった。それが、あなたの答えだったのではないでしょうか」
静かに小指をなぞる彼女へ寄り添うように、さらに声を落とした。
「それから、サファイアは、9月の誕生石ですね」
ハッとしたように、彼女が顔を上げた。
「お誕生月、おめでとうございます」
「もう……自分でも忘れていたのに。降参ね」
ふっと肩の力が抜け、柔らかな微笑みが戻る。その目元は少し赤かったけれど、そこにはもう、自分を責めるような色は残っていなかった。
彼女は目元をそっと拭うと、青い一粒を見つめ、まるで壊れ物を扱うような手つきで優しく口に含んだ。それから数秒後、追うようにスタウトを流し込む。
すると、彼女の色にもう一度変化が起こった。
先ほど霧が晴れるように消えた濁りのあとに、今度は内側から滲み出すような光が灯る。冷たい夜の底に揺れる、街灯のような淡い琥珀色。
激しい紫に染まってい音色は、もうどこにもない。今はただ、インペリアル・スタウトの深いコクに溶け合うような、穏やかで厚みのある和音が店内に満ちている。
「……おいしい。真っ黒なのも、悪くないわね」
そう言って照れくさそうに笑う姿は、さっきよりもずっと幼く、彼女自身の本当の笑顔に見えた。
◇
チェックを済ませると、彼女は席を立った。
出口へ向かう間際、ふと思いついたように、カウンターの端で作業をしていた豪へ、指先でちょいちょい、と手招きをする。
「……どうされましたか、お客様」
豪が少し戸惑いながら耳を貸すと、彼女は真琴にも聞こえるような、茶目っ気のある囁き声を落とした。
「あなたも相当優秀な助手に見えるけれど、気をつけて。この店長さん、相当な切れ者よ。嘘なんて、指輪の角度一つで見抜いちゃうんだから。うっかり隠し事なんてしたら、骨まで透かされちゃうわよ」
真琴は、磨いていたグラスで顔を隠すようにして、小さく肩を揺らした。
「それは心外ですね。私はただ、美味しいお酒を飲んでいただきたいだけの、ただのバーテンダーです」
「ふふっ、だそうよ。頑張ってね、ワトソンくん」
「ワトソン……?」
豪がきょとんとしながら首を傾げるのを横目に、彼女は出口へ続く階段に足をかけた。そして、ふと立ち止まって振り返る。
「店長さん、ごめんなさい。今日、私、あなたにたくさん嘘をついたわ」
「とんでもございません。こちらこそ、お客様のプライベートに立ち入るようなことを、失礼いたしました」
「そんなの、全然。でも……おいしいって言ったのだけは、本心だった。ビールも食事もおいしかったわ。本当よ」
振り返った彼女は、いたずらっぽく、けれど真っ直ぐに真琴を見つめた。
「また来るわ。次は、ドレスじゃない格好で」
カラン、とカウベルが鳴る。
夜風と共に去っていく彼女の背中は、店に来た時よりもずっと軽やかで、その指先には、サファイアブルーが誇らしげに輝いていた。
「なんだか……嵐みたいな人でしたね」
背後で、豪がようやく堪えていた息を吐き出した。シンクから聞こえる水の音が、静まり返った店内に響く。
「それにしても、真琴さんって何者なんです? 指輪のデザインまで詳しいなんて。まさか、ジュエリーの鑑定士か何かだったんですか?」
「そんなわけないでしょ。どうしてそんなに思考が単純なの」
豪が洗い終えたグラスを受け取り、再びリンサーへと伏せる。勢いよく噴き出した水がグラスの内側を清める音に合わせて、言葉を続けた。
「最近のジュエリーは薄く作られている物が多いけど、彼女が小指につけていたのは、もっと地金が厚くて……少し前の、作り手の熱を感じるようなデザインだった。それに、あの指輪、サイズが合ってなかったでしょ。それでも直さずに着けていた。捨てられなかったんじゃなくて、あの時のままの形を、一ミリも変えたくなかったんじゃないかと思うの」
「確かに、サイズが合ってないなぁとは思いましたけど」
「豪、あんただったらどう? 大切な人にプレゼントした指輪。別れた後も毎日つけてるのよ。それがどれだけ重い意味を持つか、想像くらいつくでしょ?」
少し意地悪く問いかけると、豪は困ったように眉を下げた。
「真琴さん。俺に彼女がいないって何回言ったら覚えてくれるんですか。それに、指輪なんてそんな……もし僕が誰かに贈るとしたら、それは相当な覚悟を決めた時ですよ」
「意外と古風なんだ」
「馬鹿にしないでください。そうだな、例えば僕が、真琴さんに指輪を贈るとしたら……」
豪はカウンターに少しだけ身を乗り出し、悪戯っぽく、けれどどこか真剣な温度を孕んだ瞳でこちらを覗き込む。
その視線を真っ向から受け止めると、こちらからも身を乗り出して距離を詰めた。驚いたのか、大きな瞳がぱちくりと動く。数秒眺めたあと、鼻先に乗った小さな水滴をちょんと拭った。
「いい意気込みね。でも、私を満足させる指輪なんて、豪にはまだ100年早いかなぁ」
