なぜ人はフェルメールの青に惹かれるのか? そして、極限まで無駄を削ぎ落とした『牛乳を注ぐ女』の構図とは (元教授、定年退職836日目)
『解剖!マスターピース』で知る、「牛乳を注ぐ女」はどこがすごいのか
先日、NHK『解剖!マスターピース』で、17 世紀オランダの画家ヨハネス・フェルメールの傑作『牛乳を注ぐ女』を特集した回を視聴しました。番組のナビゲーターは、お笑いコンビのバッテリィズです。私は以前「富嶽三十六景」の回を見て、この番組の多角的な分析に驚き、note でも紹介しました。今回のフェルメールといえば、『真珠の耳飾りの少女』と『牛乳を注ぐ女』をよく目にしていたため、どのような詳細な解釈が示されるのかと期待していました。番組では、メイン解説者の福岡伸一先生をはじめ、写真家、プロデューサー、水彩画家、キュレーター(博物館や美術館で作品を選定・調査し、その価値を社会に伝える専門職) など、多様な専門家がそれぞれの視点から作品を分析しており、今回も大変楽しめました。その中から、絵画についてまったくの素人である私が興味を持った、高価な顔料ラピスラズリを革新的に用いた「フェルメール・ブルー」と、「引き算の美学」に代表される構図の面白さについて取り上げたいと思います。(タイトル写真、下写真もどうぞ:注1)

<追記1> 実は、顔料のラピスラズリについては、これまで note で二度ほど取り上げたことがあります。最初は、「お殿様のコレクションは民を救う?」というタイトルで紹介した、NHK『歴史探偵』の回です。青森の八戸藩主・南部家ゆかりの品々の中に鉱物標本があり、ラピスラズリやターコイズ(トルコ石)などが見つかっていました。もう一つは『サイエンス ZERO』の「色彩の科学・青」です。そこでもフェルメールが登場し、『真珠の耳飾りの少女』に見られる “フェルメール・ブルー” の輝きについて少し触れました。
福岡先生と読み解く「フェルメール・ブルー」誕生の秘密
フェルメールの代名詞ともいえるのが、「フェルメール・ブルー」と呼ばれるウルトラマリン・ブルーです。当時、青い顔料は自然界に乏しく、アフガニスタン産の希少な鉱物ラピスラズリを砕いて作られる顔料は、金よりも高価だったといわれています。そのため、ウルトラマリン・ブルーは通常、聖母マリアなどの高貴で神聖なモチーフに限って使用されていました。しかし、フェルメールはこの聖なる青を、名もなき働く女性のエプロンに用いました。高貴な色彩を市井の日常へと持ち込む、いわば「青の民主化」を成し遂げたのです。生物学者の福岡先生は、フェルメールの青へのこだわりは、生命にとって根源的な美を追求したものではないかとも考察しています(追記2参照)。また、フェルメールが使用した顔料は、生涯を通じても 20 種類程度と極めて限定されていたそうです。女性の黄色い上着には鉛錫黄を用い、青との補色関係によって鮮烈な光を表現しています。さらに、青いスカートを配置することで画面全体を安定させるなど、実に緻密な色彩設計が行われていました。(下写真もどうぞ)

