東京「自由ヶ丘」の江戸時代
里山に棲む「自由ヶ丘」住民
東京「自由ヶ丘」の江戸時代 2018-11-15 05:58:53 表示 | 記事アーカイブ
私がいまやっている神楽の源流をネットでいろいろ調べていたところ意外な事実を知った。いまをときめく東京自由ヶ丘に神楽が伝承されていた、ということがネット検索でわかった。(そんなことは当たり前な話しで、おどろくにあたらない歴史社会形態である)。
自由ヶ丘といったら、いまではセレブな街の高級ブラント店の立ち並ぶメッカで、ファッション雑誌によく掲載される土地柄である。渋谷ハラジュクと並んで、いまでは若者の服装メッカといっても差し支えない。地理的には渋谷から東横線に乗ってすぐ行ける場所にあるが、昔からそこはミーハー対象ではなく当然知名度もなかった。
その先には当時では、大型娯楽施設がまだ貧弱だったころ、二子玉川の玉川遊園地があったり文化的にも進んだ土地のようだった。
そうした昔の歴史を類推してみれば、東京自由ヶ丘に神楽が伝承されているという事実は別にそれが特別なことである、ということではない。
考えてみれば不思議なことで、われわれは社会に流布されている情報でしかモノを知るすべをもたない。知りたければ自分の足で、その場所にいって見聞し堪能し知識とする。(ニュース報道もまったくおなじ)。
それで紙に書かれた情報もしくは世間で語られている歴史物語など、自分のカテゴリー内になければ、それはまったく別の世界と認識してしまう。
その自由ヶ丘については東京オリンピック1964年当時、縁があって数年暮らした土地だったので、遠い記憶として残っていた。もちろんその当時は、「神楽」という古典芸能については、ほとんど知識がなかった。
そのことが、時空を超えて(ややオーバー表現か)自身の身上によみがえった、というデジャヴュ既視体験である。
以下の情報は「自由ヶ丘の今昔」を克明に伝える歴史として価値のあるものだった。詳細な専門分野でいえば「土師流」という古代「氏」族によってそれらが伝承されていたことがわかる。
また、その「流派」の特徴など細かな音楽旋律と、舞スタイルなど、比較検討が出来るということがすばらしいと感じた。
ここで紹介するのは「熊野神社例大祭 土師流里神楽 山神の舞」(写真)である。
そこに併設してある動画をよく観ると、舞台が「能」舞台形式で、一般的な里の神楽殿とは異なる。また舞われる舞と、演奏される旋律も、「能」の影響を受けていると思われるが、詳細は調べてみないとわからない。
「里神楽」は時間的歴史がかなり古く、その間の諸条件紆余曲折、戦乱で継承者不在、戦火で消失、戦勝者によって中身が入れ替わった、など源流を探るのはほとんど不可能。それでも細々と生きながらえた土着の色や音は、簡単には途絶していないことがわかる。
「土師流里神楽、山神の舞」について云えば、同じ土師神楽であってもまったく別物に見えるが、そこにある太い旋律を反芻してリフレインすると、それはまぎれもなし血統遺伝子であることが判る。それは研究者また評論家レベルの話しではなく、実際にそれをやっている者だけにしかジャッジできない奥深い音の世界であり、土師神楽の醍醐味である。
(比較した神楽。千葉県玉前神社=上総神楽 千葉県広報)
土師流の伝統を継ぐ「里の神楽」東京自由ヶ丘 熊野神社 動画
山の神が、熊野神社の例祭を祝し、氏子崇敬者の繁栄を祈念する祝福舞。
2015.9.5 熊野神社例大祭 土師流里神楽 山神の舞
検索 「桜乃一人静サイト」(いまは閉じている)

土師氏 (検索ウイキペディア)
土師氏(はじうじ、はじし)は、「土師」を氏の名とする氏族。
天穂日命の末裔と伝わる野見宿禰が殉死者の代用品である埴輪を発明し、第11代天皇である垂仁天皇から「土師職(はじつかさ)」を、曾孫の身臣は仁徳天皇より改めて土師連姓を与えられたと言われている。
古代豪族だった土師氏は技術に長じ、出雲、吉備、河内、大和の4世紀末から6世紀前期までの約150年間の間に築かれた古墳時代の、古墳造営や葬送儀礼に関った氏族である。
大阪府藤井寺市、三ツ塚古墳を含めた道明寺一帯は、「土師の里」と呼ばれ、土師氏が本拠地としていた所で、その名がついた。道明寺天満宮の前身は土師神社であり、道明寺は土師氏氏寺である。
備前国邑久郡土師郷一帯は、飛鳥京跡出土の木簡では「大伯郡土師里」と呼ばれ、「土師寅」が米を送ったことが墨書されており、土師氏が本拠地としていた所でその名がついた。
