沈み浮く僕らに
【あらすじ】
地震や温暖化により、一日二十八時間になった“新現代”。 日本の砂浜は消え、都市は海に沈んだ。
高校で日本史を教えている千葉は、恋人なしの三十七歳男性。楽しみは、村立図書館で本を借りること。図書館で働くサトウ(女性)が気になっている。
三連休前日の金曜、仕事を終えた千葉は図書館へ向かう。雨具がなく困っているサトウを、千葉は家の近くまで送る。送るだけのはずが、サトウから晩ご飯をごちそうになることに。
最低限しか話したことのない二人。“旧現代”に思いを馳せつつ、話が弾む。
時間の使い方。身内の死。残された自分。
二十八時間を生きる二人と、二〇二〇年代を見つめるファンタジー小説。
僕が海へ行ったのは、修学旅行を除けば六回。六回とも夏の家族旅行で、一回目は父と母と僕、二回目以降は父と母と僕と妹。六回目の夏の夜、十歳の妹は海に落ちて死んだ。
いやいや、暗いよ。暗い暗い。ただでさえ、夜の職員室に僕一人で暗いのに。そもそも、なんで海のことなんか考えたんだ? 海。海。机の上に広げた日本史の資料にも、真っ暗な窓の外にも、職員室にも、海に関する何かは見当たらない。
いや。思い出した。隣の席の川原先生が「千葉先生、千葉先生。俺ね、連休に家族と海行くんすよー」ってムキムキの笑顔で話しかけてきたからだ。連休。海。家族。子ども。僕は求めていない。川原先生以外の先生たちも、明日からの三連休に予定があるのか、皆さっさと帰ってしまった。
ノートパソコンがピピッと通知音を鳴らし、使用可能時間があと三十分であることを知らせる。皆帰ったのをいいことに、職員室で一人だらだらと資料を作っていた。のんびりし過ぎたか。早くしないと、図書館に着くのが遅くなってしまう。ああ、こんな日こそサトウさんに会いたい。金曜はカウンターにいるはずだ。
いーやいやいや。サトウさんも一旦後だ。今は資料に集中。集中。来週から、三年生に旧現代を教える。資料、どこまで進んだっけ。庭ない(二〇七一年)植物維持法、兄さん号令(二一三五年)世界統一、もう少しか。よし。
戦争。疫病。異常気象。地球温暖化。富士山噴火。めくるめくテクノロジーの進化。自然災害や病と闘いながら文明が進化した旧現代は、江戸時代や明治時代に似ている。人口が半減し、「戦争なんてやっている暇などなく、私達はともに協力し、助け合う道を歩まねばならない」と宣言した世界統首がいなかったら、僕は今この世にいないだろう。
日本から砂浜がなくなり、都市と呼ばれた地域は海に沈んだ。人工の砂浜だらけの、今の海に興味はない。海に沈んだ地域のほうがずっとずっと興味深い。
温暖化による海面上昇、地震の多発などの諸々で地球の自転速度が遅くなり、一日は二十八時間になった。森林破壊に世界恐慌、極めつけは横断戦争。昔の人間はだいぶ無茶をしたらしい。旧現代は、高校の日本史の教科書ではたった十二ページ。僕はそれを怒っているわけでも、許せないわけでもない。東京や大阪が沈まなければ、この世はどう変わってたか。十二ページじゃ足りないほどの何かが起きてたかもしれないな、とは考える。怒も哀もない。
とりあえず、二一五〇年までで充分だろう。海洋生物国際保護法あたりの説明で時間がかかるだろうし。印刷は火曜でいい。
期限切れの非常用プロテインを飲みながら、パラパラと教科書をめくる。ああ、中世も僕はごめんだ。鎧をまとい、刀を振るなんて、どれだけ体力がいるんだ。腕立てすらしんどいのに。川原先生なら、褒美を貰えるほど腕を振るうんだろうな。腕だけに。あの人、左手で辞書を上下に動かしながらパソコン見るんだよな。国語教師で書道部の顧問なのに。そうだ。そうだった。僕の右隣で辞書ダンベルがちらつくせいで、資料作りが進まなかった。
その上、校長先生から「申し訳ないんだけどねぇ、千葉先生。船場まで送っていただけないかしら。最終便に間に合いそうになくって」の割り込み。
外では、ジーッジーッと虫が数匹鳴いている。車もバイクも通らず、たまに鳴るのは、虫と僕の腹の音。腹減ったな。図書館で腹の音を鳴らすわけにはいかない。特に、サトウさんの前では。
干し芋を食べようと右下の引き出しを開けると、校長先生からもらった羊かんが入っていた。麻雀牌ほどの小さな羊かんが二つ。すっかり忘れてた。バスを逃した校長先生を船場まで車で送った帰りに、渋々もらった。
「千葉先生、すみませんねえ。お忙しいところ」と謝る校長先生を利用して、パソコンの使用上限を一時間延ばしてもらった。お礼の羊かんは正直なくても良かったが、資料作りに糖分は必要だったな。甘さが渋くて旨い。ああ、僕はことごとく気づくのが遅い。真面目にいろいろ考えてるはずなのに。
職員室の時計の短針は六を指している。まだ二十時。今日はあと八時間もある。長い。人生は長い。さほど趣味がない人間に、一日二十八時間もいらない。一日二十四時間の旧現代に生きていたら、ちょうどいいと思うのだろうか。ちょうどいいってなんだ。ああ、連休だろうが、僕が休みにやることなんて食べて読んで寝るぐらいだ。校長先生は船とバスを乗り継ぎ、中央にいる孫に会いに行くらしいが。
金曜。二十時。村立図書館はまだ開いている。僕だって浮かれたいよ。サトウさんに会いたい。
・
村立図書館まではひたすら山道で、道は一つしかない。川原先生も車を持っていて、「山奥で他に道はないなんて、なんか窮屈っすよねー。ドライブの楽しみがないっていうか」と溜め息を放っていた。まあ一理あるが、僕は楽でいいと思う。他に道がないから、選ぶ必要がない。
僕が出かける範囲はとても限られている。中古でこのカリウム自動車を買ったはいいが、隣町へ行くには船を待たなければならない。時間を持て余しているのに待つ時間があるというのは、どうも歯がゆい。
九州も海面上昇や地震の影響を受け、この三百年で陸地が三割減った。県という概念は日本からなくなり、九州は北部と中央、南部の三つに分かれた。僕が今住んでいるのは、北部と中央の境目、昔でいう福岡と熊本の県境あたりだ。
車も人も見当たらない道をひたすら走る。窓からは生ぬるい風が入り、苦い緑が匂う。今日は三日月。爪の先みたいに細い。金曜の夜、多くの人は家族や恋人や友達なんかと過ごすのだろう。助手席を埋めてくれる人は僕にはいない。サトウさんで埋めたいが、図書館で働く女性にどう声をかけていいのか分からないまま三ヶ月が経った。
