筆と墨が紡ぐ日本の美意識──書道具の職人技から棋士の揮毫まで @有吉のお金発見 (元教授、定年退職648日目)
悪ガキと通った習字教室の思い出
小学生時代、週末に習字教室へ通っていました。家から 10 分ほどの教室で、地元の友だちもたくさん来ており、教室というより公民館での集まりのような雰囲気があって、楽しかった記憶があります。最初は先生のお手本を紙の下に置き、写して真似るところから始まり、少しずつ筆の使い方を習っていきました。月に一度、清書したものを本部へ送ってもらい、それが昇級試験だったようです。ただ、悪ガキの集まりでもありましたので、ふざけていることが多く、よく叱られました。結局、私は準初段のところでやめてしまい、あまり上達しませんでした。もう少し精進していれば、結婚式などで署名をする時に手が震えずに済んだのに、と今さらながら残念に思います。
研究者の字は上手い?下手?──“字と頭脳” の意外な相関
文字といえば、中学時代は「右下がりの文字」を 2H などの薄い鉛筆で書くことがクラスで流行し、高校時代には「丸い文字」がはやりました。私は、いまだに癖としてその丸文字が続いています。実は学会には、発表前に提出する「予稿集」という原稿があり、以前は手書きが一般的でした。学会でしかお目にかからない先生方の自筆を見られるのが当時はとても興味深く、几帳面な字から殴り書きのような字、クセの強い字まで、今でも文字を見ただけで「誰の字か」わかるほど個性的でした。そこで痛感したのは、研究力(頭の良さ)と字のうまさは必ずしも比例しないということです。むしろ反比例しているのでは・・・と思ったこともあります(笑)。
『有吉のお金発見』で知る、熊野筆と奈良墨の凄さ
先日、NHK『有吉のお金発見』で、書道を支える二大用具である「筆」と「墨」の伝統製造に密着し、緻密な職人技と工程を解き明かしていました。番組では、広島・熊野町の「熊野筆」と、奈良市の固形墨「奈良墨」が取り上げられ、素材選定から仕上げに至るまでの手業が丁寧に描かれました。まず、広島県・熊野町は国内随一の筆産地として知られ、国産筆のおよそ8割を担うとも言われています。筆作り歴 40 年以上の伝統工芸士・大久保さんが工程を説明してくださり、動物毛の厳選から始まり、油分の除去、毛の選別・長さづけ、芯作り、衣毛巻き、焼きごてと糸締め、軸の装着、糊による形整えまで、繊細な作業が途切れなく続いていました。(下写真もどうぞ)

ヤギの毛が織りなす芸術──伝統工芸士が作る「最高の筆」とは
毛材の選定では、ヤギの毛は柔らかく墨含みが良いため行書・草書向き。馬の尾、タヌキ、イタチなど、硬く弾力のある毛は楷書向きだそうです。さらに硬毛と軟毛を混ぜたり、リス、ウサギ、イノシシ、猫など 10 種類以上の動物毛を、適材適所で使い分けるとのことでした。熱で油分を水中へ引き出し、墨を含ませる準備をした後、適量の毛を取り、先が傷んでいる毛や逆向きの毛を抜き取ります(毛の表面構造、いわゆるキューティクルの向きが関わるのです)。さらに根元側をハサミで切って長さの段を作りますが、ここで驚いたのは、毛先は切らず、天然の尖りを生かすという点でした。その後、長さの異なる毛を水分でなじませながら薄く伸ばして混合し、芯を形成します。ここで均一に混ざっていないと筆が割れ、書き味に悪影響が出るため、芯の混合は書き味を左右する重要工程なのだそうです。最後に毛の太さを調整し、根元に焼きごてを当てて毛をまとめ、糸で締め上げ、軸を取り付けて形を整え一本の筆が完成します。扱い方次第では一本で4〜5年もつとのことです。最高級品には 100 万円の筆もあり、ヤギの胸の柔らかい毛だけを用いた逸品まで紹介されていて、もはや「筆」というより芸術品でした。(下写真もどうぞ)


