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フランスの花火は彼方で散った

昨日、フランス花火の特集記事を書きましたが、時節がらもあって、即日高PVを獲得して、気分も上々でした。
そんなことで、その「フランス」についての記事でも書こうと、思ったのですが、中々、思い浮かびません。
よくよく考えてみれば地球の裏フランスは、歩いて行ける距離ではない。勿論、今の文明利器で船とか飛行機とか列車とか、いろいろ選択肢はありますが、物理的に、距離に比例してカネもかかります。判りやすく表現すれば、地球の裏を覗くには、ネットSNS絵ではただですが、実際、時間短縮の飛行機で行くには30万以上相当の金が必要でしよう。

それで、フランスまたイギリス、そしてイタリア、ドイツ、穿った言語でいえばトヨタEVを排他した西文化の国々です。そこの国に縁のある人は、今では多くいて、このサイトでも、外国から記事をインポートしている人も多いようです。
その反対でも縁もゆかりものない人にとって、その日常を書くこともできません。たまたま世界が酷暑でクーラーがない住宅とか、フランス大規模火災のニュースもありますが、それを書いたところで、読者ネタにはならない。さらに今石油タンカー往来のニュースで、海峡どうのこうの、とありますが、埒が明かない話に、付き合う気持ちもありません。

結局は、紛争延命して原油高値にして、闇企業、マネロンサイトが巨利を得る、そんな構図が見え見えというのは、マジックでもなんでもなく、歴史の常套手段と判ったような筋を想像しただけで、エンドレスのニュースなんでしょう。
そんなもろもろを話せば、海峡の向こうの国フランスは、やはり遥か彼方の遠い国なのです。
そんなことでとっておきのフランスの話をしましょう。800年前のヨーロッパ戦線の中、一人の女戦士「ジャンヌダルク」の伝記でした。
これは随分前に一度、noteで書いたものの復習復刻記事に手を加えたものです。

女神「ジャンヌ・ダルク」1412年 2022年2月5日 07:59
「ドラクロア」、「自由」を擬人化した架空の女神(マリアンヌ)です。ウジェーヌ・ドラクロワの最高傑作『民衆を導く自由の女神』は、フランス美術史上最も有名で、今日でも自由と民主主義の象徴として世界中で愛されている絵画です。

『シャルル7世の戴冠式でのジャンヌ・ダルク』(ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル作 / 1854年)最も有名な肖像画の一つです。甲冑に身を包み、旗を掲げて厳かに佇む聖女としての姿が描かれています。ルーヴル美術館に所蔵されています。
『ジャンヌ・ダルク』(ジュール・バスティアン=ルパージュ作 / 1879年)村の娘だったジャンヌが、庭で神の啓示(お告げ)を聴いた瞬間をリアルに描いた傑作です。
メトロポリタン美術館に所蔵されています。『ウィンチェスター枢機卿に尋問される牢獄のジャンヌ・ダルク』(ポール・ドラローシュ作 / 1824年)ドラクロワと同時代の画家による作品です。捕らえられ、ベッドの上で激しい尋問に耐えるジャンヌの緊迫した場面が描かれています。AI

ジャンヌの異端審問

当時17歳で蜂起し、19歳の時、異端審問(法曹政治より宗教が社会をコントロールしていた)にかけられ処刑されたという記録だった。後に、その罪は撤回された、というのは天文学哲学「ガリレイ」と同じ救済だった。