二一〇〇年には世界人口が百億を超え、十年後に半分減るなんて誰か予想できたんだろうか。一九九九年にはノストラダムスの大予言、二〇九九年にはハインリッヒの大予言、二一四九年にはアーヤーの大予言があったらしいが、ぜーんぶハズレ。でもきっと、世界滅亡や巨大地震を信じて不安な人もいただろう。『月刊謎』の最新号、確か予言特集じゃなかったか? 図書館に残ってるかな。
僕が旧現代を生きてたら、予言を信じただろうか? 見えない謎に興味はあるが、明日がどうなるかなんて誰にも分からない。台風で家がつぶれて急に死ぬ人も、交通事故で突然歩けなくなる人もいる。妹が海に落ちて死ぬことも。天気予報だって地震予測だって未だに正確じゃない。分からない。来年も来週も明日のことも。
住宅街を走ると、地震や海面上昇で無念に沈んでしまった人たちの時間を生きていると実感する。部屋の一つ一つに人生が詰まり、喜怒哀楽が充満している。時計の針が十四ある現代を、僕は無駄なく生きているだろうか、精一杯今を生きているだろうか、とこうして時々自問自答しては、しっかり生きねばと思う。そんな一日は途端に有意義になるが、今決意したところで図書館に向かうだけだ。
皆が浮かれる金曜の夜だって、海を考えれば妹は出てくる。妹が生きてたら、休みの日に何をするだろう。誰と会って、どこに行って、何をして遊ぶんだろう。本を読む子に育っただろうか。妹を見殺しにした僕は、せめて妹のことを忘れないでいたい。浮かれる日であろうが。
休みなく運転し続けると、僕の唯一の楽しみである村立図書館が見えてきた。山に囲まれ立地は悪いが、二階建てでなかなか広い。確か、避難場所も兼ねてるとか。電灯の下、駐車場も駐輪場も数台。よし。ゆっくり本を選べそうだ。
カウンターには女性が二人座っている。サトウさんといつものおばちゃん。やることがなく暇なのか、入口のガラス越しで見る二人は、何かを話しては微笑んでいる。
僕が入ると「こんばんは」と二人から笑顔で挨拶され、僕は「こんばんは」と無表情で返す。担当クラスの学級委員長である小林さんが「千葉先生が笑うの、見たことなくない?」と教室で話してたのを聞いて以来、僕は無表情であることを意識するようになった。しかし、急に笑顔を見せても「千葉先生、急に笑って怖くない?」と言われそうで、これまで通り表情は特に変えないことにした。
十日前に借りた五冊を、サトウさんに渡す。
「ありがとうございまぁす」とゆっくり話すのは、サトウさんのいいところの一つだ。いいところしかないのだが。
僕は少し頭を下げ、特に何も言わずカウンターを去る。話そうにも、何を話せばいいのか分からないし、サトウさんもおばちゃんも話しかけてこない。
図書館で働く人たちのエプロンに名札はない。「サトウちゃん、お願い」とカウンターでおばちゃんが口にしたのを、春に聞き逃さなかった。サトウさんは四月からこの図書館にいる。二十代後半だろうか。いつもポニーテールで、黒い前髪が眉毛を隠している。
上の服装はおそらく指定があり、深緑のエプロンに白のワイシャツ。下は黒の膝丈スカートだったり、水色のジーンズだったり。今日のサトウさんがスカートか他の何かかどうかは、カウンターからは分からない。
図書館で働いているのはサトウさんと年配のおばちゃん、ショートヘアで三十代くらいの女性、眼鏡で小太りのおじさん、眼鏡で細身のおじさん。この五人しか見たことがない。
カウンターを通り過ぎると、雑誌コーナーが広がる。人気で大抵は誰かいるが、今日は無。雑誌の多くはバックナンバーもすでにない。『月刊謎』も一冊もない。残念。壁の時計は二十時五十分。閉館一時間前はさすがに遅すぎたか。
適当にスポーツ雑誌を持ち、カウンターに目をやる。奥にいるサトウさんは、おばちゃんに微笑んでいる。楽しそうだな。サトウさんは大抵が笑顔。動作はまあ、ゆっくりだが、気にするほど遅くはない。図書館ではゆっくりがむしろいい。
月替わりのコーナーにも一応寄る。今月のテーマは『機械と人類』か。『ヨーロッパと文明開化』『パソコンの歴史』『携帯電話が人類にもたらしたもの』など、なかなか堅い本ばかり。おそらく、企画したのはおじさんのどちらかだろう。どの本も女の子が興味を持ちそうになく、サトウさんっぽくはない。
僕が好きなのは、民族・歴史のコーナーだ。一階の隅にあり、待ちくたびれた本で賑わっている。学生がうろうろする夏休みを除けば、ほぼ僕しかいない。
今日は何を借りようか。『首都の歩んだ風景』。写真集か。たまには写真集もいい。適当に開いたページには海がなく、高い建物でびっしり埋まっている。まるで白化したサンゴ礁。山は遠くに見える、盛り塩のような富士山だけ。富士山の周り、温泉だらけなんだよな。行きたいな温泉。サトウさんと……なーんて。
机には人がまばら。二人組の男子学生は、もはや喋っている。何を話しているか聞き取れないが、にやにやと笑い、おそらく勉強はしていない。窓際の椅子に座っているおじさんは、右に傾いている。寝てるな。写真集は奥のソファで読むか。
海に沈んだ地域にとても興味がある。だから日本史の教師を選んだ。かつて首都として栄えに栄えた東京は、どんな街だったのだろう。この前借りた本には、満員電車が載っていた。千四百万人が住んでいたなんて、そりゃあ電車も道も窮屈だろう。
東京のビル群。ひときわ高いビルは何階建てなのだろう。歩く場所など見当たらない。次のページには渋谷の交差点。人が魚群のように歩いている。どこを目的に歩いているのだろう。残ってほしかったな、東京。大阪も千葉も。
何の因果か僕の名字は千葉で、千葉の栄えた地域は今や海の底。ディズニーランドとやらに行ってみたかったな、と思ったタイミングで次のページにディズニーランドの写真が出てきた。城は日本史の教科書に出てくる城とはだいぶ違い、ずいぶんと洒落ている。ここも人がぎゅうぎゅう。だが皆笑っている。
沈んでしまった地域を思うと、とても苦しい。膨大な時間をかけてたくさんの物を作ったのに、たくさんの人が生きていたのに、蘇らないなんて。人の少ない田舎やほぼ手入れしていない山ばかりが残ったのは、何の因果だろうか。現代は平和ではあるが、ない物ばかりだ。海と時間だけが膨大にある。
