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現役作家による歴史小説の書き方(6)現地取材5つのポイント

 前回、この「現役作家による歴史小説の書き方」を更新したのが2月なかばだった。以来、手間暇のかかる作品を必死に書いており、ついついnoteは後まわし。とうとう3ヶ月も間が空いてしまった。
 (1)から(5)までの連載を覚えてくださっている方がいらしたら、どうか、また読んでいただきたい。いや、これが初見という方も、ぜひ。今回も長文になりそうだけれど。

 その「手間暇かかる作品」の中で、幕末の江戸で起きたヒュースケンという人物の攘夷斬りについて、書くことになった。そのために襲撃された場所を訪ねたので、今回は現地取材の方法について、お伝えしたい。終盤で、ポイントを箇条書きにしてまとめるけれど、まずは私の取材談から。

 ヒュースケンというのは、初代アメリカ公使ハリスの通訳兼秘書で、襲われた場所は麻布の赤羽橋から中の橋を過ぎたあたり。現在は都営地下鉄の赤羽橋駅近くで、片側2車線の道路に沿って新堀川が流れ、その上に首都高が通っている。よって幕末の雰囲気は皆無。
 新堀川は名前からして人工的に掘ったものだが、江戸時代の地図「江戸切り絵図」を見ると、すでに新堀川は存在していたし、赤羽橋も中の橋も架けられていた。流れる経路も変わっていない。

現在の中の橋。下に新堀川が流れ、上には首都高が通る。

 襲撃現場は「まさにこのポイント」と確定はできないけれど、このあたりと見当をつけて、川を背に立ってみた。ヒュースケンが襲われたのは万延元年12月5日の深夜で、襲ったのは数人の攘夷浪士。ヒュースケンが毎晩、そこを通ることを、浪士たちは知っていて、待ち伏せしたのだ。
 西暦では1860年1月15日だから、おそらく寒さの厳しい夜だっただろう。まず人通りはない。浪士たちは白い息をはきながら、町角に身をひそめていたと考えられる。町の区画も変わっていないので、彼らが隠れそうな町角は2箇所くらいしかない。
 そこにヒュースケンが馬に乗って通りかかる。警備の侍たちが、提灯を掲げて前後を歩く。突然、浪士たちが躍り出て白刃を振るう。警備の侍たちは逃げてしまい、ヒュースケンは落馬して、何太刀も浴びたところで、浪士たちは引き上げた。
 騒ぎが収まってから、警備の侍たちが恐る恐る戻ってみると、ヒュースケンは重傷ながらも意識があった。そのため、どこからか戸板を調達してきて、それに乗せて、アメリカ公使館が置かれた麻布の善福寺まで、大急ぎで運んだのだ。現場から善福寺までは歩いて10分ほど。

 当時、襲撃地には下級武士の小さな屋敷が並んでいた。そんな建物の前で繰り広げられたであろう事件を、その場に立って強くイメージする。帰宅してから思い出してみて、高速道路の高架もビルの町並みも消えて、深夜の襲撃シーンだけが記憶に刻まれていたら大成功。タイムスリップして、事件を見てきたも同然だ。それを文章にすればいい。

 なぜヒュースケンが、毎晩、そこを通ったかというと、当時、赤羽橋には、赤羽接遇所という西洋人向けの宿泊施設があった。幕府はプロシアと通商条約の交渉中で、プロシアから来た外交使節団が、そこに滞在中だった。
 プロシアは後のドイツで、言語もドイツ語だが、もともとヒュースケンはオランダの出身で、何ヶ国語も使いこなせた。そのために幕府とプロシア使節団の交渉も、彼が通訳を務めたし、毎晩、彼らと話し込んで、深夜になってから善福寺に帰ったのだ。

赤文字の『現在位置」が赤羽接遇所。右端の縦の青線が新堀川。

 襲撃現場を見てから、赤羽橋接遇所跡と、アメリカ公使館が置かれた善福寺と、ヒュースケンの墓のある光林寺の3箇所を歩いてまわった。赤羽橋接遇所跡は、今は飯倉公園という遊具のある公園になっている。
 当時、攘夷斬りが頻発しており、夜間の外出は危険だと、幕府は再三、警告していた。なのに出かけたのだから、ヒュースケンの自業自得と、日本側には受け取られたらしい。資料となる本にも、たいがい、そういう見解で書かれている。
 でも赤羽橋接遇所跡の公園に立ってみると、ヒュースケンが足繁く通った気持ちがわかる気がした。

 彼はオランダ出身で、若くしてアメリカに渡り、初代アメリカ公使のハリスと出会って、安政3(1856)年の夏に来日。日本には蘭通辞がいたから、彼のオランダ語と英語の能力が買われたのだ。1年半ほどは伊豆下田の玉泉寺に、ハリスとふたりで滞在。その後、麻布の善福寺に移った。
 来日から亡くなるまで4年半ほど。その間、ハリスと共に江戸城で将軍家定に謁見し、日米通商条約の締結にも成功していた。ヒュースケンの力なくしては成しえなかった外交実績だ。

アメリカ公使館が置かれた善福寺。背景がタワービルってとこが実に麻布!