もう一つ「アラブの春」ネット革命が10年前にあったが、それも一つの時代のエポックであり、それらは一つのポリシーに貫き通されていたと推察したからだ。

男装兵「ジャンヌ・ダルク」とは

ジャンヌ・ダルクといったら肌胸もあらわな戦闘姿の絵(神の擬人化絵)が想像されるが、本人はそれとはまったく異なる軍人だった。

その革命とはほど遠いフランスの17歳田舎娘が、どうして、そんなに大それたアクションをしたのか、探ってみた。

1429年のランスに至るジャンヌの進路 「オルレアン包囲戦」

ボードリクールは、ニシンの戦いに関するジャンヌの予言が的中したことを前線からの報告で聞き、協力者を連れてのジャンヌのシノン訪問を許可した。
ジャンヌは男装し、敵であるブルゴーニュ公国の占領地を通りながらシャルル7世の王宮があるシノンへと向かった。シノンの王宮に到着してまもないジャンヌと余人を払って面会したシャルル7世は、ジャンヌから強い印象を受けた。
当時、シャルル7世の妃マリーとルネの母でアンジュー公ルイ2世妃のヨランド・ダラゴンが、オルレアンへの派兵軍を資金的に援助していた。ジャンヌは派兵軍との同行と騎士の軍装の着用をヨランドに願い出て許された。ジャンヌは甲冑、馬、剣、旗印などの軍装と、ジャンヌの協力者たちの軍備一式を寄付によって調達することに成功した。フランス王族がジャンヌに示した多大なる厚遇について、歴史家スティーヴン・リッチーは「崩壊寸前のフランス王国にとって、ジャンヌが唯一の希望に思えたからだろう」としている。

神の声を聴いたと公言するジャンヌの登場は、長年にわたるイングランドとフランスとの戦いに宗教戦争的な意味合いを帯びさせ始めた。しかしながら、ジャンヌの存在は大きな危険をもはらんでいた。シャルル7世の顧問たちは、ジャンヌの宗教的正当性が疑問の余地なく立証されたわけではなく、ジャンヌが異教の魔女でありシャルル7世の王国は悪魔からの賜物だと告発されかねないことに危機感を抱いた。

ジャンヌを異端とみなす可能性を否定してその高潔性を証明するために、シャルル7世はジャンヌの身元調査の審議会と、ポワチエでの教理問答を命じた。そして1429年4月にジャンヌの審議にあたった委員会は、ジャンヌの「高潔な暮らしぶり、謙遜、誠実、純真な心映えのよきキリスト教徒であることを宣言」した。一方で教理問答に携わったポワチエの神学者たちは、ジャンヌが神からの啓示を受けたかどうかは判断できないとした。ただし、ジャンヌの役割の聖性を創りあげるに足る「有利な憶測」をシャルル7世に伝えた。

これらの結果だけでシャルル7世にとって十分なものだったが、顧問たちはジャンヌを王宮に呼び戻してシャルル7世自らがジャンヌの正当性を正式に認める義務があるとし「証拠もなく彼女(ジャンヌ)が異端であると疑い、無視するのは聖霊の否定であり、神の御助けを拒絶するも同然」だと主張した。
ジャンヌの主張が真実であると認定されたことは、オルレアン派遣軍の士気を大いに高めることにつながった。3月22日、ジャンヌはシャルル7世が派遣したジャン・エローに依頼してオルレアンのイングランド軍指揮官(サフォーク伯ウィリアム・ド・ラ・ポール、ジョン・タルボット、トーマス・スケールズなど)に向けた降伏勧告文を口述筆記させた(実際に書簡が送られたのは4月24日から27日の間)。

イングランド軍が包囲していたオルレアンにジャンヌがラ・イル、ジル・ド・レらとともに到着したのは1429年4月29日だった。
当時オルレアン公シャルルはイングランドの捕虜となっており、異母弟ジャン・ド・デュノワがオルレアン公家の筆頭としてオルレアンを包囲するイングランドに対する攻略軍を率いていた。当初デュノワはジャンヌが作戦会議へ参加することを認めず、交戦の状況もジャンヌに知らせようとはしなかった。しかしながら、このようなデュノワの妨害を無視して、ジャンヌは多くの作戦会議に出席し、戦いにも参加するようになった。(一部重複文アリ)
資料ウイキペディア

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感想コメント
その思考は、誰に設計されているか、それはAIか?
AIという客観的な相棒に「下準備」と「構成」をすべて任せてしまうことで、自分のエネルギーを「最後の仕上げ」だけに集中させること。
これこそが、140日続いてきた最大の理由です。~参考になりましたね。いつでもだれでも、書くネタを探して彷徨う子羊のよう、は、終いには虎の餌食で消えてしまう、そして誰も注目しない。そんなことを何百回も繰り返し、膨大な著作を残し68歳で物故した東野氏は、まるでそれを具現したような作家人生だと思いました。そもそも作家、は何を誰のために書くか、という動機があるかないかです。ましてさっこんSNS時代AI-補助という、価値観が多元化していて、それを共感する世代のターケットが絞れない、そんな大きなトレンドがあると思います。だから今は個人一人で戦う場、は今ではないと思います。

AI女子大生のライフハック帖 7/31 コメント 

https://note.com/ai_note_jd/n/n5b634014dab0


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