なんだ、ないって。ここには読みきれないほど本があるじゃないか。金曜の夜じゃないか。他に借りる本を探そう。選ぶ行為は楽しくもあり、苦しい。この図書館は五冊しか借りられない。来週から旧現代の授業が始まるし、写真集を生徒に見せてもいいかもしれない。
旧現代の日本の写真集を三冊、海洋生物保護関連を二冊。趣味というより仕事だな、このラインナップ。つくづく僕は真面目だな。嫌になる。サトウさんは僕が借りる本を見て、どう思うんだろう。温泉の本を一冊はさめば、アピールに……ならないな。温泉に行きたい人。温泉に興味ある人。温泉の本を借りたって、思われるのはそんなもんだろう。
カウンターまで戻り、サトウさんへ本と図書カードを渡す。
「お願いします」
「はぁい。ありがとうございまぁす」
ピッ……ピッ……ピッ……ピッ……ピッ。
一冊ずつ、丁寧にゆっくりと本を機械に通す。
サトウさんは僕の名前を知っているのに、僕はサトウさんの下の名前も年齢も住所も知らないなんて不公平だ。こっちだけが筒抜けなんて。
「二週間後、七月二十六日にご返却お願いしまぁす」
サトウさんが作り出すゆったりとした空間、このたった数分に僕は焚き火のように癒やされる。夜にゆらゆらと揺れる、神々しい光。
学校は皆せかせかと動く。僕も、資料だ授業だ採点だなんだとあれこれ動いて一日が終わる。嫌になる。
「ありがとうございます」
本をわざとゆっくり袋へ入れる。僕が毎月図書館に来ていることをサトウさんは把握しているのだろうか。何十人、何百人と本を借りるうちの単なる一人だろうか。外で会っても僕の名前を思い出してくれるだろうか。
重くなった袋を持ちカウンターを離れると、ザザザザザと降る大雨の音が図書館中に響き出した。雨予報ではなかったのに。ゲリラ豪雨か。困ったな。駐車場は屋根がない。運転も厳しい。待つしかないか。
入口では、さっきの男子二人が外を見ている。ガラス窓には雨が容赦なくボラボラボラと打ちつける。
「げー。ゲリラやん」
「俺、チャリなんやけど」
「自販機行かん? 喉乾いたー」
「行く。俺もなんか飲む」
いい提案だな。どうせしばらく外には行けない。しかし、自販機のある休憩スペースに三人は気まずい。少し待とう。
雨はすぐに止む様子はなく、自己主張の激しい音をザザザザザと立て、降り続いている。館内放送は聞こえない。
カウンターの前をまた通るのはどうも恥ずかしく、入口そばのベンチに座る。窓際で寝ていたおじさんも出てきて、外を見る。間もなくして僕の隣のベンチに座った。
先ほどの男子二人が紙コップ片手に下りてきた。豪雨なのは分かるが、声が大きすぎるな。
「いいな。俺も車乗せてほしい」
「おーいいよ。じゃ、ちょっと母ちゃんに電話する」
「うん。ごめん」
二人はトイレそばの公衆電話へ向かう。この雨じゃあ運転できないよ、少年。ワイパーフル稼働でも雨しか見えないだろう。
階段をのぼり休憩スペースに着くと、誰もいない。雨の音だけがガンガンに響く。窓の外はぼんやりしていて、駐車場とは分からない。
紙コップ式の自販機はこの図書館でしか見ない。二百円を入れてボタンを押すと、紙コップが降り立ち、ホットコーヒーが注がれる。雨音で何も聞こえない。こんなに雨ばかり降れば、海はもっと広がるのではないか。なんでも量というものがある。紙コップも袋も車にも、入る量が決まっている。雨だけが地球ごと無視して、大量に降る。
休憩スペース後ろの壁には、ポスターが三枚貼られている。中央には一番大きな、学校机二つ分程のポスター。パソコンや携帯電話、ゲーム機、生クリーム山盛りのパンケーキ、肉だらけの丼などの写真が、赤文字で書かれた『旧現代展 二〇〇〇年からの百年』を囲む。なんて贅沢な物ばかり。右端には『華々しく発展した機器と料理』の黄文字。
おそらく、月替わりのコーナーを企画した人が考えたのだろう。でも料理は少し強引に思う。二〇〇〇年からの百年……。確かに華々しく発展したが、戦争や地震や世界恐慌など暗い出来事も多かった。機器と料理。企画したのは意外とおばちゃんだろうか。
ちょんまげが当たり前だった時代と同じくらい、携帯電話やパソコンを一人一台持っていた時代を信じられない。度重なる地震や台風でインターネットは使い物にならず、さらに貴金属はほぼ海の底。金属を含む機器の多くは法律で没収対象に指定され、文明は逆戻りし、今は紙が基本となってしまった。携帯電話は政治家、自治体、病院や消防署、警察、インフラ業界などの限られた人しか所有を許されない。これが新現代だなんて。
嘆きと呆れをコーヒーで飲み込み、借りた本を開く。写真はかつての首都、東京。渋谷のページはカラーで、ストローがささったカップを持つ女の子が大きく映っている。ミニスカートもパーカーもピンクで、髪は淡い紫。カメラ目線でピースして、ウインクしている。カップの上には生クリームが山盛り。チョコの飲み物だろうか。
さらにページをめくると、缶バッジを大量につけたバッグ、笹を食べているパンダ、駅にも人が溢れている満員電車、夜の東京タワー。飲食店が並ぶ写真はあっても、店内の写真はない。料理の写真はハンバーガーと蕎麦、鰻しかなかった。
街が海のように広がり、機器も服も食べ物も潤沢にあった時代。これを本当の自由と呼ぶのだろう。選択の自由。今は資源不足で選ぶ余地がない。楽でいいが、村に移動百貨店が来るのは半年に一度、スーパーの棚はいつ行っても全部は埋まっていないし、服屋はほぼ古着。市内へ行くには船を何度も乗り継がないといけないなんて、それもまた不自由だ。
「あら、そろそろ玄関閉めますよ」
カウンターにいたおばちゃんだ。布巾らしきものを持っている。
「すみません。出ます」
二十二時半か。すっかり東京に浸かっていた。
雨は弱まり、ワイパーを全開にする必要はなさそうだ。
正面の入口を出て右に、駐輪場が続く。駐輪場を通れば、少しの間は雨をしのげる。車までは走っても濡れるが、仕方ない。雨の匂いがしつこい。
駐輪場の奥、ベージュの上着にポニーテールの女性がいる。もしかしてサトウさんか? 駐輪場の屋根をどこまで頼るか考えながら、女性に一瞬視線を移す。だんだん近づく。どこから車に向かって走ろう。だんだん近づく。どこから走ろう。だんだん近づく。横顔、ポニーテール、厚ぼったい唇。
サトウさんだ。
猫の前足のようにふんわりと手をサドルに置き、雨を見つめている。誰かを待っているのだろうか。迎えか? 迎えなのか?