気圧されたように苦笑いする豪を見て、真琴は満足げに目を細めた。
「相変わらず手厳しいな……でも、なんとなくは分かりますよ。形を変えずに持ち続けることが、彼女にとっての『誠実さ』だったってことですよね」
豪はリネンを畳み直すと、ふと思い出したように顔を上げた。
「でも、鴨のローストの話はどこまで本当だったんですか? 食材の納品が遅れてメインが変わったなんて。もし彼女が本当に会場で食べていたら、どうするつもりだったんです?」
「んー、半分はハッタリよ。確信はなかったし」
「半分……じゃあ、もう半分は?」
「さっき、彼女が鞄からハンカチを出したとき、隙間からアメニティが見えたの。グランドホテルはね、女性化粧室のアメニティが豪華なことで有名なのよ。それを持っていたということは、彼女がロビーまで行ったことは確実でしょ」
「……そこまで見てたんですか」
「それに、さっき長さんが来た時に言ってたの。 グランドホテル前の通りで、夕方頃に冷蔵トラックが立ち往生してたって。いつもならもっと早い時間に来るはずなのにって」
「冷蔵トラックが?」
「そう。あのシェフ、相当頑張っているようだったから、もしかしたら今日の仕入れが間に合っていた可能性もあるし、遅れてさっき到着したかもしれないでしょ。あのホテルの鴨料理は、超絶品なんだから! 本当に披露宴で口にしていたなら、私のハッタリなんて鼻で笑って一蹴できたはずだもの。でも、彼女は動揺した。それは、彼女が披露宴に参加していなかった、何よりの証拠ってわけ」
「……恐ろしい人だ。いつからあの人が本当の花嫁じゃないって気づいてたんですか?」
「うーん。それは、扉を開けて、こちらへ歩いてくる一歩目から」
「最初から?!」
「だって、初めから違和感だらけだったじゃない。披露宴を終えたにしては、髪もメイクも一糸乱れず。まるで、さっき戦場へ向かうために整えたばかりみたいにね。花嫁が結婚式のあとに、一人で地下鉄に乗って、あんなに強いヒールの音を立てるはずがないもの」
「でも、あの人、『この手で殺すために乗り込んだ』って言ってましたよ。俺、本物の殺人者が来たのかと思って、震えましたもん」
「確かに、殺したいくらい憎んでいたんだとは思う。最初は紫の中でも赤い色が目立っていたし……誰かに向けられた怒りの感情かと思ったけれど」
「……どういう意味です?」
「なーんか、違和感があったの。彼女が纏っていた赤は、誰かへ向けられた矛じゃなかった。血が滲むような赤は、自分に向けられてたのよ。自分を傷つけ続けてきた痛みそのものだったのかも。本当に誰かを殺めるつもりの人間は、あんなに悲しい赤は出せない」
「なんでそんなこと言い切れるんですか」
真琴は手を止め、視線を扉の外、地下へと続く階段の暗闇へ向けた。
数秒間、沈黙が続く。
「ピンク色なの」
「……ピンク色?」
「……本物の殺人者はね、ピンク色に視えるの。高揚感と達成感、そこに狂気が混ざると、皮肉なくらい、きれいなピンク色になる……少なくとも、5年前からずっと自分を責めて指輪を握りしめているような人に、人は殺せない」
「真琴さん……まさか、その色を見たことがあるんですか」
グラスを棚に戻すと、自分の指先に落ちた琥珀色の光をじっと見つめた。
「豪。これだけは覚えておいて。私たちの仕事は、お客様の嘘を暴くことじゃない。ただ、ここのビールを飲んで、ほんの一時でも安らぎを感じてほしいだけ。たとえそれが、嘘の上にあるものだとしても」
豪がこくりと喉を鳴らす音が聞こえる。
「私は少なくとも、ここに来るお客様を一人でも多く癒せたらと思ってる。誰かの濁りを一つ消すごとに、自分が許される……そんな気がするから」
(こんなこと言うつもりなかったのに)
自分の口から出た言葉に、少しだけ気圧される。不意に、豪の気配が近くなった。
「真琴さんは、」
いつもより少し低い豪の声が、店内を静かに震わせる。
「まるで、自分の罪を償うために、誰かの幸せを願うようなことを言うんですね」
予期せぬ角度から心の一番柔らかい場所を突かれたような、鈍い衝撃。
磨いていたグラスを持つ指先に、わずかに力がこもる。
「さっきの下ごしらえ、完璧だったわ」
「……え?」
思わず振り返った豪の目が、少しだけ見開かれる。
「さっきのカプレーゼ。そういえば、もう1個残ってるトマト、食べていいわよ。ワトソンくん」
背後で豪が何かを言いかけた気配がしたけれど、あえて振り返らず、真琴はサーバーの圧力を確認するために、もう一度タップと向き合った。
【続く】
いいなと思ったら応援しよう!
ここまで読んでいただき、ありがとうございます☺︎
いただいたサポートは、今夜のちょっと贅沢なスイーツとビール、そして今後の活動費として大切に使わせていただきます…⭐︎