<追記1> 熊野筆は化粧筆としても世界的評価が高く、チーク用やアイシャドウ用など用途別に展開されています。優しい肌触りと化粧ノリの良さで、トップメイクアップアーティストからも支持されているそうです。
奈良墨が支える書道文化
番組では、固形墨「奈良墨」の製造についても紹介されました。奈良墨は国産固形墨の大半を担い、約 1400 年の歴史を持つとも言われています。時の経過に色あせにくい漆黒の深みが特徴で、使用者が濃度を自ら調整でき、好みの風合いを引き出せる点が支持されるのだそうです。迫力のある作風の書には固形墨が合いやすい、という評価も示されていました。
原料は主に煤(すす)と膠(にかわ)で、製法は練りから乾燥に至る長期工程が品質を決めるといいます。煤は燃焼で生じる黒色微粒子、膠は動物の皮や骨を煮詰めたゼラチン質で、冷えると固まる接着機能を持ちます。まず原料を混ぜて「炭玉」を作り、足で全体重をかけて強く練ります。この練りが極めて重要で、墨の質を左右するため均質化と滑らかさが徹底して追求されます。練り終えたら型入れしてプレスし、その後、段階的に乾燥させていきます。型出し直後の墨は羊羹のように柔らかく、2〜3か月かけてじっくり水分や揮発成分を抜くことが、割れの防止と内部の均質化につながるのだそうです。(下写真もどうぞ)

<追記2> 現代の表現として、筆と墨による躍動的な「墨絵」も世界から注目を集めています。(タイトル写真、下写真もどうぞ:注1)

囲碁棋士の揮毫はサインではない
現代の囲碁棋士にとって、筆を執り文字を書く「揮毫(きごう)」は、対局に次ぐ重要な職能の一つです。NHK『囲碁フォーカス』で、「棋士の書」を視聴しました。ファンに贈る色紙、対局場の床の間に掛けられる掛け軸、記念品としての扇子など、棋士が揮毫する場面は多岐にわたっています。これは単なる有名人のサインとは一線を画し、自身の棋風や人生観、そして勝負哲学を「書」という視覚芸術を通じて表現する行為でもあります。(下写真もどうぞ)

囲碁棋士が揮毫に込める勝負哲学
「昭和の棋聖」呉清源が揮毫した「闇然而日章(あんぜんとしてひあきらか)」、七番勝負の鬼と呼ばれた趙治勲の「孤雲」、林海峰・名誉天元の「流水不争先(りゅうすいはさきをあらそわず)」、小林光一・名誉棋聖の「天道」。さらに、書家としても知られる藤沢秀行の「迷走」「無悟」などがあります。現役勢では、前人未踏の七冠独占を二度成し遂げた井山裕太が、自身の原体験に基づく言葉として「負けて泣いても、強くなれないんだよ」を掲げ、一力遼・棋聖が揮毫した「而今」は “今この瞬間” という意味で、過去や未来にとらわれずいまを大切にする思いが込められているそうです。(上写真もどうぞ)
番組では、囲碁をめぐるアート展で多くの棋士の作品も展示されていました。書だけでなく、詰碁やイラストなど、表現の幅の広さにも驚かされます。最後に、今年新人王を獲得した三段の若手に話を聞くと「まだ書いてないんですけど、それに向けて練習はしてるんですけど・・・まあ一応、やれって言われました」と、照れながらもうれしさをにじませていました。棋士の魅力が詰まった書の数々。そこに記された文字や言葉には、棋士の思いや生き様が映し出されていました。それを知ることで、囲碁の世界が少しだけ身近になった気がします。
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注1:NHK『有吉のお金発見』の特集「筆と墨」より
注2:NHK『囲碁フォーカス』の特集「棋士の書」より