首が心配になるほど、サトウさんは急に僕のほうに顔を向けた。目が合う。
「あ、あの……」
「はい」
「あの、突然すみません。私ここの職員なんですが、今日自転車で来てしまって。その、予備の傘とかカッパとか持ってませんか」
僕に助けを求めている。僕に。
「えーっ……と、車にあるかもしれません。ちょっと待っててもらえますか」
「本当にすみません。お願いします」
頼られている。サトウさんに。走りながらつい笑ったのは、誰にも見られていないだろう。傘、あったかなあ。カッパは確か置いてない。
それよりも、だ。それよりもそれよりもサトウさんに話しかけられた。しかも図書館の外で会うのは初めてだ。僕、気持ち悪いな。ずっと笑ってる。
トランク、収納、座席の下、後部座席、どこにも傘はない。折りたたみ傘もない。やっぱりカッパはない。せっかくサトウさんに話しかけられたのに、頼られたのに、助けられないなんて。
待てよ。家に送るのはアリだろうか? いや、僕を知っているとしてもいきなり女性を車に乗せるのはまずいだろう。そうだ。おばちゃんがまだ図書館にいるはず。
車をサトウさんに近づけて止め、降りる。
今日は黒のジーンズだ。相変わらず脚が細い。ちゃんと食べてんのかな。
「すみません。傘もカッパもないです」
「そうですか。ありがとうございます。お手数をおかけしてすみません」
「カウンターの女性の方がさっきいらっしゃいましたので、忘れ物の傘とか借りられないか聞いてみたらどうですか」
「あっ、えっと……実は傘を貸しましょうかって言ってくれたんですけど、断ってしまって」
なぜ断ったんだ。
「まだ雨降ってますし、言えばきっと貸してくれますよ」
「その、なんか、えっと……なんだか言いにくくて」
言いにくい? おばちゃんと仲が悪いのだろうか。
「大丈夫だと思いますよ」
「あっ、えっと……うーん、一回断ってしまったら言いにくくて」
これはどうしたもんか。言いにくいのに、もう一度言ってみたら……なんてアドバイスは野暮か。送ってもいいか聞いてみようか。いや。送るのはまずいか。いやいや。傘を借りられないなら送ったっていいだろう。やっぱり駄目だろうか。いーや。三十七にもなって何を期待してるんだ。サトウさんは僕なんかに興味ない。
「急にこんなこと言うのもアレですが、近くまで送りましょうか? 無理なら気にせず断ってください」
サトウさんは驚きつつ、笑っているように見える。これはどっちだ? 送るなんて嬉しいです、の笑顔だろうか。それとも、送るなんて気持ち悪いですよ、の笑いだろうか。
「無理ではないです。ぜひお願いします」
無理ではないのか。いいのか。いいんだ。
「では、どうぞ」
「ほんとにすみません。ありがとうございます」
助手席でベージュが輝く。近い。眩しい。せっけんのような爽やかな匂いがする。校長先生が乗る前にセットした消臭剤、正解だったな。
「ご自宅はどちらですか?」
「最初の信号を右です。あっ、案内します。お願いします。すみません」
「分かりました」
女性を乗せたのは、船場まで校長先生を送って以来。その前はいつだ? 助手席に意識を奪われる。いやいや。緊急事態の時ほど落ち着けと生徒に伝えているのに、自分が落ち着かなくてどうする。今は運転に集中。集中。集中。
「すみません。助かります」
「参りますよね。ゲリラ豪雨」
「いつもならカッパを持ってきてるんですけど、今日ギリギリに家を出てしまって」
「そういう日もありますよね」
「ありますよね。あ……えーっと、お名前、確か千葉さんですよね。先ほど本を借りていただいた時に覚えていて」
覚えてくれてる。ああ、顔を見ながら話したい。集中。集中。
「そうです。千葉です。自己紹介もせずに失礼しました」
「わっ、私こそ先に名乗らずすみません。山内と申します」
ヤマウチ? サトウじゃないのか?
「あの、ほんとに大変失礼ながら、山内さんなんですか? てっきりサトウさんかと」
「あっ、サトウはあだ名なんです。職場の方がつけてくれて。私、甘い物が好きで砂糖ちゃんに」
まさか砂糖だったとは。
「甘い物お好きなんですね」
「はい。とっても。洋菓子も和菓子も果物もなんでも好きです」
「美味しいですよね」
思いのほか会話が続いて安心する。
「あ、次の信号、定食屋さんを右でお願いします」
「分かりました」
帰りにここ寄ろう。通り道じゃないから滅多に来ないし。それに、サトウさんと今度会った時に「角の定食屋寄りました」って話せる。さすがに自然だろう。いやらしくないし、変なアピールじゃないし。
「しばらく行くと避難スーパーが見えるので……あっ、その駐車場を左でお願いします」
「はい」
駐車場を曲がると店は一気に減り、住宅街が広がる。この辺は自販機が残ってるのか。恵まれてるな。サトウさんはどんな顔でどこを見ているのだろう。ワイパーが知らない土地を往復する。
「あっ、この辺りで大丈夫です」
広場やアパートばかりで、サトウさんを雨から守る場所はない。だいぶ小降りになったが、傘なしでは濡れてしまう。さすがに自宅まで送るのは良くないか。この辺り、とわざわざ言ったのは自宅を知られたくないからだろうし。付き合った人数が一人でも、さすがに分かる。
「分かりました」
左に車をじわじわと寄せる。このまま長距離ドライブして、本州まで連れ去ってしまいたい。サトウさんも左を見ている。うなじ。耳。うなじ。いや、集中集中。
ヤマウチさんだと知ったのは大きな収穫だ。甘い物が好きなことも。この辺に住んでることも。
「あの……あっ、ありがとうございました」
「いえ。なんてことないです」
明日も来週もいつだって送るのに。
「とても助かりました」
「また図書館で」
「あっ……あの……はい。また……また図書館で」
サトウさんはゆっくりとドアを開け……ない。閉めた。閉めた?
「あの、あのっ……お礼をしたいので、良かったら寄っていきませんか」
寄っていきませんか?
「辛い物は平気ですか? 今朝から鶏肉を漬け込んでいて、その、良かったら一緒に食べませんか?」
一緒にと聞いたのは本当か? あと、えらい早口だな。
「あ、えっと……」
どう返すのが正しいんだ。
「お礼ももちろんしたいんですけど、一人暮らしで食べ切れそうになくて」
一人暮らし。もちろん行きたいが、行っていいのか?
「その……いいんですか?」
「もちろんです。ぜひ」
「でも……」
「来てもらったほうが、鶏肉も喜びます」
僕も喜ぶ。
「うーん……ではせっかくなので、お言葉に甘えてごちそうになります。すみません」
「いえ、嬉しいです。あの、あっ、えっと、そこの広場に車停めていいので」
「分かりました。すみません」
「私、傘持ってきます」
砂利だらけの広場に駐車すると、サトウさんは遊園地に着いてはしゃぐ子どものようにドタバタと車から出て行った。さっきから早口だし、走るし、いつものサトウさんではない。こっちが素なのか?