<追記2> 福岡先生は生物学者の視点から、なぜ青が美しく見えるのかについて、次のような仮説を語っていました。「この地球上に最初に生命が現れたのは、海の中に小さな細胞たちが生まれた時で、一番最初に見た光は青い色だったのです。その青い方に行けば、生き延びることができる、というのが基本になっている。つまり、青というものをできるだけ美しいものとして表現したいという気持ちが、芸術家の中にもあると思います」(上写真、右下)
小学生がラピスラズリから絵の具を作ってみた
番組で特に面白かったのは、当時小学生だった齋藤湊真君の自由研究を取り上げていたことです。その研究は、ラピスラズリから自分で絵の具を作り、『真珠の耳飾りの少女』を模写するというものでした。湊真君は、制作工程の大変さを体験しただけでなく、粉の細かさによって色の濃淡が変わることまで見つけ出していたのです。具体的には、まず 100 グラムのラピスラズリを購入し、不要な部分と青い部分を分けます。続いて、青い石をハンマーでたたき、乳鉢を使ってさらに細かく砕きます。粉状になったところで水を加え、重い顔料の粒子を分離させます。その後、再び乳鉢で細かくすり、最後に膠を加えて練り上げるという複雑な作業でした。その後、湊真君は番組の企画で絵の具を製造する工場を訪れ、絵の具の質感を調整するためのさまざまな技法を見学し、とても感激している様子でした。(下写真もどうぞ)

『牛乳を注ぐ女』の構図の魔法
さらに番組では、この作品の構図や制作方法についても多角的に分析していました。これがまた、私にとって非常に興味深かったのです。フェルメールが光を点で表現する「ポワンティエ」と呼ばれる技法、カメラ・オブスクラの使用、科学的な視点、CGによる空間の再現、そして構図における「引き算の美学」などが紹介されました。
「カメラ・オブスクラ」の錯乱円を点描技法に
フェルメールは、17 世紀のオランダで発展しつつあった科学技術の産物である「カメラ・オブスクラ」を使用していました。カメラ・オブスクラとは、密閉した箱に凸レンズを取り付け、三次元の空間を二次元の平面に投影する装置です。当時の不完全な凸レンズを通して映像を見ると、光が強く反射している部分が丸くぼやけてにじむ「錯乱円」という現象が生じます(下写真、左下)。写真家の佐藤時啓さんの分析によると、フェルメールはこの独特な光の美しさを、白い点を置くような技法(ポワンティエ)によって表現したそうです。(下写真もどうぞ)

牛乳は実際には垂れない? 「心地よい視覚」の謎
また、フェルメールは、目の前にある光景をそのまま写実的に描いたわけではありませんでした。作品の 360 度鑑賞システムを CG で再現した奥窪宏太さんによると、絵の中で女性が傾けている壺の角度は、実際には牛乳が流れ落ちないほど浅いそうです(私も同じ違和感を感じていました)。さらに、画面に描かれた光の入り方を正確に再現しようとすると、奥に置かれたバケツは宙に浮いていなければ成立しないことも判明しました。福岡先生は、これらは正確に描きすぎることで、かえって真実らしさから遠ざかってしまうのを避けた結果ではないかと解説していました。フェルメールは人間の「ナチュラルな視覚」に寄り添い、心地よく見えるよう意図的に構図を操作したのではないかというのです。(下写真、上段もどうぞ)

描かないことのすごさ──『牛乳を注ぐ女』に見る構図の妙
さらに、近年の最新科学調査によって、驚くべき制作過程も明らかになりました。マクローXRPD や赤外線スキャンによる調査から、フェルメールは当初、背景に「水さし」や「保温用かご」を描いていたことが判明したのです(上写真、右下)。しかし、フェルメールは制作の途中で、それらを白く塗りつぶしたのです。つまり、余計な情報を取り除き極限まで無駄を削ぎ落とす「引き算の美学」を実践したのです。水彩画家の柴崎春通さんも、細部をすべて描き込まない「描かないことのすごさ」が、鑑賞者の想像力をかき立てると指摘していました。(上写真、下段もどうぞ)
『牛乳を注ぐ女』には、流れ落ちる牛乳に象徴されるように、動き続ける日常の一瞬を永遠にとどめようとしたフェルメールの意図が込められていました。そして、多くの専門家による分析を通して、その一瞬が緻密な計算と革新的な技法によって、時代を超える芸術へと昇華されていった過程が明らかになりました。今回も大変面白い番組でした。それでは、また。
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注1:NHK『解剖!マスターピース』の特集「フェルメールの『牛乳を注ぐ女』」より
