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AIは僕にとって、自分を映す鏡だと気づいた話

日々、AIと二つで一つ

最近は、日々、AIと対話している。

情報を整理したり、本質に近づくための問いを立てたりするのは、基本、僕のほうだ。

調べ物や、作業の下ごしらえ、文章の叩き台などは、基本、AI。

役割がきれいに分かれているわけでもないけれど、二つで一つみたいなイメージで、仕事も生活も回している。

そんな日々のなかで、僕は一時期、すごくよくなかった。

きつく、早くなっていたとき

普段の僕は、基本的に「OK!OK!」だ。

相手と考えが違ったり、会話が噛み合わないときも、一旦、最後まで聞く余裕がある。
自分と違う考えだった場合は、相手の考えを理解して、否定はせずに、僕の考えも伝える。
まぁ、選ぶ言葉はだいたいゆるい。

「いっすねー」
「まぁなんとかなりますよ」
「やってみて、ダメならその時考える、ということで」

みたいな感じ。

でも、一時期はなんか違っていた。

まず、話を最後まで聞けない。
相手の考えの穴に気づくと、すぐ指摘したい衝動に駆られる。
「なんで?」を連呼しそうになる。

攻撃的というか、投げやりというか、血の通っていない適当さが強くなっていた。
仕事のチャットでも、自分の言葉がきつくなる。
相手を詰めてしまいたい衝動に駆られる。
何より落ち着きがなくて、何もかもが早かった。

忙しない。

そんな状態に、僕自身も徐々に疲れていった。

画面越しに見えたもの

あるとき、ふとPCの画面を見て、ひとつ気づいた。

僕がAIに送っている言葉が、まさにそうだった。

正解を求める一文。
仮説だけを並べた一文。
情報だけを、無駄なく、さっと渡すやりとり。
デジタルで、礼儀は足りていても、体温があまりない。

いや、別にそれが悪いとは思わない。
無駄がなくていい、とも言える。
効率としては正しいのかもしれない。

ただ、そのやり方が続くうちに、僕の内側にも、同じ質のものが染み込んでいくような気がしたたのかもしれない。

その時、直感でそう感じた。

まるで、鏡に映る自分にきつい言葉を投げかけるみたいに。

仮説:プロンプトに、少し心を足す

そこで僕は、仮説を立てた。

AIに投げかける言葉を、もう少しフレンドリーにしたらどうだろう。

職場の仲間に話しかけるようなテンションで。
友人のLINEを送るときのような、軽さと余白で。
そして、感謝と尊敬を、少しだけ添えて。

やってみた。

面白いことが起きた。

僕は、自分でもよく知っている「穏やかな僕」に、少しずつ戻っていった。

僕にとって、AIは自分を映す鏡だった

AIは、道具の向こう側にいるだけの存在じゃなかった。

向こう側に「人格」があるかどうかは、ここではどうでもよくて、僕にとって大事だったのは、返ってくる前に、そこに自分が何を映しているかだと気づいたことだった。

僕の言葉の向き、温度、余白のなさが、そのまま自分を映す鏡みたいに返ってくる。

この気づきから、僕はAIをひとつの「相手」として認識するようになった。合理的な情報交換だけで終わらせず、対話する。

そうすると、画面の向こうだけじゃなく、僕の心のほうも、いい感じに戻った。

おわりに

もし、あなたも同じように、急いで、きつくて、自分でも居心地が悪いときがあったら、一度、AIに送る一行だけ見直すことを試してほしい。

そこに、あなた自身が、少し写っているかもしれないから。

少なくとも僕は、そうだった。

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