いやいや。早口とかどうでもいい。サトウさんの家に呼ばれた。一大事だ。
広場には他に車が二台停まっている。きっと広場の持ち主は分からないんだろう。看板は見当たらず、おそらくこの辺りに住んでいるだろう人達が駐車場として勝手に使っている。
落ち着かない。
広場に意識を向けたとて、母子家庭のアパートに訪問するのとは、わけが違う。図書館の利用者、職員という関係の二人が車で二人きりになり、今度は職員の家で二人きり。落ち着かない。人生はいつだって本当にどうなるか分からない。
サイドミラーに、傘をさすサトウさんが映る。待てよ。サトウさん、ヤマウチさん、どっちで呼べばいいんだ?
車から出ると、サトウさんはみかんを混ぜたようなオレンジ色の傘を渡してくれた。
「ありがとうございます」
「小さいかもしれませんが」
「いえ。助かります」
「今更なんですが、図々しくいろいろとごめんなさい」
「いや、時間ありますし気にしないでください。こちらこそ、ごちそうになるなんてすみません」
「あっ、その、でも、あまり期待はしないでください」
サトウさんは一瞬見えた上向きのまつ毛も、傘を持つ手も、隅々まで眩しい。川原先生に「気になる人はいないんですかぁ?」とガサツに聞かれたのを思い出した。いてもいなくても川原先生には「いません」としか答えないが。
・
僕が図書館に着く時間が悪いのか、サトウさんはほぼカウンターにいる。本棚にいたのが一回。正面入口ですれ違ったのが一回。最低限の会話しかしてこなかった僕らが、傘をさし、並んで歩いている。これからサトウさんの家に足を踏み入れるなど、人生は本当に何が起こるか分からない。
歩いて数分、二階建てアパートの角部屋に通された。無機質な一面コンクリートはサトウさんに似合わない。玄関の棚にはドーナツを持ったくまのぬいぐるみが置いてあり、どこか安心した。
「スリッパ、使ってください」
ピンクのふわふわのスリッパを出された。僕が可愛いスリッパを履くなんて、誰が予言できる?
「ありがとうございます」
一人暮らしにしては広いキッチンを通り抜けると、リビングが現れた。壁と天井はコンクリートで、床はフローリング。中央にはガラステーブル。サトウさんのイメージに合うのは、木製の大きな本棚と、椅子に座っている白いうさぎのぬいぐるみくらいだ。
「適当に座ってください。お茶出しますね」
「いえ、お構いなく」
サトウさんはキッチンに立ち、ポニーテールを罠のように揺らす。細い。後ろ姿を見ていると、守りたくなる。いやいや。違う。慌てて本棚を見つめる。上から下まで、ぎっしりと本が詰まっている。さすが図書館で働くだけある。
「お茶どうぞ」
テーブルに、お茶が入った白いマグカップが二つ。二つ。
「ありがとうございます」
「良かったら本読んで構わないので。あの、私、ごはん炊きます」
「何か手伝えることがあれば、手伝います」
「あ、えっと……大丈夫です」
「何から何まですみません」
「いえ。わざわざ送ってもらって、せめてものお礼です。気にしないでください」
サトウさんはスリッパをぱたぱたと鳴らし、キッチンへと戻る。
待つ間、何をするのが正解なんだろうか。これが家庭訪問なら、適当に書類を眺めるんだが。サトウさんに言われた通りに、本を読むのが正解なんだろうか。何もしないのが正解なんだろうか。
『2000年代のおいしいもの』『日本の四季と和菓子』『旧現代を味わう』……食べ物の本ばかり。あんなに細いのに。
本棚の横の小さな棚に、固定電話が構えている。サトウさん、長電話で話すほど仲が良い友達はいないように見える。なんとなく。
「千葉さんは嫌いな食べ物ありますか?」
炊飯器をセットしたサトウさんは向かいに座り、お茶を飲み始めた。マグカップを持つ手が柔らかい。
「いえ、特には」
「それは最高ですね。実は、朝からヤンニョムチキンを漬け込んでいて」
「ニョム……? ニャンニョム? 初めて聞きました」
「韓国料理で二〇二〇年頃に日本でも流行ったらしくて。この前見たらとっても美味しそうで。あ、ちょっと待ってください」
キッチンへぱたぱたとまた向かい、本を持って戻ってきた。
「これです。ヤンニョムチキン」
日本史の教師を続けて十年以上。料理はほぼ専門外だ。これがヤンニョムチキンか。唐揚げに辛いタレがかかったように見える。
「美味しそうですね」
「美味しそうですよね。旧現代はとても興味深い料理が多くて、少しずつ作ってるんです。この前はチーズタッカルビを作って、美味しかったですよ。あ、パンケーキも」
図書館のサトウさんはゆっくりと立ち上がり、声が小さめで、おっとりな印象。普段もおとなしいだろうと思っていた。意外と早口でちょこちょこと動く。これは夢か? 夢なのか? 今は本を僕に見せながら、まるで生徒のように輝いている。僕にはもうない輝き。
「料理がお好きなんですね」
「大好きです。料理、楽しいですよ。休みの日は食べるか読むか、ばっかりです。千葉さんも読書が趣味ですか? 結構来られますよね、図書館」
ああ、僕を認識している。笑顔を押し込む。
「読書くらいしか趣味がないです」
「あの、お仕事は何されているか、聞いても大丈夫ですか?」
「はい。高校で教師をしています」
「先生ですか。すごいですね。本がお好きなら、教科は国語ですか?」
「いえ、日本史です」
「日本史ですか……日本史。あっ、そっか。そうか。そうかあああぁ」
何かを思い出したように叫ばれた。
「日本史がどうかしましたか?」
「あの、その、もしかして、民族コーナーの本を借りているのは趣味ではなく、日本史の先生だからですか?」
「うーん……そうですね、どちらもです。学校で教えるので、なるべく日本の歴史は知っておきたいですし、あと、単純に日本の過去に興味があります」
「あああぁ、なるほど。私はてっきり、日本の歴史が好きな人なんだと」
「間違ってはないですよ。その、日本の歴史と何か関係があるんですか?」
サトウさんは空のようにくるくると表情が変わる。晴れたかと思えば、曇り。
「実はその、あの……落ち着け……その、民族コーナーの本をあんなに借りる人いなくて。私か千葉さんぐらいなんです。どうにか話せないかと思ってその……今日声をかけてみたんです。本当はカッパ持ってきてて。ごめんなさい」
嬉しさが心臓を突き刺す。雨で困ってたからではないのか。嬉しい。金属を見つけた時くらい嬉しい。
「そうだったんですね。嬉しいです。サトウさんは日本の歴史に興味があるんですか?」
「あります。でも歴史全部ではなくて、旧現代が好きなんです。あ、図書館のポスター見ました? 企画展の。あれの料理、私が企画したんです」
今なら納得だ。
「見ました。あれ、サトウさんでしたか」
