【短編小説】鬼ヶ島への配達
表示された住所と名前を見た智之は溜息を吐いた。またあの家か。その表情を見た店長代理が自分以上に暗澹とした顔をしているのに気付き、智之は無理して笑った。
「大丈夫です。今行けるの僕だけだし、しかたないですから」
店長代理の情けない「ごめんねぇ」を背に受けながら智之は箱に詰められたピザを抱えた。
生ぬるい夜風を浴びながら、ぼんやりと今日一日のことを思う。昼前に起きて、大学に行って、一コマだけ顔だして、夕方からバイト。
昨日は朝から起きて大学、そのあと夕方からはバイトの代わりに飲み会だった。一昨日は授業は無くてバイトだけ。
組み合わせは違えど、同じことの繰り返しだなあという憂鬱さが拭えない。これから訪れる場所も、これから起こるだろうことも、繰り返されたことだ。
到着したマンションの八階、インターホンを押して待つ。智之の心は死刑執行を待つのに似ていた。
「はーい、ちょっと待ってねぇ」
間延びした声は甲高く、気持ちの悪い媚びが含まれている。そう感じるのが智之の思い込みなのか、誰が聞いてもそう思うものなのか、もう智之には分からない。
音を立てて開いた扉から湿度の高い空気が漏れる。バスタオル一枚の女が濡れた髪をかきあげながら笑っていた。
「こちら、ご注文のスペシャルクォーターセットです」
女の体も顔も見ないように、ピザの箱と注文書だけ見ながら無愛想に平坦に告げる。
「いつもありがとうねぇ。わぁ、熱くておっきい……美味しそうね、ふふふ」
智之とは正反対の弾んだ声の女はピザを受け取って上機嫌そうだ。いや、上機嫌なのはピザのおかげではない。それが分かるからこそ智之は尚更に気持ちが悪かった。
智之は定型文の「ご利用ありがとうございました」を床に向かって低く吐き捨て、急いで配達用のバイクまで戻った。
詰めていた息を吐き出して、深呼吸。少しだけ夜空を見上げて、見慣れたピザ屋のロゴを見つめて、長い長い溜息を吐いた。
「本当に許せない! 警察に言ったりできないのかな」
語気の強くなる紗季奈に苦笑いを返す智之は、そんなに怒らなくても、という気持ちと共に少し嬉しさもあった。自分のために怒ってくれているのだ。
「警察行くほどの被害があるわけじゃないし」
「でもさ、何度も何度もって確信犯じゃん! 立派なセクハラだよ、逆らえない店員にさ……あれ? 店員相手ってことはカスハラになるのかな?」
スマホでカスハラを検索し始めた紗季奈を見る智之の顔は苦笑いから微笑みに変わっている。付き合い始めて間もない彼女のやることなすこと大体かわいく見えちゃう状態のニヤケ顔だ。
カスハラの定義を調べて何だか違いそうだと結論づけた紗季奈は、それはそれとして、と話を戻した。
「店長に何とかしてもらえたり……しないんだよね」
「いま店長いないって話はしてたっけ? 代理は悪い人じゃないんだけど……」
みなまで言わぬが、店長代理の能力不足エピソードをいくつか思い出した紗季奈が神妙な顔でうなずく。
「人数足りなくて、夜はどうしても僕が配達いくしかない日が多いしなぁ」
しょんぼりした紗季奈は自分で自分の手を包んで握りしめた。
「ともくん、無理しないでね。どうしてもって時には、辞めたっていいんだから。バイトなんて他にいくらでもあるよ。ともくんなら、いくらでも他に選べるんだから」
ぎゅっと握りしめられた紗季奈の手の上に、そっと手を置いて智之は笑った。
「大丈夫だよ、ちょっと愚痴を言いたかっただけ。心配させちゃってごめんね」
事態が急転したのは翌日のことだった。しばらく不在だった店長の座に、若いが優秀と名高い近隣店舗の店長が掛け持ちで収まってくれることとなった。
滞りまくっていた事務作業や諸々の業務を初日で粗方把握して目処をつけていく新店長。智之は心底ほっとした。
「こういうふうにしたかったんだね、そのためにはこうするといいよ」
間違いを指摘する際にも、意向を汲んで思いやった言い回しを選んでくれる。バイト経験の多くない智之にも仕事のできる上司なのだと分かった。
頑張ったね、と声をかけられた店長代理が涙ぐんでいるのを見た。能力に不足はあるが、急遽穴埋めで任された店長の代理を精一杯やっていたのだ。それを知っていたからこそ智之も見捨てることができなかった。
この人なら、と智之は感じたし、恐らく店長代理もそうだった。見慣れた番号からの注文が入ったのを確認した二人は揃って新店長を振り返った。
「あの……この方、常連なんですけど……」
新店長着任から半月。滞っていた業務が片付き、調理も配達もスムーズに回っている。求人募集媒体を増やしたり近隣店舗から借りたりして確保した人員も落ち着いてきた。
智之はあれから例の配達先には一度も訪れていない。店長が配達に行ってくれて少し話をしたという。
その後、間をあけて二度ほど注文があったが、智之は行っていない。店長がいてくれる日には配達に出られるようになった店長代理や、新しく増えた他のバイトたちが行ってくれた。
例の女はどうやら服を着て普通の客のように真っ当に振舞っているらしい。
これで一件落着か、と思われた頃。智之は時折、新店長が沈んだ表情で自分を見ていることに気づいた。
常に笑顔とまでは言わないまでも、不機嫌な顔をみせることのない人だ。任されている業務もバイトの範囲、特別に有能でも無能でもなくそれなりにこなしている智之の抱える問題などそう思い当たるものでは無い。
例の件を除いては。
「店長……もしかして、あの女の人、また何かやってるんですか」
思い切ってたずねてみたが、店長は曖昧に否定して語らなかった。店長代理にも聞いてみるが、最近は注文もなく、思い当たることは無いという。
ストーカー殺人のニュースを見た智之が震えながら膝をついたのは、新店長が辞めて3ヶ月後の事だった。
マンションの一室、偶然乗り合わせた電車やバス、何気ない日常に鬼は潜んでいるのだ。
一目でそれとは、分からないかたちで。