土師氏は野見宿祢を祖先とする氏族で、野見宿祢については、『日本書紀』垂仁7年7月7日条にその伝承が見える。それによると、大和の当麻邑に力自慢の当麻蹶速という人物がおり、天皇は出雲国から野見宿祢を召し、当麻蹶速と相撲を取らせた。野見宿祢は当麻蹶速を殺して、その結果、天皇は当麻蹶速の土地を野見宿祢に与えた。そして、野見宿祢はそのままそこに留まって、天皇に仕えた、とある。野見宿祢の「野見」は、石材を加工する際に使われている道具である「ノミ」と関連があるとみられており、野見宿祢が石材とかかわっていたと言う推定がある。この伝承は、古墳の石室などに用いられた安山岩質の讃岐岩の石材を供給する二上山の支配権が、在地の当麻氏の手から、野見宿祢に移ったことを示唆する。
野見宿祢に関する2つ目の伝承として『日本書紀』垂仁32年7月6日条があり、垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命が亡くなった。それまで垂仁天皇は、古墳に生きた人を埋める殉死を禁止していた為、群臣にその葬儀をいかにするかを相談したところ、野見宿祢が土部100人を出雲から呼び寄せ、人や馬など、いろんな形をした埴輪を造らせ、それを生きた人のかわりに埋めることを天皇に奏上し天皇はこれを非常に喜び、その功績を称えて「土師」の姓を野見宿祢に与えたとある。 当時も技術的には出雲が先進であったことを示唆する。
後に、土師猪手が周防国佐波に来目皇子の殯宮の造営や、天皇の詔によって吉備姫王の葬儀執行を担当した。また、土師氏は、河内国に古墳墓を増産し、隆盛を誇った。
続日本紀によれば、桓武天皇の母方の祖母・土師真妹は山城国乙訓郡大枝郷(大江郷)の土師氏出身である。その娘の高野新笠も、この土師氏の里で幼少期の桓武天皇を養育したと見られている。やがて土師氏の一族は、桓武天皇にカバネを与えられ、大江氏・菅原氏・秋篠氏に分かれていった。
(資料ウイキペディア)
土師流(伝)神楽 上総国一宮玉前神社 太々神楽
県指定無形民俗文化財 指定日 昭和33年4月23日
長生郡一宮町一宮の玉前神社に伝わる神楽で、別称上総神楽ともいうが、古称ではない。
神楽の奉納記録としては、天保9年(1838)の「社用録」に、宝永7年(1710)に神楽殿を造り神楽を奉納したとあるのが初見である。
また、「伶人ハ江戸稲荷ノ祠官、小針和泉村木大和也。当社ヘ土師流ノ神楽伝授ス」ともあるように、もともと土師流の神楽を伝え受けたことがわかっている。
この神楽は、代々5軒の社家を中心に継承されることになっており、明治時代の記録では36演目からなっていたようだが、現在では「加茂明神」「天狐乱舞」「八咫宝鏡」「種蒔」「両神和合」「龍神舞楽」「悪魔降伏」「磐戸小開」「蛭子」「猿田彦舞」「剣玉」「神剣貢」「風神安鎮」「戸隠」「千能里」「大山祇神」の十六座を伝えている。(一宮町史)
鷲宮神社(埼玉県) 土師流神楽
土師一流催馬楽神楽は、埼玉県鷲 宮町に鎮座する鷲宮神社に伝えられています。鷲宮の語源は土師部(土器などをつくる人)が移り住んだことから、土師の宮が鷲宮に転じたともいわれています。 鷲宮神社の神楽が文献に登場するのは鎌倉時代の「吾妻鏡」で、建長3(1251)年の記録が最初とされています。ただし、その神楽が今に伝わるものと同じであるかはわかっていません。現在の十二座から成る神楽が編成されたのは、宝永~享保年間の頃で、今から280年から300年前のことであったと考えられています。
江戸後期の随筆家山崎美成による「海録」の中に、十二座に編成された催馬楽神楽の起源や江戸里神楽の源流とみなす有力な根拠がしるされています。このため、土師一流催馬楽神楽は関東神楽の源流と呼ばれています。 昭和51(1976)年、国の重要無形民俗文化財第1回指定の中に選ばれています。
催馬楽神楽の特色
最大の特徴は、平安時代に流行した催馬楽という歌が神楽の演目ごとに歌われることです。神楽は、出端(では)(序の舞)、中の舞掛り(まいがかり)(本舞)、引込み(ひっこみ)(終わりの舞)で構成され、催馬楽は出端と中の舞掛りの間で歌われます。また、舞の型に「四方固め」「三度」といった宗教味 の濃い所作が含まれ、格式ある典雅な舞となっています。
演じる機会は、玉前神社の春季例大祭(4月)や秋季例大祭(9月)をはじめ、年7回ほどあるが、春季祭では「種蒔」が、秋季祭では「猿田彦舞」が必ず最初の演目と決まっており、毎回最後は、「大山祇神」で終えるようになっている。
画像 渥美古窯 素文壺 半蔵門ギャラリー 石嶋美恵子
以下
(資料海録引用) 閲覧不能
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