「旧現代をテーマにするって館長が言った時に提案したら、通っちゃって。楽しみにしててください。面白いですよ、二〇〇〇年代前半の料理」
「楽しみにしてます。日本史の教師ではありますが、その、料理までは分からないので」
「マリトッツォは知ってますか?」
「マリツォ……? 知らないです」
ヤンニョムチキンもマリトッツォも、暗号みたいだな。本に書かれているのは事実なんだろうか。誰かが想像した、架空の料理じゃないんだろうか。ビッグフットやネッシーみたいに。
「これです。マリトッツォ」
サトウさんは再び本を広げた。こりゃあすごい。バンズのようなものが、生クリームをぎっしりと挟んでいる。ボールに近い。作ったらいくらするんだ。砂糖も牛乳も高騰したままで、年にいくつもは買えない。
「これはすごいですね」
「すごいですよね。今じゃ考えられないです。こんな量の生クリーム。ブームの時は、コンビニやお寿司屋さんにもあったらしいんですよ。ご飯で具を挟んで、お寿司風のマリトッツォなんて、とってもいいですよねえ。すごく自由で」
早口を聞くのにまだ慣れない。
「いいですね。楽しそうです」
「そう、そうなんです。楽しそうなんです。二〇〇〇年代前半って料理がとても自由で、豊かで、羨ましいです。今は材料が限られていて全部は作れないけど、少しでもあの頃の味を楽しみたいなあと思うんです」
そんなこと考えていたのか。
「素敵ですね」
「素敵……ですか。ありがとうございます。あー、もうこんな時間。あの、ごはんが炊けるまでちょっと手伝ってくれますか?」
「もちろんです」
「ありがとうございます」
サトウさん、たぶん、いや、絶対に今が素だ。猫や犬がしっぽを振るように、いそいそとキッチンへ向かう。
壁の白い時計の短針が十を指している。もう二十四時か。早いな。
キッチンの壁にはお玉やトング、木べらなどが一つ一つフックにかけてある。コンロの奥には調味料らしきボトルが並び、日付が書かれている。開けた日付だろうか。
「では、えっと、千葉さんはサニーレタスを手でちぎってもらえますか。ほんと、適当でいいです」
女性の横でサニーレタスをちぎる未来は想像できなかったな。
「分かりました。サニーレタスはどこにありますか?」
「ここです。あ、お皿。このお皿に乗るぐらいで大丈夫です」
シンク上のボウルの白い布をめくると、サニーレタス。そして白い皿を二枚棚から出してくれた。二枚。
「なるほど。分かりました」
サトウさんは深い皿に白い粉を広げると、冷蔵庫からビニール袋を取り出した。赤い調味料にどっぷりと漬け込まれた鶏肉が、粉で白くなる。
「あの、すみません。そこのフライパンにごま油ひいて、中火にしてもらえますか。油、コンロのところにあります」
「分かりました」
ごま油をひくと、サトウさんはカットされた鶏肉を一枚ずつ並べる。ジュウジュウと豪快な音が室内を満たし、辛そうで間違いなく旨い香りが一気に漂う。
「わあ美味しそう」
「美味しそうですね」
今の僕らは、恋人か夫婦に見えるだろう。でも、そのどちらでもなく、友達でも、親戚でもない。これまで何冊も本を読み、なんなら僕は教師だ。人の歴史を教えてきたが、今の僕らをなんと呼ぶのか思いつかない。
チキンが焼けるのを待つ間、サラダとわかめスープを用意した。僕は普段ほとんど料理をしない。平日は疲れ、土日もそれなりに疲れているから、外食か惣菜かレトルトばかり。料理するとしても、具材を入れて炒めるだけのレトルトに頼りっぱなし。
料理をまともにしてたのは、元カノと三ヶ月だけ同棲してた時かもしれない。もう十年も前のこと。カレーと肉じゃが、野菜炒めを作ったのは覚えている。
炊きたてのごはん、ヤンニョムチキン、サニーレタスのサラダ、豆腐とわかめのスープ。こんな豪華な晩飯、家じゃ食べない。
「いただきます」
「いただきます」
ヤンニョムチキン、辛いのに甘さもあって旨い。濃い。これは確かに流行る。ごはんをおかわりしたくなる。サラダも旨い。ごま油を入れたからきつそうだったが、意外に進むな。
「旨いです、ヤンニョムチキン」
「美味しいですねえ。美味しくできて、ほんと良かったです」
「サラダも旨いです。名前なんでしたっけ」
「チョレギサラダです。これも美味しいですね。思ったよりさっぱりで」 顔見知りではあるけど、やっぱりまだ慣れないな。二人きりなんて。一緒に料理して、向かい合って食事するなんて。
サトウさんはささやかな笑顔で、ごはんやチキンを頬張る。毎日一人で料理して、一人で食べるのは楽しそうだけど、少し寂しくはないだろうか。
食事中も食べ物の話が尽きなかった。好きな食べ物、嫌いな食べ物、一度は食べてみたい物。僕の知らない、呪文のような料理がまた次々と出てきた。ユーリンチー、ルーローハン、シュニッツェル、ブリトー。明日には忘れそうな名前ばかりだ。サトウさんは嫌いな食べ物がほとんどなく、「強いて言えば非常食かな。やっぱりあったかい物はあったかくして食べたいから」と絞り出した。
「食後、コーヒーと紅茶どちらがいいですか? 私も飲みますので、気にせせず選んでください」
「すみません。お言葉に甘えます。ではコーヒーをお願いします」
「コーヒーですね。ちょっと待っててください」
食器を洗い、何もないテーブル。残された部屋に、僕がバグかのように座る。
任せきりでいいのか迷うが、呼ばれない限り他人のキッチンに立つのは良くないだろう。二十五時か。あっという間だな。さっき、偉そうにコーヒーを頼んだだろうか。
コーヒーのスモーキーな香りが近づく。
「コーヒとこちらぜひ」
嘘だろ。
「これはさっき見た……」
「マリトッツォです。でも、お腹いっぱいですよね。半分にして食べましょう」
すごい。本と同じで、間に生クリームがこんもり詰まっている。
「貴重な生クリームをこんなに。本当にすみません。ありがとうございます」
「いえいえ。実はあと二つあるんです。食べ切れそうになくて」
これが二つ。
「図書館には持って行かないんですか?」
「職場に持って行くのはちょっと……」
図書館の人達とあんまり打ち解けていないんだろうか。
「きっと喜ばれますよ」
「うーん……貴重な材料を使って、生クリームたっぷりのお菓子なんて持って行ったら、あんまりいい顔しないんじゃないかなあと思って」
確かにそれはあるかもしれない。ただでさえ、日本で住む場所は限られている。牛を育てる場所はさらに限られ、生クリームはとても貴重。地域によっては盗まれてしまう。
「なるほど」
「それに、お返しとか面倒じゃないでしょうか」
「面倒というより、嬉しいと思いますよ」
「そうでしょうか」
サトウさんは悲しそうに包丁でマリトッツォを切り、皿に取り分けながら答える。自分に自信がないのだろうか。こんなに好奇心旺盛で扉がたくさんあるのに。
