見出し画像

羽子板の羽根から紐解く、あの頃の記憶──昭和40年代、僕たちの正月遊び (元教授、定年退職645日目)

羽子板の「黒い玉」の正体を知っていますか?

年明けに、テレビ大阪『日本の職人』という番組で「羽子板の羽根づくり」という短い特集を視聴しました。私の家は男三兄弟でしたので、正月の羽子板遊びとはほとんど無縁でしたが、近所の女の子の家で少しだけ遊ばせてもらった記憶があります。とはいえ、数回ついただけで終わってしまい、私はすぐに飽きてしまいました。女の子たちはキャッキャッと言いながら楽しそうに遊んでいました(よくテレビで見るように顔に墨をつける遊びはしていませんでしたが)。今回の番組が取り上げていたのは、羽子板そのものではなく、板で突くとコンコンと乾いた音がする、黒い玉に色とりどりの鳥の羽が三枚付いた「羽根」のほうでした。もちろんプラスチック製ではありません。昔ながらの遊び道具が、いったいどのように作られているのか──それがとても気になったのです。(タイトル写真、下写真もどうぞ:注1)

『日本の職人』という番組で「羽子板の羽根づくり」の特集(注1)


羽子板の羽根を作る職人技に驚く

その羽根は、埼玉県毛呂山町の「サンコウ商会」という小さな工場で、職人さんが一人で作っていました。原料となる鳥の羽をまずドラム缶のような機械に入れ、じょうろで水をかけます。回転させながら加熱し、二十分ほどで乾燥が終わると、しわくちゃだった羽がピンと広がりました。乾燥によってシワが伸びるのでしょう。次に、専用のカッターで製品の形に切り出し、羽に付いた油分を水で洗い流します。さらに赤などの染料で色づけすると、見覚えのある「羽」が出来上がっていきます。一方、黒い玉の正体は「ムクロジ」という木の実でした。殻をむくと黒い玉が現れ、机に落とすとコンコンと乾いた音がします。その玉に電動工具で穴を開け、先ほどの羽を接着剤で取り付ければ完成です。作った職人さんは、お正月用の土産物として、出店ではっぴを着て販売もされていました。室町時代からほぼこの形だと言われているそうですが、私は羽根の構造も作り方も知りませんでしたので、職人さんの手の動きを追うだけで面白い勉強になりました。(下写真もどうぞ)

乾燥によってシワが伸ばす(注1)
カットして染色する(注1)
黒い玉の正体は「ムクロジ」という木の実(注1)
羽を取り付ければ完成。そして、お正月用に出店で販売(注1)


羽子板の「羽根」からよみがえる昭和の正月

こんな番組を観ているうちに、懐かしさがこみ上げ、子どもの頃の昭和の正月を思い出しました。昭和 40 年代は、日本の社会構造が前近代的な共同体から高度消費社会へと変貌していった時代ですが、子どもたちにとっては、そんなことはあまり関係がありません。正月はほとんどの店が休みでしたから、外出するというより、家の近所で遊ぶのが基本でした。男の子の外遊びといえば、近所の路地や空き地での「メンコ」と「凧揚げ(たこあげ)」です。


路地裏は闘技場!メンコに学んだ物理・心理・経済学

まずメンコ。今にして思えば、ただの紙片の裏返し合いです。けれど当時は、いつ何を出すかという心理戦があり、どこに叩きつければよいかという物理法則の実践でもあり、さらにメンコそのものが通貨のように扱われる “取引” もありました。子ども社会の縮図だったのです(それほどのものか、と自分でも突っ込みたくなりますが・・・笑)。

昭和の路地裏や空き地は、子どもたちにとって神聖な闘技場でした。正月もいつものように、皆がお菓子の缶にメンコを詰めて集まります。挨拶もそこそこに、さっそく勝負が始まるのですが、まず問題になるのが「どこでやるか」です。平坦なコンクリートがよいのか、隆起のある砂利か、衝撃が吸収されやすい土にするのか。場所によって戦術が変わるので、その交渉が重要でした。風圧で飛ばすのか、てこの原理で縁を狙うのか、あるいは正面衝突で押し切るのか。実は地面ひとつで勝負が変わるのです。どれほど集めたのかは忘れてしまいましたが、たくさんあったはずのメンコは、いったいどこへ行ってしまったのでしょう。ほとんどは駄菓子屋の「パチモン」でしたが、それぞれに思い入れがありました。さすがに高学年になるとやめてしまったので、弟か、あるいは近所の小さい子に譲ったのでしょう。いやはや、懐かしい話です。


