子供の頃、宇宙が怖くて眠れなかった話
小学生くらいの頃、以下の2つを考えると最終的には怖くてよく眠れなくなっていた。
ビッグバンが起きる前の宇宙
宇宙の果て
どちらもその先に何があったのか?を考えると宇宙の彼方に吸い込まれるような感覚になり、怖くなって寝れなくなった。
無限への恐怖
1番怖かったのが、自分という存在がちっぽけすぎて、そして、この宇宙の外側を考えた時、その先に何があり、誰がいるのか。
自分という一つの塊があり、地球という一つの塊があり、銀河系という一つの塊があり…これを繰り返すと最後の塊って何なんだ?
この疑問が浮かぶともう止まらなかった。
友達に話したりもしたが、全く共感はもらえなかった。
親に話してもはぐらかされた。
あの頃、僕が1番怖がっていたモノは、父親でも、オバケでもなく、宇宙の始まりと果てだった。
大人になってからの変化
何か解決したとかもなく、僕は大人になっていき、次第に社会の仕組みの対応に追われはじめ、宇宙のことを考える機会も減っていった。
そして、自分自身に興味を持ち、自分の理解を深めていく過程で、不思議とまた宇宙について考えるようになった。
小さい頃と違うのは、宇宙に対しての恐怖の感情が無いこと。
なぜ恐怖がなくなったのか?
自分なりの解釈としては、自分は宇宙の一部と考えてみたら、
「それならそういうもんな気がするし、まぁっいいか。」
と気持ちが楽になった。
宇宙と共に生まれ、宇宙と共に消えるならまぁそういうもんだなくらい軽いノリ。
自分という存在を宇宙から切り離して考えていた子供の頃は、宇宙の無限性に圧倒され、自分の小ささに恐怖を感じていた。
でも、自分も宇宙の一部だと思えば、宇宙の始まりも果ても、僕の始まりであり果てでもある。
そう考えると、宇宙の謎は僕自身の謎でもあり、恐怖ではなく興味の対象に変わった。
息子との対話
実は、この宇宙への恐怖を思い出したきっかけがある。
6歳の息子から、天国が人でいっぱいにならないの?とか、地獄には本当に行きたく無いというような話を振られて、一つ一つ話を進めていく中で、この宇宙への恐怖体験を思い出した。
息子には、こんな風に話した。
僕「正確には天国も地獄もあるって証明はされてないんだよね。」
僕「でも、いろいろな国で似たようなお話があるんだよ。」
僕「人に優しく想いやる気持ちをもって、自分だけが良いという行動をとらないことが大事なんじゃ無いかな?」
息子「死んじゃった愛犬はすごくいい子だったから天国行けたよね!」
僕「きっと行けたよ!」
僕「もしかしたら、天国行った後、今頃また新しく生まれてこようとしてるかもしれないね!」
息子「そうだったらいいなー!また会って遊びたい!」
僕「息子くんがこうだったらいいなーっとおもう世界を信じるのがいいんじゃ無いかな?パパはそうしてるよー」
息子の疑問を聞いていると、僕が子供の頃に感じていた実存的な不安と似ているなと思った。
なんかよくわからない漠然として不安。
会話が一段落した時に僕は、息子に対して、僕の親がしなかった対応ができたような気がした。
答えのない疑問に対して、はぐらかすのではなく、一緒に考える。
そして、恐怖ではなく希望を与える解釈を提案してみることを。
さいごに
子供の頃の宇宙への恐怖は、自分という存在の意味や、無限というものへの根源的な不安だったのかもしれない。
大人になって、その恐怖が消えたのは、自分の位置づけが変わったからかもしれない。
宇宙の外側にいる観察者から、宇宙の一部である参加者へ。
ちょっと表現が大げさかもしれないが、まぁそんな感じ。
息子との対話を通じて、実存的な疑問は世代を超えて受け継がれていくものかもなっとちょっと心が暖かくなった。
子どもからの純粋な疑問に対してどう向き合うかは、僕たち大人の役割なのかもしれない。
恐怖を与えるのではなく、希望を与える。
答えを押し付けるのではなく、一緒に考える。
これから先も、そんな風に、次の世代に実存的な疑問との健全な向き合い方を伝えていけたらいいなと思う。
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