「いただきますよ」
「はい。どうぞどうぞ」
生クリームは思っていたよりも軽く、そんなに重くない。しっとり冷たく、これもまた旨い。
「旨いです。すっきりしてますね、生クリーム」
「そうですね。想像よりもふわっと軽いですね。これは新発見です。意外とすんなり食べられそう。あ、もう一個出しましょうか?」
「いえいえ。これで充分です」
「コーヒーおかわりしたい時は、気にせず言ってくださいね」
「ありがとうございます」
頭の隅で、妹を思い出す。妹は僕が十二の時に死んだ。
妹が海から落ちた時、近くに誰もいなかった。当時小六だった僕は、中学をどこにするか、海の家で両親と話し込んでいた。僕は何もない村からとにかく出たくて、隣の市の私立中学に行きたかったが、親は「ナギちゃんが寂しがるから」と地元の中学を勧めた。妹の凪沙がいないと気づいたのはその時で、もう手遅れだった。
僕は、決してモテないわけじゃない。これまで、三人に告白された。でも女性と二人きりでいると、どうしても妹を思い出す。そして、それを誰にも言ったことがない。サトウさんにも言うつもりはない。妹が死んだなんて、そんな暗い話題をわざわざ持ち込みたくない。
凪沙は大人になったら、コーヒーを飲んでいただろうか。料理が得意な子に育っただろうか。好きな食べ物はじゃがいも、嫌いな食べ物は野菜全般だった。大人になったら、何が好きで何が嫌いだろう。勉強は何が得意で、何が苦手だろう。
こんなことを考えたって妹は生き返らないし、何の意味もない。あの時無邪気に親としゃべってた僕ができるのは、凪沙より幸せにならないことだ。幸せになどなってはいけない。私立中学を諦め、一番近い中学、高校、大学に進学し、今は真面目に先生をやっている。それでいい。
結婚も子どもを持つことも、最初っから選ばない。強引に押しに押され、付き合ったのは一人だけ。元カノとは、結婚しないことを伝えて間もなく別れた。もう十年も前のことだ。
日本の浜辺がなくなり、都会と呼ばれていた地域が沈んだように、妹が死んだあの日から僕の幸せは強引に沈めた。妹より浮いてはならない。親からそう頼まれたわけでも、誰かから恨まれたわけでもないが、僕は僕自身が望む幸せを手にしてはいけない。
こうしてサトウさんの部屋に呼ばれ、ごちそうになるなんて、今日限りだ。次もあるなんて、調子にのってはいけない。調子にのるな。のるんじゃない。
「お腹いっぱいですか?」
僕はしばらく、マリトッツォもコーヒーにも手を付けず、妹のことを考えていた。悪い癖だ。
「いえいえ。すみません。ちょっと考え事をしていて」
「いやっ、全然。でも……ほんとは不味かったですか? マリトッツォ。ほんとに正直に言ってもらって構わないので」
サトウさんは困り顔で僕を見つめる。
一瞬、凪沙の目とかぶった。
凪沙は勉強が苦手で、家で宿題をしているとよく僕を頼ってきた。
「お兄ちゃーん、計算分かんなーい」
「ねえ、お兄ちゃん。漢字あってるか見てー」
「お兄ちゃん」
「お兄ちゃん」
「お兄ちゃん」
僕をそう呼ぶ凪沙はもういない。
海を真水に変える装置がどれだけ進化しようが、新たな金属が山で発見されようが、人工の砂浜が効率的に増えようが、生クリームいっぱいのマリトッツォを食べようが、凪沙は帰ってこない。もういない。いないんだ。
「マリトッツォ美味しいですよ。ほんとに」
「あの……何考えてたか、聞いても大丈夫ですか?」
サトウさんは心配そうに問いかける。顔を見ないようにした。
「昔の人は、こんなに生クリームを食べてたのかと思うと、今は虚しいなあと」
せっかく家に呼んでもらって、腹いっぱいごちそうになって、妹のことは余計に話したくなかった。
「虚しい……。確かに、確かにそうですね。今は生クリームそのものが貴重ですし、昔のようにお店で気軽に買うなんて考えられないですもんね」
それから僕達はコーヒーとマリトッツォをのせたテーブルで、旧現代について話し込んだ。
「昔は四時間少ないなんて、どう生きてたんでしょうね。今より人も建物も多くて、植物も動物もたくさんで、文明も今よりずっとずっと発達していて。やりたいことがたくさんあったと思うんですよね。限られた時間で何をするか、誰と過ごすか、きっと、今より選ぶの大変ですよね」
「僕もそう思います。たくさんある楽しみの中から選ぶって大変だろうなと思います。今は不幸ではないかとたまに考えて、苦しくなります。選べる物があまりにも少なすぎる。楽でいいとも思いますけど」
「不幸……不幸ですか。海が広くなってしまって、たくさんの地域が沈んで、いろんな物が減ってしまったけれど、私は楽しいです。まだ作ってみたいお菓子がたくさんあるし、本もまだまだ読みたいですし、その、私は一日四十時間ぐらいほしいです」
四十時間。一日をもっと長くしたいなど、考えたことがない。
「僕には長すぎます。今、僕は一日の三、四時間は無駄にしていると思います。四十時間は目眩がしそうだ」
「千葉さんは、やってみたいことってないんですか?」
「特にありません」
つまらない人間とサトウさんに知られたくないが、みっともない嘘をつきたくもない。
「行ってみたい場所とかないですか?」
「そうですね、僕が行きたい所のほとんどは海の中です」
「もしかして東京ですか?」
「そうです。東京も、大阪も、千葉も、一度この目で賑わっているところを見てみたかった」
妹が生きてたって行けない場所。
「栄えてた頃の日本、生きてみたかったですね」
「ですね。あんなに人がたくさんいる街で電車に乗ったり、携帯電話を使ってみたかったです」
「私も原宿でクレープ食べたかったです。大阪ならたこ焼きやお好み焼き、福岡の屋台も行ってみたかったなあ」
「サトウさんは食べるのが本当に大好きなんですね」
こんなに細いのに。
「土地ごとに食べる物が違うって、今では珍しいですし、興味があります。東京、本で見るのとでは違うんでしょうね」
「でしょうね。本やモニターでは分からない匂いや空気を感じてみたかったです」
「ふふっ。ふふふっ」
笑われるようなこと、言っただろうか。
「僕、何か変なこと言いましたか?」
「いえ、あっ、すみません。笑ってしまって。さっき、やりたいことは特にないって言ってたのにあるじゃないですか。行ってみたいと思うことそのものは、やりたいことに含んでいいと思います。東京についてすらすら言えるのが、なんだかおかしくって」
「僕、特にありませんって言いましたね」
「ふふっ」
「ははっ」
「あ、初めて見ました。笑った顔」
笑って指摘された。
「図書館では笑わないですよ。僕一人で行きますし」
「まあ、それはそうですね。本を読みながら笑う人はあんまりいないですね。あ、でも、笑うと時間が早く過ぎますよ」