NASA 発の “黒船” ゲイラカイト襲来!  昭和の少年たちが熱狂した正月の空

もう一つの外遊びは、竹と和紙で作った凧を使う「凧揚げ」でした。父親に揚げ方を教わり、凧を持って走るのですが、なかなかうまく上がりません。近くの広場では、大人たちが悠然と高いところまで凧を揚げていて、うらやましかったことをよく覚えています。たまにお願いして糸を持たせてもらえると、それだけでうれしかったものです。そんなところに、突然 “黒船” が来襲します。そう、知る人ぞ知る、アメリカからやって来た「ゲイラカイト」です。後で知ったことですが、NASA の宇宙開発の過程で開発されたとも言われ、発祥はヒューストンだそうです。工学的に設計され、骨組みはプラスチック、本体はビニール製。微風でも容易に、和紙の凧の何倍も高くまで上がり、しかも安定性抜群でした。あまりにも高く上がるものですから、電線に接触したり、糸が絡まったりもします。正月明けには、電線に引っかかったままの凧をよく見かけました。今思えば危なっかしいのですが、正月の外遊びは不便で、野蛮で、それでもどこかエネルギーに満ちていた気がします。(下写真もどうぞ)

アメリカからやって来た「ゲイラカイト」(注2)

<奥様追記:空高く上がっている凧の糸を持たせてもらうと、上へひっぱる力が強く、自分の身体が持って行かれそうで怖かったことを覚えています>


正月の内遊びとしてのトランプ

一方、家の中ではトランプやボードゲームをよく楽しみました。親としては、頭を使う「神経衰弱」などをやらせたかったようですが、兄弟間で流行ったのは「戦争」や「うすのろまぬけ」「スピード」など、反射神経や動体視力がものを言うゲームでした。「大富豪」のようなやや複雑なゲームは当時はまだ知られておらず、大人数のときは「ババ抜き」や「七ならべ」が定番でした(毎年恒例の日テレ『BABA 抜き最弱王決定戦』では、今年はキムタクが最弱王になっていましたね)。


「人生ゲーム」は大人社会への予行演習だったのか?

当時は、まだファミコンなどのテレビゲームは登場しておらず、ボードゲームでもよく遊びました。小さい頃はダイヤモンドゲーム、そして少し大きくなってからは「人生ゲーム」です。少し調べてみると、『人生ゲーム』は 1968 年にタカラから発売されたそうです。この頃、日本社会は「豊かさ」を実感し始めた時期で、双六とは違う洗練された洋風の装いが新鮮でした。キャッチコピーは「人生山あり谷あり」。テレビ CM を通じて爆発的に浸透し、高度経済成長期の楽観主義と、人生の不確実性を同時に感じさせる言葉として記憶に残っています。革新的だったのは、それが単なるレースゲームではなく、就職、結婚、出産、住宅購入、株取引といった「人生のイベント」を疑似体験できる点でした。子どもたちは遊びながら「お金の重み」を無意識に学んでいきました。はっきり覚えてはいませんが、手形や保険といった金融リテラシーの入口のような概念も、いつの間にか刷り込まれていた気がします。

つまり、昭和の子どもにとって『人生ゲーム』は、大人社会への予行演習の一つでした。そこには「努力と運で、誰もが億万長者になれる」という、右肩上がりの経済神話が、自然に織り込まれていたのかも知れません。羽子板の羽根から始まって、そんな昭和の正月を思い出しました。本当に懐かしい記憶です。それでは、また。


ーーーー
注1:テレビ大阪『日本の職人』の特集「羽子板の羽根づくり」より
注2:株式会社「あおぞら」ホームページよりhttps://www.aozorapark.jp/archives/products

いいなと思ったら応援しよう!