 当時、ヒュースケンは20代なかばで、ハリスは40歳も上。麻布に移ってからはイギリス公使館など、他国の外交官との交流もあっただろうが、顔ぶれは、いつも同じ。話し相手が限られており、寂しかったことだろう。
 そこにプロシアから使節団が来たのだ。同年代の書記官や士官もいたはずだ。会話が新鮮で楽しく、つい遅くまで話し込んでしまったのを、自業自得と切り捨てるのは、なんだか気の毒な気がする。
 でも私にしても、最初は本で読んだ通り、自業自得という印象を持っていた。それが赤羽橋接遇所跡の公園に立って、彼らがワインなどを飲みながら、楽しく語り合った様子を思い浮かべて、初めてヒュースケンの孤独に気づいたのだ。

飯倉公園にある「赤羽接遇所跡」の説明板。

 土地が教えてくれたなんていうと、なんか変な人と思われそうだが、やはり現地に行ってこそ、気づくことはある。その場への往復も含めて、1日中、そのことばかり考え続けるせいもあって、いろいろ閃(ひらめ)くのだと思う。
 普段でも散歩中に、作中のアイディアが浮かぶことがある。歩いていると、よく頭が働くともいうし、現地取材でも歩く効果はあるのかもしれない。

 私の取材談は、そんな感じだが、現地取材のポイントを、以下に箇条書きにしてみる。

①当時の痕跡を見つけて、イメージ拡大の糸口にする。
 今回は新堀川だったが、石垣とか大木など、ちょっとしたものでもいいから、当時から残っていそうなものを見つけて、そこからイメージを膨らませるといい。坂道とか山の見え方、川の流れ、夕陽の落ちる方向など、地形も基本的に変わっていないから、そういった点にも注目して書くと、文章に奥行きを持たせられる。

②現地で場面を映像のように思い描く。
 できるだけ具体的にイメージしたものを、帰宅してから、映像のように思い出しながら、文章に起こす。そうすると生き生きした場面が描ける。

③現地で登場人物の心情をおもんばかる。
 資料の記述にとらわれずに、現場に立ち、その人物の気持ちになりきって、その人物が何を思い、どう感じたかを推測する。そのためには行く前に、人物の来歴なども調べておくといい。

④「江戸切り絵図」などで当時の町並みを調べる。
 朝日新聞社刊の『復元 江戸情報地図』という大型本があるのだが、とても便利なので、愛用している歴史小説家や時代小説家は、けっこういる。現代の地図に、江戸切り絵図が重ねて表示されてあるので、目当ての場所が、どの辺なのかが、よくわかるのだ。
 今回の襲撃現場近くに、下級武士の小さな屋敷が並んでいたのも、この本で調べた。私が手に入れたときの定価は2万円だったけれど、今は「日本の古本屋」で、けっこう安く出ることもあるので、持っていて損はないと思う。
 平面の地図から、頭の中で立体の町並みに立ち上げるためには、江戸の町並みを再現したミュージアムや、武家屋敷の町並みが残る地方都市などに、ちょこちょこ足を向けるといい。時代劇のドラマなどを見る際に、そういった点に注目するのも手だと思う。

⑤和暦の季節を意識しながら歩く。
 ネットの情報はもとより、出版された本でも、ときおり和暦と西暦が、ごっちゃになっている場合があるので、要注意。和暦の年月日を西暦に、逆に西暦を和暦に換算してくれるサイトがあるので、作品を書く際には活用を、お勧めする。
 作中で和暦表示する場合、今とは季節がずれる。事件発生と同じ季節に、取材に行かれれば何よりだが、違うことも当然ある。当時、どんな気候だったのか。雪が降ったか、花が咲いていたか、トンボが飛んでいたか、土埃が舞っていたか、それとも枯れ葉が散っていたか。そんなことを想像しながら、現地を歩いてメージを膨らませるべし。
 ただし和暦表示で「秋風が吹きつける8月に」などと書くと、正しくはあるのだが、和暦に慣れていない読者には違和感を与えてしまう。そういう場合には数字の月日は書かず、「秋風の吹く日に」と、季節感だけ表現して、読者に時期を想像してもらう方がいいと思う。

 以上、あなたの取材の参考になれば。

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