「そうなんですか。その情報は知らない」
「ふふっ。私の勝手な持論です。論文とか証明があるかは分からないです」
「持論ですか」
「持論です」
「ふふっ」
「ははっ」
僕が無心で笑い合うなんて。妹が死に、さらには故郷を地盤沈下で十五年前に失って以来、僕は他人と心から笑えなくなった。いや、そんなことよりもう二十七時前。
「こんな時間まで居座ってしまってすみません。そろそろ帰ります」
「私は全然問題ないです。こちらこそ、話に付き合ってもらってすみません」
「いえ、何も問題ないですよ」
明日休みだし。楽しいし。笑えたし。
「ここに誰かを呼ぶなんて初めてで、つい喋りすぎてしまって」
サトウさんは五年前の大地震で家族を亡くしたらしい。マグニチュード八で甚大な被害が起きた、東南アジア大地震。タイに旅行中だったご両親と弟さんはビルの下敷きになり、亡くなったそうだ。仕事を済ませ、後から旅行に参加するはずだったサトウさんだけが生き残った。その時のことを思い出してしまうため、タイ料理は食べられないらしい。
話の流れで妹のことをさっき話そうかと思ったが、やめた。
地震で家族が亡くなって、サトウさんは何も悪くない。
でも、妹の場合、僕にも父母にも非がある。妹から目を離したのが悪かった。サトウさんとは状況がまるで違う。
「今日はいろいろごちそうになって、すみません」
「いえいえ。急に誘ってすみません。一緒に話せて、とても楽しかったです」
「僕も楽しかったです」
「良かったら、また食事に来てください」
もちろん来たい。が、その先は望まない。食事して話すだけ。
「はい。ぜひ」
連絡先を聞いてもいいのだろうか。
「図書館で会ったら、声をかけてもいいですか」
何回でもかけてほしい。
「もちろんです。僕もその、ご迷惑にならない程度に」
「ぜひ」
まだ話したい。話し足りない。恋愛小説で『帰りたくない』という台詞を何度も読み、なんだよ、素直に言えばいいのにと思った。違う。言えないんだ。僕は愚かだ。
妹より幸せになるのは、心底申し訳ない。でも、妹を言い訳にしているとも自覚している。愚かで情けない僕を直視したくない。だから考えたくない。いろんなことを。
サトウさんと付き合えたら……。そんな妄想をしてこなかったわけじゃない。でも、妄想するうちに「お兄ちゃん」と呼ぶ凪沙が出てきて、僕は動けなくなる。
・
サトウさんは、僕と一緒に外へ出た。行きと違うのは傘がないことと、マリトッツォ入りの紙袋を持つ右手。夜空にはさらっと一振りしたかのように星が粒々と輝いている。細い三日月に飛び飛びの電灯は、歩くには心もとない。
「雨、あがって良かったですね」
「ほんとに良かったです」
ゲリラ豪雨やヤンニョムチキンを振り返りながら、マリトッツォ一個分を空けて並んで歩く。
ゆっくり歩くにも限界はあり、あっけなく広場に着く。仕方なく車に乗ってエンジンをかけ、窓を開ける。
「今日はごちそうさまでした」
「また遊びに来てください」
こんな時間でも笑顔が眩しい。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
サトウさんはほんのり笑顔で返す。
車をじっくりとバックさせ、一旦左に寄せた後、出口に向ける。すると、サトウさんが運転席に駆け寄ってきた。
「あの、これ、家の電話番号です」
おにぎりのイラストが薄く散りばめられたメモ用紙に、電話番号が載っている。
「その、先生ならお忙しいと思いますけど、その、もし、もし時間があって、お暇で、話す時間があったら、電話ください。もっと千葉さんと話したいです」
サトウさんは素直に丁寧に言葉をくるんで、あたたかく僕に投げる。ああ、なんて情けないんだ僕は。ことごとく気づくのが遅い。
「僕も、もっと話したいです。電話します。あ、ちょっと待ってください」
紙とペン。紙とペン。ああ、手が震える。情けない。
「これ、僕の電話番号です。平日は基本的に夜しか家にいませんし、土日もたまにいませんが、気にせずいつでも電話してください」
「ありがとうございます。かけます。絶対かけます」
「僕も絶対かけます」
汗をかくほど暑くもないのに、顔が熱くなる。焦る必要などないのに、鼓動が分かる。手はまだ震える。
「私、明日も図書館に二十二時までいます。もしお時間あれば、明日もお話しませんか」
「じゃあ僕、夜に図書館行きます。お仕事終わったらまた話しましょう」
「嬉しいです。駐輪場で待ってます」
さっき部屋で言えば良かった。もっと話したいって。
あんなに会話が続く相手、そうそう見つからない。恋人じゃなくていい。友達ですらなくていい。時々会って、興味があることをお互いにべらべらと話して、夜が過ぎる。そんな関係でいい。
こんな帰り際ギリギリで僕は情けない。妹のせいばかりにして。ほんとに。情けない。
「じゃあまた明日」
「はい。また明日。おやすみなさい」
サトウさんは摘みたてのさくらんぼのような笑顔で僕を送り出す。
「おやすみなさい」
サトウさんは手を振り、僕はすっと頭を下げる。ゆっくりと前を向き、アクセルをやんわりと踏む。
三日月が照らす山道は相変わらず暗い。二十七時なんて疲れが溜まってるはずなのに、僕は今、宇宙にでも行けそうなほど軽い。
サトウさんの自宅を知ってしまった。それに電話番号も。
こんな未来、世界一すごい予言者だって分からない。
「凪沙。お兄ちゃんな、凪沙のこと話してみようと思う」
誰もいない車内で宣言する。
妹が亡くなり、もうすぐ二十五年。
夏、特に夏休みは未だにしんどい。海も旅行も妹を思い出してしまう。
今日は話さなかったが、サトウさんになら凪沙のことを話してもいいと思えた。慰めてほしいわけじゃない。ただ、ようやく、誰かに話したくなった。
僕は妹を殺したも同然。でも、妹が生き返らないのと同じで、誰かに妹のことを話したって、僕が妹を見殺しにした事実も変わらない。だから、もういいんじゃないかな。無理に話さないのは。サトウさんと過ごして軽くなった今、そう思えた。気づくのが遅いけど。
「いつまでも沈みっぱなしじゃ、お兄ちゃん、生きるのが辛いよ」
妹より浮かないように、浮かないようにと生きてきたのは、誰のためなんだろう。家族がいないサトウさんは、料理を楽しみながら生きている。
明日、甘い物を買って図書館へ行こう。土曜なら村のケーキ屋は開いている。保護者からもらったクッキー、確か家にまだあったな。あれも持っていこう。韓国料理屋を探すのもいいな。川原先生、辛いもの好きだよな。明日聞いてみるか。いや、明日から三連休だ。
明日が遠い。一日が二十八時間なんて長すぎる。
(了)
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