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寺山修司『観客席』における「箱」の意味

私のすぐ左隣の女性が、俳優たちによって設置された舞台と称される「箱」に閉じ込められた。

箱とは舞台であり、観客の身体や視線、存在そのものが舞台装置となる空間。

箱に入ってしまった、さっきまで観客であった女性を、俳優たちが大勢で覗き込む。斜め後ろ横から私も覗く。箱には、手書きの出口、手書きの入り口がついている。

狭い空間で、観客の一人が俳優となり、舞台生成の中心となった。

ここで、安部公房『箱男』的逆説が頭をよぎる。箱男の閉鎖は、曝露となり、私の「観客席」体験は知らず知らずのうちに「箱男」の感覚に引きずられていく。

箱は舞台装置か、観客生成の装置か。中には俳優化された観客が閉じ込められ、外には観客としての私がいる。

私も箱に入りたい──外界から閉ざされた、自己のためだけの箱。

しかしその箱は、観客に注視され、箱入り俳優としてさらされているのだ。

もし私が箱に入ったなら、外を眺めるだけでは済まない。箱の壁は閉ざされていても、視線は自由であり、観察されることで主体性を獲得する。

内側と外側、俳優と観客、箱と世界──境界は溶け、存在は二重化し、思考と視線は無限に拡張する。

箱に閉じ込められることは、隔離ではなく、曝露であり、舞台生成の中心であり、自己と世界が交錯する実験場である。

閉じた空間の中で、私は自らの存在を演出し、観客と俳優、内と外の交差点に立ち続ける。すり鉢状の観客席に見下ろされ、夜の闇に囲まれながら、劇は進む。そして最後には──箱だけが残る。

観客も俳優も、私も世界も、すべてはその箱の中で交錯し、ただ箱が静かに存在し続ける。

私の劇は、まだ続いているのだ。